『源氏物語』岩波文庫(六) ― 2020-04-27
2020-04-27 當山日出夫(とうやまひでお)
柳井滋(他)(校注).『源氏物語(六)』(岩波文庫).岩波書店.2019
https://www.iwanami.co.jp/book/b458076.html
続きである。
やまもも書斎記 2020年4月20日
『源氏物語』岩波文庫(五)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/04/20/9237352
五冊目である。「柏木」から「幻」までをおさめる。この五冊目を読んで感じるところは次の二点ぐらいであろうか。
第一に、夕霧のこと。
「夕霧」の巻で、落葉宮との恋(あるいは、当時の風習にしたがえば、結婚といっていいか)が語られる。ここを読んで、いかにももどかしくあり、また、興味深いところがある。それは、光源氏の若いときの数々の恋にくらべて、いかにも、優柔不断という気がしてしまう。あるいは、雲井の雁との関係が面白いというべきか。
落葉宮との関係を読んでいると、近現代の恋愛小説を読んでいるような気にふとなったりもする。それほどまでに、ここのあたりで語られる恋というものが、人間の心理の綾に入り込んでいるというべきかもしれない。そして、ここでは、恋される側の女(落葉宮)と、男の妻(雲井の雁)との心理の交錯が、いったりきたりしながら描かれる。
このあたりになってくると、光源氏の「色好み」とはちょっと違った感覚で読むことになる。これは、続く、宇治十帖における、浮舟をめぐる恋の模様につながるものと感じる。「若菜 上下」ぐらいまでは、恋を描くのに、主に男性(光源氏)の視点で描いていた。それが、女性の視点から、恋される女の心理を描くようになってくる。
ここで描かれる恋は、むしろ近代のそれに近い感覚で読めるといってもいいだろう。
第二に、紫上の死。
「御法」「幻」の巻で描かれるのは、紫上の死である。おそらく、日本文学において、人間の死というものを、もっとも印象深く描いた作品であるといっていいだろう。
そして、すでにわかっていることだが、『源氏物語』では、光源氏の死を描かない。このことについては、この文庫本の解説で説明がある。読んでなるほどという気もする。だが、その一方で、もし光源氏の死を描くとしたら、どのように描けるのかとも思ってしまう。
紫上の死を描くことで、この『源氏物語』の主要な部分、紫上をめぐる物語は終わることになる。ある意味では、ここで、『源氏物語』は終わってもいいことなのかもしれない。これは、あまりに近代的な読み方かもしれない。(が、文学が文学であるというのは、近代、現代においても、それなりの読み方ができるということでもある。)
以上の二点が、この六冊目を読んで感じるところである。
それから、さらに書いてみるならば……紫上の死ということを描く一方で、小さな子どもの描写が印象的でもある。平安貴族の家庭というものを、現代の我々のそれと同じに考えることはできないだろうが、子どもをめぐる情感というものについては、共感するものがある。
さて、次は、七冊目になる。宇治十帖にはいることになる。続けてよむことにしたい。
2020年2月13日記
https://www.iwanami.co.jp/book/b458076.html
続きである。
やまもも書斎記 2020年4月20日
『源氏物語』岩波文庫(五)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/04/20/9237352
五冊目である。「柏木」から「幻」までをおさめる。この五冊目を読んで感じるところは次の二点ぐらいであろうか。
第一に、夕霧のこと。
「夕霧」の巻で、落葉宮との恋(あるいは、当時の風習にしたがえば、結婚といっていいか)が語られる。ここを読んで、いかにももどかしくあり、また、興味深いところがある。それは、光源氏の若いときの数々の恋にくらべて、いかにも、優柔不断という気がしてしまう。あるいは、雲井の雁との関係が面白いというべきか。
落葉宮との関係を読んでいると、近現代の恋愛小説を読んでいるような気にふとなったりもする。それほどまでに、ここのあたりで語られる恋というものが、人間の心理の綾に入り込んでいるというべきかもしれない。そして、ここでは、恋される側の女(落葉宮)と、男の妻(雲井の雁)との心理の交錯が、いったりきたりしながら描かれる。
このあたりになってくると、光源氏の「色好み」とはちょっと違った感覚で読むことになる。これは、続く、宇治十帖における、浮舟をめぐる恋の模様につながるものと感じる。「若菜 上下」ぐらいまでは、恋を描くのに、主に男性(光源氏)の視点で描いていた。それが、女性の視点から、恋される女の心理を描くようになってくる。
ここで描かれる恋は、むしろ近代のそれに近い感覚で読めるといってもいいだろう。
第二に、紫上の死。
「御法」「幻」の巻で描かれるのは、紫上の死である。おそらく、日本文学において、人間の死というものを、もっとも印象深く描いた作品であるといっていいだろう。
そして、すでにわかっていることだが、『源氏物語』では、光源氏の死を描かない。このことについては、この文庫本の解説で説明がある。読んでなるほどという気もする。だが、その一方で、もし光源氏の死を描くとしたら、どのように描けるのかとも思ってしまう。
紫上の死を描くことで、この『源氏物語』の主要な部分、紫上をめぐる物語は終わることになる。ある意味では、ここで、『源氏物語』は終わってもいいことなのかもしれない。これは、あまりに近代的な読み方かもしれない。(が、文学が文学であるというのは、近代、現代においても、それなりの読み方ができるということでもある。)
以上の二点が、この六冊目を読んで感じるところである。
それから、さらに書いてみるならば……紫上の死ということを描く一方で、小さな子どもの描写が印象的でもある。平安貴族の家庭というものを、現代の我々のそれと同じに考えることはできないだろうが、子どもをめぐる情感というものについては、共感するものがある。
さて、次は、七冊目になる。宇治十帖にはいることになる。続けてよむことにしたい。
2020年2月13日記
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