『光る君へ』「川辺の誓い」2024-11-04

2024年11月4日 當山日出夫

『光る君へ』「川辺の誓い」

まひろ/藤式部は、「雲隠」と書いていた。光源氏は死んだことになる。

つまり、「若菜」(上下)の巻は書いてしまった後ということになるのだが、ドラマの展開としては、この流れはやはりもの足りない。「若菜」(上下)で描かれる女三宮の不義密通の事件をめぐって懊悩する光源氏の姿、これこそ『源氏物語』の最も重要な部分になるはずである。このことと、藤原道長、彰子、一条帝、これらの人たちが、読んでどう思うことになるのか、ここのところを描いてほしかった。

しかし、大石静の力をもってしても、これは難しい注文であったということになるだろうか。だから、あっさりと「雲隠」になってしまった、このように見ることになる。

この意味では、『源氏物語』の作者である紫式部をドラマで描くという意図としては、かなり後退した脚本になってしまっていると思うのだが、まあ、仕方ないことかもしれない。

三条天皇は、道長を疎んじて、いわゆる天皇親政を行おうとしているように見える。このあたりは、実際に歴史学の方でどのように考えられていることなのだろうか。天皇親政というと、ずっと後の後醍醐天皇のことを思ってしまう。

道長や公任たちの会食の場面は、今でいえば、政治家が料亭であつまって、政策の根回しをしている、というイメージである。実際、この時代の政治はどのような意志決定のプロセスを経ていたのだろうか。

天皇のお后(中宮)が、後宮の自分の局で、若い男性貴族を集めて酒宴にふける、というのは、実際にはどうだったのだろうか。まあ、そのようなことがあってもおかしくはないのかもしれないが、これはどうだったのだろうという気持ちにはなる。

まひろ/藤式部は、宮中の自分の局で物語りを書くときは、女房としての正装である。これは、書きにくいだろうと思って毎回見ているのだが、はたしてどうだったのだろうか。『源氏物語』の構想に苦悩する紫式部という姿は、このドラマでは描かれない。物語の原稿(?)にも推敲のあとがない。

まひろが自分の家で久しぶりに琵琶を演奏していた。私も出家しようかしら、と言っていたが、どこまで本気だったのだろうか。

この回の終わりの方で、道長は宇治で静養してそこをまひろが訪れるという設定になっていた。おそらくは宇治十帖が書かれることの準備である。私は、子どものときから高校を出るまで、宇治市に住んでいたので感じることでもあるが、京の都から宇治は、やはりかなりの距離がある。頑張れば歩いていけない距離ではない。現代なら、JRの奈良線、あるいは、京阪で中書島で乗り換えて宇治線、である。自動車なら、国道二四号線を使う。あるいは、第二京阪道から京滋バイパスである。まあ、いずれにしても、今の交通機関なら割と簡単に行けるところであるが、平安時代の昔はどうしていたのだろうか。途中には巨椋池の湿地帯が広がっていたはずである。この名残は、今から数十年前まであった。京の都から、女性であるまひろがサンダル履きで歩いて行ったのだろうか。

さて、光源氏が死んで、その後の宇治十帖の物語をどう構想して書くことになる。そこには、作者であるまひろにどのような気持ちの変化があったのか。これからの展開で一番気になるのは、何を契機として、まひろの名前が、藤式部から紫式部に変わるのか、ということである。

2024年11月3日記

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