『失われた時を求めて』岩波文庫(1)2018-11-01

2018-11-01 當山日出夫(とうやまひでお)

失われた時を求めて(1)

プルースト.吉川一義(訳).『失われた時を求めて 1』スワン家の方へⅠ(岩波文庫).岩波書店.2010
https://www.iwanami.co.jp/book/b270826.html

やまもも書斎記 2018年10月29日
『プルーストを読む』鈴木道彦
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/10/29/8985161

ともかく読み始めることにした。岩波文庫版で第一巻である。全一四巻になる予定。現段階(2018年10月)では、一二巻まで刊行。全巻完結まで待っていてもいいのかもしれないが、この作品は、読んでおきたいと思っているものの一つ。これまでに出ている訳としては、集英社文庫版(鈴木道彦訳)があるし、ちくま文庫版(井上究一郎訳)もある。

読み始めてみて……正直言って、少し難渋したところもある。ひたすら「私」の過去の思い出が、延々とつづられる。しかも、特に波瀾万丈の大活劇があるというのではない。少年のころの、ある土地とそこの人びと、そして、家族とのことで終始する。

「訳者あとがき」には「無意志的記憶」とある。この作品について言われるとき必ず登場するのが、マドレーヌと紅茶のエピソード。本を読んでいくと、このことから、話しが始まるというのではない。登場するのは、ちょっと読んでから。111ページのあたりである。

難渋しながら読んでいってみたのだが、終わりの方にきて、俄然、面白いと感じるようになる。それは、この作品が、喪失と哀惜の物語として読めることに気付いてからである。これは、誤解なのかもしれないが、この作品……少なくとも、第一巻の「スワン家の方へⅠ」……において、私が回想して書いていることは、すべて、失ってしまったものである。

マドレーヌと紅茶のエピソードにしても、それが、もはや永遠にとりかえしのつかないもの、失ってしまったもの、記憶の中によみがえるものでしかないもの……このようなものであると思って読んでみて、私には、はじめて共感できるものになる。

「そもそもこの通りを復元するにあたって私の夢想には、ふつう修復家が依拠するよりはるかに正確なデータがある。それは少年時代のコンブレーの実態について私の記憶のなかに保存されているイメージで、もしかすると今もなお存在する最後のイメージで、やがて消滅する運命にあるのかもしれない。」(p.356)

ここに描かれる人びと、草花、季節の移り変わり、様々な行事……これらは、幻想と追憶の中にあってこそ、より一層の存在感があるといってよい。

これは、後年の「私」が過去を振り返って書いたものということになる。

「いつか作家になろうとするからには、そろそろ何を書くかをわきまえるべきだと気付いた。」(p.371)

作家になろうという目でもって、自分の生いたちを振り返ってみて、そこに、もはや失われたもの、記憶の中によみがえらせるしかないものに気付く。その哀惜の念とでもいうべきものが、この第一巻のなかにある。

次は、第二巻で、場面は大きく変わるようだ。つづけて読むことにしようと思う。

追記 2018-11-03
この続きは、
やまもも書斎記 2018年11月3日
『失われた時を求めて』(岩波文庫)(2)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/11/03/8989475

『ブラック・スクリーム』ジェフリー・ディーヴァー2018-11-02

2018-11-02 當山日出夫(とうやまひでお)

ブラック・スクリーム

ジェフリー・ディーヴァー.池田真紀子(訳).『ブラック・スクリーム』.文藝春秋.2018
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163909219

毎年、秋になると、ジェフリー・ディーヴァーの新作の訳本が出る。恒例である。今年も買って読んだ。待っていれば、そのうち文庫版になるのだが、文庫になったからといってそう安くなるわけでもない。新作が出れば買って読むことにしている。これは、最初の『ボーン・コレクター』からの習慣のようなものである。

この作品、読み始めて……う~ん、さすがのジェフリー・ディーヴァーも、ここにきて行き詰まりを見せたか、と思うところがあった。これまでの作品のような一種の猟奇犯罪。今度は、誘拐した被害者が縛り首になるシーンを、動画投稿サイトにアップする、という手口。なんとなくマンネリかなと思って読んでいた。

そして、舞台は、イタリアに移る。イタリアで新たな犯罪がおこる。リンカーン・ライムもサックスとともにイタリアのナポリへ。ここも、これまで、主にニューヨークを舞台にしてきた作品であるが、そろそろ場所を変えてみたのか、しかし、ちょっと強引な感じだな、と思って読んでいた。

だが、終盤にきて、これらがさらなる次のドラマへの伏線になっていることになる。(ここから先は書かない。が、少なくとも、それまでの流れが不自然にならないような展開であることは確かである。)

この作品も、時事問題をあつかっている。(だから、ジェフリー・ディーヴァーの作品は、出てすぐに読んだ方がいい。といって、原書で読める語学力があるというわけではないので、翻訳が出るのを待って読んでいるのだが。)今回の事件の背景にあるのは、中近東の政情不安と移民・難民、それから、テロ。この国際情勢を背景にして、これから、リンカーン・ライムの新たな活躍の場が広がることになるようだ。

リンカーン・ライムの科学的な捜査手法……主に、物理とか化学にかかわる……では、新しいサイバー犯罪などには、あまり効果がないように思える。だが、世の中、人がいてなにがしかの犯罪にかかわる以上、まだまだリンカーン・ライムの手法は有効であると思わせる展開になっている。

これまでのシリーズをひきついで、十分に楽しめる作品にしあがっていると思う。

『失われた時を求めて』(岩波文庫)(2)2018-11-03

2018-11-03 當山日出夫(とうやまひでお)

失われた時を求めて(2)

プルースト.吉川一義(訳).『失われた時を求めて 2』スワン家の方へⅡ(岩波文庫).岩波書店.2011
https://www.iwanami.co.jp/book/b270828.html

続きである。
やまもも書斎記 2018年11月1日
『失われた時を求めて』岩波文庫(1)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/11/01/8986844

岩波文庫版の『失われた時を求めて』の第二巻である。第一巻につづけて読んだ。

この巻には、「スワン家の方へⅡ」として「スワンの恋」「土地の名-名」が収録してある。第一巻が、主に「私」の回想であったのに対して、この巻の「スワンの恋」では、スワンが主人公になる。(突然の変化にややとまどって読んだのだが。)

内容もがらりとかわる。スワンとオデットの恋が描かれる。そして、ヴェルデュラン夫人のサロンの様子。当時のパリのブルジョアである。

このあたりの歴史的、社会的背景については、私はほとんど知識がない。解説をたよりに理解したところでは、ブルジョア階層は、貴族とはまたちがった社会的階級に属していた。

それから、オデットという女性。この翻訳では、「ココット」(粋筋の女)となっている。これが、今の現代日本からはよく分からない存在である。強いて別の訳語をあてるなら、高級娼婦とでもなるのかもしれない。

ブルジョアのサロンに参加して、男性を相手にする。そこで、かなりの金額が動いているようである。だからといって、その金を出している男性に従属しているかというとそうでもない。独立した人格をもって判断し、行動している。ゾラの描いた「ナナ」などが、これに該当するのだろうか、などと思ってみるのだが、どうなのだろうか。

ともあれ、「スワンの恋」では、スワンのオデットへの恋、それもどちらかといえば片思いになるのだろうか、それが細かな心情描写で延々と書いてある。読んでみて、これは、一種の「恋愛論」なのだろうか、と思ったりもした。

はっきりいってよく分からないところもあるのだが……この作品におけるオデットの存在は、おそらく、文学に描かれた魅力的な女性のなかでも、際立っていると感じる。オデットは、スワンをどうおもっているのだろうか。恋敵(フォルシュヴィル)との間で、たくみに動き回って、スワンを手玉にとっているようである。

一九世紀末のパリのサロンを舞台にした、ブルジョア階層の恋愛物語、そのなかで自立した個性をもった女性としてのオデットの魅力、その魅力に振り回されるスワンという男性……それが、いくぶん滑稽な感じで描かれている。

次の第三巻を読むことにしよう。

追記 2018-11-08
この続きは、
やまもも書斎記 2018年11月8日
『失われた時を求めて』(岩波文庫)(3)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/11/08/8994163

『まんぷく』あれこれ「信じるんです!」2018-11-04

2018-11-04 當山日出夫(とうやまひでお)

『まんぷく』第5週「信じるんです!」
https://www.nhk.or.jp/mampuku/story/index05_181029.html

前回は、
やまもも書斎記 2018年10月28日
『まんぷく』あれこれ「私がみつけます!」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/10/28/8984677

この週の見どころは、次の二点だろうか。

第一に、判子屋をはじめた福子たち。

戦後の混乱のなかで、判子に需要があると判断した萬平と福子は、判子屋をはじめる。これが、かなりもうかることになる。

その時代の状況の中で、何が必要とされているのかを見抜く目が萬平にはある、ということなのであろう。これが、将来のインスタントラーメンの開発につながっていくにちがいない。

だが、判子を作るというのは、そんなに簡単なことではないと思うのだが、このあたりの考証はどうなのだろうかと思って見ていた。材料も道具も、そんなんに簡単に手にはいったと思えない。それより何より、技術がいる。

第二に、戦地から帰還した忠彦と真一。

無事に帰ってきたことを喜ぶ、克子とその家族であった。だが、忠彦は、戦地で目を負傷して、色の識別ができなくなってしまったという。これは、画家にとって致命的である。にも、かかわらず、忠彦はキャンバスに向かうことになる。

忠彦も真一も、戦地ではかなり悲惨なめにあってきたのだろう。そことのところの描写は、さりげなく描いてあった。

以上の二点を大きな軸にして、この週があった。

そして、福子は言う……克子にとって、忠彦は夫であり父である前に画家なのである、それと同じように、自分にとって萬平は、夫であるよりも前に発明家なのであると。この福子と萬平の関係が、これからのこのドラマの基軸になっていくにちがいない。

次週、舞台は海辺にうつるようだ。どのような展開がまっているか、楽しみに見ることにしよう。

追記 2018-11-11
この続きは、
やまもも書斎記 2018年11月11日
『まんぷく』あれこれ「お塩を作るんですか!?」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/11/11/8995655

「明治の禅僧 釈宗演」2018-11-05

2018-11-05 當山日出夫(とうやまひでお)

釈宗演

今年は、釈宗演がなくなって100年になる。慶應義塾大学では、その展覧会があった。釈宗演は、慶應義塾の出身者でもある。

やまもも書斎記 2018年6月21日
「釈宗演と近代日本」を見てきた
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/06/21/8899338

慶應での展示は、塾員という経歴、禅僧としての近代日本に重点をおいたものであった。

「明治の禅僧 釈宗演」をやっているのは、花園大学歴史博物館。花園大学は臨済宗の学校である。そのせいもあるのだろう、慶應義塾とのかかわりの展示とはなっていない。そうではなく、臨済の近代の禅僧の一人としての釈宗演という位置づけであった。

また、釈宗演は、花園大学の前身である、花園学院の学長にもついている。円覚寺、建長寺の管長も歴任している。そのような、臨済の目でみた釈宗演の事跡をたどる展示になっている。慶應での展示とあわせて見ることによって、その生涯の全貌がかいまみられる。

この展示、前期・後期とわかれている。後期の方もみておかねばと思っている。

『西郷どん』あれこれ「新しき国へ」2018-11-06

2018-11-06 當山日出夫(とうやまひでお)

『西郷どん』2018年11月4日、第41回「新しき国へ」
https://www.nhk.or.jp/segodon/story/41/

前回は、
やまもも書斎記 2018年10月30日
『西郷どん』あれこれ「波乱の新政府」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/10/30/8985666

明治篇になって、新しくはじまったドラマとしてみれば、それなりにうまくつくってある。明治になってからの各種のエピソードをちりばめながら、それをつないで見せる。どのシーンも、なるほどと思わせるつくりになっている。この意味では、このドラマの明治篇は、成功しているといっていいだろう。

だが、一年を通して見てきた目からすると、どうにもいただけない。

「西郷」は、近代の日本を建設した。だが、その近代の実際の姿は、思い描いていたようなものではなかった。これはこれでいいとして、では、幕末の時期に、どのような来たるべき日本の近代を思い描いていたというのだろう。確かに島津斉彬は先見の明があった。が、その斉彬が、どのような国家の将来をイメージしていたのか、これまでまったく描いてきていない。

それを思って見るならば、西郷と久光とのシーンなど、なんとなく白々しい。

幕末の時期において、諸外国の圧力の強まるなか、将来の日本の姿をどう考えていたのか。斉彬のみならず、慶喜も最後の将軍として幕府の次にきたるべきものをどうかんがえていたのであろうか。また、(このドラマでは描かれていないが)草莽の臣たちはどう思っていたのだろうか。ここのところが、このドラマで、まったく出てきていない。

ただ、このドラマで興味深いのは、明治天皇を登場させたことだろうか。ドラマに登場した明治天皇の姿については、賛否両論あるかもしれない。しかし、明治の草創期に明治天皇のはたした役割というものはある。

ドナルド・キーンの『明治天皇』(新潮文庫版、四巻)は、今年になって読んだ。

やまもも書斎記 2018年1月20日
『明治天皇』(一)ドナルド・キーン
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/01/20/8773017

ともあれ、明治篇になって、新しく始まったドラマとして見れば、これはこれで面白い。次回は、征韓論の一件になるようだ。このあたりも、ステレオタイプのドラマになるのだろうと思うが、これはこれでいいと思う。西南戦争に向けて、「近代」と「反近代」を内包したアンビバレントな「西郷」をどう描いていくか、次回も見ることにしよう。

追記 2018-11-13
この続きは、
やまもも書斎記 2018年11月13日
『西郷どん』あれこれ「両雄激突」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/11/13/8997195

ムラサキシキブの実2018-11-07

2018-11-07 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日は花の写真。今日は、ムラサキシキブの実である。

前回は、
やまもも書斎記 2018年10月31日
ホトトギス
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/10/31/8986470

ムラサキシキブの花を写したのは、今年の初夏のころである。

やまもも書斎記 2018年9月13日
ムラサキシキブの花
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/09/13/8959704

この花の写真を写しているとき、地震があった。大阪北部の地震である。地震の地鳴りというものを始めて体感した。写真を撮っていたのだが、とりあえず家にかえってテレビをつけたのを憶えている。

この花の写真を撮ったときは、今ひとつ、ムラサキシキブということに自信がなかったのだが、その後、散歩の時に目をむけてみると、小さな実をつけている。それも、観察してみると、日をおうごとに、紫色になり、さらにその紫の色も、だんだんに濃くなっていくことが観察される。

何度か散歩の時にカメラを持って出て、写してみたうちの何枚かである。来年の夏、また再びこの木に花の咲くときに写真が写せたらと思う次第である。

ムラサキシキブ

ムラサキシキブ

ムラサキシキブ

ムラサキシキブ

ムラサキシキブ

ムラサキシキブ

Nikon D7500
AF-S DX Micro NIKKOR 85mm f/3.5G ED VR

追記 2018-11-14
この続きは、
やまもも書斎記 2018年11月14日
センニンソウ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/11/14/8998643

『失われた時を求めて』(岩波文庫)(3)2018-11-08

2018-11-08 當山日出夫(とうやまひでお)

失われた時を求めて(3)

プルースト.吉川一義(訳).『失われた時を求めて 3』花咲く乙女たちのかげにⅠ(岩波文庫).岩波書店.2011
https://www.iwanami.co.jp/book/b270829.html

続きである。
やまもも書斎記 2018年11月3日
『失われた時を求めて』(岩波文庫)(2)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/11/03/8989475

この作品、特に波瀾万丈の大活劇があるというのではない。が、読み始めると、この作品の世界にひかれるとことがある。

岩波文庫で三巻目。この巻には、「花咲く乙女たちのかげにⅠ」をおさめる。

この巻も見どころはいくつかある。

まず、一九世紀末のパリの社交界の風俗描写があるだろう。その当時のブルジョアたちの生活がどんなであったか、具体的な店の名前などと友に活写される。

この巻になって、第二巻では、スワンの恋人であったオデットが、スワン夫人になる。そして、自分でサロンをもつようになっている。

また、作家であるベルゴットを軸に展開する、芸術への蘊蓄。

さらには、「私」とジルベルト(スワン夫婦の娘)との恋。

これら……パリでの生活、芸術論、恋のゆくすえ……が、ないまぜになって、この巻を構成している。読んでいって、途中で難渋するところもあっただが、しかし、読んでいって、ふと、小説の世界……特に、ジルベルトとの恋の行方を、行ったり来たりしながら描写してあるあたりになると、思わずに小説の世界の中に、入り込んでいることに気付く。小説世界の中に没入するとでもいうべきであろうか。

こういうのを文学というのだろうと思う。この作品は、一九世紀から二〇世紀にかけての作品である。一九世紀の自然主義的な心理描写をふまえながら、それを、意識の流れのなかに描いている。読んでいって、その意識の流れのなかに、自分自身が一緒に流されていくように感じるのである。

とにかく読んでおきたいと思って読み始めた作品であるが、もうそのとりこになってしまったようである。次の第四巻で、また、時がうつり場所も変わるようである。楽しみに読むことにしよう。

追記 2018-11-10
この続きは、
やまもも書斎記 2018年11月10日
『失われた時を求めて』(岩波文庫)(4)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/11/10/8995254

『日日是好日』森下典子2018-11-09

2018-11-09 當山日出夫(とうやまひでお)

日日是好日

森下典子.『日日是好日』(新潮文庫).新潮社.2008(飛鳥新社.2002)
https://www.shinchosha.co.jp/book/136351/

映画化されて話題になっている本である。読んでみることにした。

この本に接するのは、二度目である。かなり以前、NHKのラジオの朗読の時間に、この作品をとりあげていた。そのころ、たまたま、学校に通う時間帯で自動車を運転しているときに、この番組があった。自動車の中のラジオで、この本のことを知った。その時、これはいい本だなと思った記憶はあるのだが、読まずにすごして、今にいたっている。

この本を読んで(あるいは、二度目に接して)感じるところは、次の二点であろうか。

第一には、この本の文章は、耳で聴いてわかる文章であること。これは、私が、始めにこの本に接したのがラジオの朗読によってであるせいかかもしれないが、こんど、本を目で読んでみて、その平明で闊達な文章のたくみさを感じた。

第二には、これもラジオを聞いたとき、「ああ、このことは重要だな」と思って憶えていること。それは、お茶の稽古をするとき、メモをとることを禁じる場面である。新しい文庫本だと、56ページに出てくる。

古典的な芸道というのは、その教授法とともにある……これをさらに拡大して、近代になってからの学問的な知「学知」もまた、その教授法とともにある……これは、私の持論である。いつからこのことに自覚的になったかは憶えていない。しかし、このように考えるきっかけになった、あるいは、はっきりとこのようなことを意識しだしたきっかけになったものとして、この本のことがある。

以上の二点が、久しぶりに、この本を読んでみて(最初は、耳で聴いていただけだったが)、確認しておきたいことである。特に、ここで述べたことの後者の点、学知、あるいは、古典的な芸道というものは、その教授法とともにある……このことが、この本から学ぶべき重要な点であると考える。

この本は、お茶について、蘊蓄を傾けるというよりも、自分が若いときから習ってきて、その時々のエピソードをおりまぜながら、お茶の魅力について語っている。そして、これが、そのまま、お茶とは、その教授法……先生について習う……とワンセットになっていることが知られる。

もちろん、先生になどつかず、自分流に楽しむこともあっていいのだろう。そのような楽しみ方を否定するものではないが、しかし、しかるべき先生に教授してもらうことの意味、ということについて、教えてくれる。

お茶という芸事についてのみならず、学問、研究ということについても、そのあり方について、重要な示唆に富む本だと思う。

『失われた時を求めて』(岩波文庫)(4)2018-11-10

2018-11-10 當山日出夫(とうやまひでお)

失われた時を求めて(4)

プルースト.吉川一義(訳).『失われた時を求めて 4』花咲く乙女たちのかげにⅡ(岩波文庫).岩波書店.2012
https://www.iwanami.co.jp/book/b270830.html

続きである。
やまもも書斎記 2018年11月
『失われた時を求めて』(岩波文庫)(3)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/11/08/8994163

どうでもいいことかもしれないが、私の買ったのは、2016年の第4刷。今が、2018年であるから、あまり売れていないらしい。このあたりにくると、この作品に挫折する人が増えてくるということなのかもしれない・・・

だが、この巻は面白い。タイトルのとおり、乙女たちが登場する。その恋が魅力的である。

この巻を読んで私の感じたことを、率直に書くならば次の二点になる。

第一には、(このようなことをいまさらという気がしなくもないが)「ブルジョア」ということばの意味が、ようやく納得できた。これまで、社会経済史用語、歴史用語として、「ブルジョア」ということばは知っていた。また、場合によっては使ってもきた。しかし、それがどのような人びとを意味しているのか、いまひとつ得心しないでつかってきた。

それが、この巻を読んでいって、ああ、なるほど、「ブルジョア」というのは、こういう人たちの、このような生活のあり方をいうのか、と腑に落ちた。まさに、なるほどと納得したというところである。

このような読み方が出来るというのが、文学を読む楽しみというべきなのであろう。(場合によると、これは大きな誤解かもしれないのだが。)

第二には、この巻も、一九世紀的な自然主義風の叙述が、意識の流れのなかにたゆたっているという印象がある。「私」の意識の推移にともなって、この小説は進行する。そのなかにあって、アルベルチーヌとの恋心の描写には、読みながら、ついつい作品のなかにひきずりこまれるように感じた。文章の流れのままに、自分の意識がうつろっていくのである。

前の巻の、ジルベルトとの恋も魅力的であったが、この巻に描かれるアルベルチーヌとの恋も、その恋心のゆれうごきに、思わず心酔してしまうようなところがある。

これも、プルーストの小説を読む楽しみというべきところである。

以上の二点が、私が読んで感じた主な点である。

それから、この巻を読み始めて感じたことは、これは、鉄道の文学だな、ということがある。近代文学と、交通手段としての鉄道の普及には、非常につよい結びつきがある。例えば『アンナ・カレーニナ』。鉄道は、近代を象徴するものでもあろう。

次の巻で、さらにまた舞台は移るようだ。楽しみ読むことにしよう。この『失われた時を求めて』を読み始めて、他の本を手にとる気がしなくなっている。この小説に描かれた意識の流れのなかに、自分の気持ちをまかせているのは、この上ない読書の喜びである。

追記 2018-11-12
この続きは、
やまもも書斎記 2018年11月12日
『失われた時を求めて』岩波文庫(5)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/11/12/8996148