『虎に翼』「女三人あれば身代が潰れる?」2024-09-15

2024年9月15日 當山日出夫

『虎に翼』「女三人あれば身代が潰れる?」

このドラマについての違和感がどこにあるのか、いろいろ考えてみると、先の見通しのないままに登場人物を設定していることがある。その一つが、名前である。このドラマでは、寅子が星航一と結婚(内縁の関係)しても、佐田寅子を名乗っている。これは、結婚して名字を変えることについての抵抗からだった。これはこれとして、理解はできる。(無論、これは、モデルの三淵嘉子とも異なっているし、その時代にそのような考え方が一般的だったかどうかは別にして。)

もし、はじめからこのような方針……結婚して名字を変えることは理不尽である……という視点をもっていたなら、人間にとって名前はその生き方の本質にかかわる重要事項である、という認識にたっていたことになる。

この意味では、崔香淑/汐見香子という名前については、そう名乗ることの歴史的重みを描くべきだったと思う。そう簡単に、元にもどせるものでもないし、仲間だからといって、気楽に「ヒャンちゃん」と呼んでいいものでもないだろう。日本で、朝鮮語の名前を、朝鮮語音で読むことが一般化したのは、つい近年になってからである。同時に、漢字表記からカタカナ表記に変わってきたということもある。まさに、この女優の名前の表記が、「ハ・ヨンス」とカタカナである。

それよりも気になるのは、このドラマでは、名字の与えられていない役があることである。道男がそうである。玉も名字がない。稲も名字が分からないままである。また、名字だけで名がない役もある。新潟で出てきた森口がそうであるし、東京の雲野法律事務所の岩居もそうである。

人間にとって姓名が重要であると考えているのならば、このような役名については、理解に苦しむところである。通行人A、客B、などとは違うはずである。道男や玉などは、ドラマの進行において、かなり重要な役割を与えられている。(それが必ずしも成功しているは思えないが、作り手の意図としてはそうだろう。)しかし、名字がない。玉や稲のような女性の使用人(女中、家政婦)には名字がなくてもいいという発想があるとしたら、これを女性差別、職業差別と言わずしてなんといえばいいのだろうか。

おそらく、このドラマの作者は、夫婦別姓というようなテーマを、ドラマのなかであつかうつもりがないままに、スタートしてしまったということかもしれないと思わざるをえない。添え物のちょい役だから、名字がなくてもいい、と思っていたのだろう。だが、ドラマの進行にともなって、ただの脇役ではなくなってきても、今さら名字をつけることもできないので、そのままにしてある、ということかと思う。

であるならば、このドラマの作者は、夫婦別姓、人間にとっての名前の意味、ということについて、本気で考えてきていないということにならざるをえない。

登場人物の名前もドラマの一部である。私は、ドラマを見ても、登場人物がどう表記されているかもきちんと見る。バックのダンスの映像ばかり見ているわけではない。映画を見るとき、キャストロール、スタッフロールまできちんと見るというのが、マナーであるべきだと思ってきている。最近ではそうでもなくなってきているらしいが、このドラマの作者は、映画の鑑賞のマナーを知らないというべきだろうか。

このドラマの作者にとって、夫婦別姓のことは、視聴率をかせぐためにつかっただけで、本当はどうでもいいことなのかもしれない。

名前が人間にとって重要ということなら、戦後の混乱期に、戦災孤児などの戸籍の再作成ということも課題の一つだったはずだが、これについては、どうっだったろうか。寅子が、戸籍が不明になってしまった戦災孤児のことを案じたという場面があっただろうか。

名前については、猪爪の家族の名前も気になる。直言、直明、直治、直人、直正、直寅、と男性の名前には「直」が使ってある。また、星の家でも、子どもの名前は、朋一である。また、朋成という子どもも登場していた。初代最高裁長官だった星朋彦の「朋」が使われている。このような事例は、あきらかに、男性中心の家父長制的家族観の名残でしかないと思えるのだが、どうなのだろうか。おそらく、これは、ドラマの始めの方では、猪爪の家族の仲の良さをあらわすものとし、「直」を使う名前で設定したのだろう。しかし、ドラマの途中から、家父長的家族観否定という方向に向いてきてきたのだが、いまさら方針を変更するわけにもいかず、花江の孫に、直寅というような名前をつけることになってしまったのではないだろうかと思える。どうだろうか。要するに、このドラマは計画性がないのである。主張しているフェミニズムも、家父長制の否定も、男女別姓も、あとから思いついてとってつけただけのことなのである……としか思えない。だから薄っぺらい描写しかできない。

優未のことも釈然としない。

この週になって、寄生虫の勉強が好きになって大学院の博士課程まで進学したことになっていた。

まず、なぜ寄生虫に興味を持ったのか、その経緯がまったくなかった。何に対して興味を持つかは、人それぞれだとは思うが、それ以前に、知的好奇心にみちた子どもであったかどうか、ここのあたりが重要である。何か興味のあるものがあると、それにひかれて夢中になる、という性格ではなかった。研究者としては、普通の学校の勉強ができるかどうかもだが、このような性格(知的好奇心)であるかどうかが、きわめて重要である。

現在、日本寄生虫学会のHPを見ると、寄生虫について、研究のできるところというと、おおむね大学の医学部か獣医学部ということになる。となると、学部は六年間である。普通の大学の理学部で勉強したなら、航一の言っていた九年間の勉強で大学院の博士課程ということもありうるが、さて優未は、どんな大学にいったのだろうか。

もし、医学部か獣医学部に進学していたとするならば、学部を卒業して国家試験をとおれば、医師か獣医師の資格があることになる。その資格をいかして働くこともできるはずだが、航一の科白からは、そのようなことはなかった。

ここは、なぜ寄生虫の研究にすすんだのか、そのきっかけは、どの大学でどんな勉強をして、どんな先生がいて、どんな友達がいて、というあたりを少しでも描いておくべきことだったと思える。

優未と航一が言い争っていた。優美は、もうこれ以上寄生虫の研究をつづけても、その先にポストが保証されないからやめると言っていた。航一は、せめて大学院を修了するまで続けろと言っていた(今でいえば、単位取得退学である)。それについて、寅子は、優未に、勉強を辞める選択肢を与えるべきだと言って割ってはいった。ここで、どの地獄を選ぶかは自分で決めろ、という意味のことを言っていた。

このときの寅子の言ったことが不自然に思えてならない。かつて寅子は、高等試験(司法科)の受験が女性に可能になるかもしれないというだけで、明律大学の女子部に入学した。制度が正式に改まったわけでもなく、試験に受かる保証など約束されていなにもかかわらず、法律の勉強にはげんだ。また、戦後になって、裁判官に女性がなれないのはおかしいと言って、直談判で自分を裁判官に採用するよう求めた。まだ、女性を裁判官として採用するかどうか正式に決まっていないにもかかわらずである。

このような寅子の経歴を見ると、優未が大学院博士課程を終えてポストの保証があるかどうかわからないにしても、少しでもその可能性があるならチャレンジすべき、研究者への道を諦めてはいけない、と励ます立場であるはずだと感じるのだが、どうだろうか。(もしダメだったとしても、星の家での家事手伝いという立場があるのだが。)

どのようなことについても声をあげるべきだと、このドラマは主張したいようなのであるが、優未については、声をあげずに諦めろと言っていることになる。どうもこのあたり、ドラマで主張したいことと、寅子の言ったことが矛盾しているように思えてならない。そして、ここでは、寅子の言っていることが、これまでとブレていることになる。ただ、「地獄」ということばをふくんだ科白を言わせたかっただけのことに思える。

あいかわらず、このドラマは、時代の背景、世相を描かない。この週になって、突然、七〇年安保闘争、学生運動が出てきたり、公害問題が出てきたりしているが、これらは、当時の映像記録を見せただけで終わっていた。七〇年安保闘争にいたるまでの歴史的経緯、時代の変化……高度経済成長、大学進学率の増加、都市への人口移動、生活のスタイルの変化、それにともなう各種の社会の矛盾、ということにほとんど触れない。せいぜい、リビングにテレビがあるのと、電気炊飯器が出てきていたぐらいである。

当時の若者の意識がどうであったか、例えば、お茶の水あたりのジャズ喫茶や名曲喫茶(昔はこういうのがあったのである)で、薫か、あるいは優未が、友達と政治の話しをしていて、持っているカバンのなかには、『第二の性』とか『共同幻想論』があってもいい時代である。この時代、新潮文庫版の『第二の性』が刊行されているはずである。安田講堂の攻防戦の映像を使うよりも、学生の裁判の様子を描くよりも、よっぽどこの方が説得力がある。ただし、番組の制作コストは、少しかかるかもしれないが。

思想にも歴史がある、フェミニズムにも歴史がある、ということのためには、この時代、ひろく読まれた、しかし、今ではあまり読まれなくなった、『第二の性』を登場させておくべきかと、私は思う。

もし、笹寿司の店舗があったなら、その大将と常連客とのやりとりのなかで、その時代の世相を語らせることもできただろうと思うのだが、そうはなっていない。たとえば……このごろ女性のスカートが短くなってとか、俺の息子が大学生なんだけど……というような会話でもいい(ミニスカートの流行も女性の歴史の一コマである)。市民の視点から見た司法、という観点からも、このような設定にしておくべきだったと思えてならない。裁判の傍聴が趣味というまたとない人物でありながら、無駄に消えてしまっていた。

薫や崔香淑/汐見香子のことについても、描き方が粗雑だと感じる。日本にいる朝鮮人、その子どものことについて描くならば、日韓基本条約のことが重要な意味があるはずだが、まったく出てこない。このドラマでは、朝鮮戦争のことを無視してきたのから、いたしかたないかもしれないが。

どうでもいいことかもしれないが、崔香淑/汐見香子が、座り方を朝鮮式に改める場面があった。朝鮮人なのだから、その風習にならったということなのだろうが、しかし、これは、朝鮮の社会や文化のなかにある、男女の違いの明示化でもある。日本人の男女差は非難するが、朝鮮の男女差は歓迎する、ではちょっとおかしい。筋がとおっていない。

少年法の改正問題についても、よく分からない描き方であった。そもそも、戦後になって家庭裁判所が出来るとき、多岐川が登場して、寅子が手伝うということはあった。そのとき、多岐川が、家庭裁判所の理念を語っていたのは印象的である。水行のシーンだった。(このシーンは、今日の価値観では、完全にセクハラとしてアウトである。)だが、具体的に、それまでの少年犯罪がどうあつかわれ、戦後の家庭裁判所でどう変化したのか、そこのところがほとんど描かれてきていない。なのに、ここにきて、急に少年法の改正が問題になって、という展開になっても、意味がわからない。

たとえば、少年院に行くことになったが、無事に更生して働いている、というような少年の姿が、まったく出てきていない。上野の山田轟法律事務所では、恵まれない少年少女の面倒をみていた。そのなかに、少年法とかかわる子どもがいてもよかったが、そのようにはなっていなかった。

少年法改正の背景には、当時の世相が影響してのことであるらしい。だが、その当時の世相を、突然に記録映像として出してきても、ドラマのこれまでの流れのなかで意味がわからない。学生運動が、少年法改正の議論の背景にあるような描き方だったが、それよりも重要なのは、その他の少年犯罪の実態と、それに対する世の中の人びとの意識であったはずである。

たしか新潟の裁判所で、一九才と二〇才の年の違いはなんなんだ、と言った少年が法廷にいたことがあった。そのとき、寅子は裁判官として、その少年と対峙していた。このとき、寅子が、その少年の問いかけに答えるというシーンはなかった。法廷で答えられなくて、後で自分一人になって考えるということもなかった。もし、このようなシーンがあったなら、少年法の改正について、寅子がどう考えるか、少しは説得力のある展開になったはずである。寅子は、新潟に行って初心にかえって勉強しなおしてくると言っていたかと思うのだが、いったい何を学んだというのだろうか。

この週のはじまりのところで、女性の法曹のあつまりが、笹竹(竹もと)であった。女性は裁判官に向いていないという、最高裁での見解(この時点では非公式)について、仲間で議論するためだった。このとき、秋山がいなかった。裁判官として寅子の後輩で、妊娠、出産について相談していた。寅子は、秋山の居場所を作ると、言っていた。であるならば、せめて科白で、秋山さんは転勤でどこそこに行ってしまっているけど、後で私が連絡しておく、と語るようなことがあってしかるべきだろう。それさえなかったということは、秋山のエピソードも、ただそのときの寅子の科白を言わせたいだけのもので、登場人物としては使い捨て、ということになるが、それでいいのだろうか。あるいは、秋山が、出産を機に裁判官を辞めることになったとしたならば、そのことについて言及がないのはおかしい。このドラマの作者は、本当に法曹で働く女性のことを考えて作っているのだろうかと、思うことになる。

ともかく、このドラマの始めの方では、穂高先生という法律について考えるときの軸になる人物がいた。だから、寅子はぶれないでいられた。その穂高先生を退場させてしまって、代わりになる人物がいない。場合によっては、百合が元最高裁長官の妻ということで、ドラマの軸になりえたかもしれないが、そうはなっていなかった。

その他、尊属殺人のあつかいかたなど、いろいろと思うことはあるが、これぐらいにしておきたい。

2024年9月13日記