『べらぼう』「千客万来『一目千本』」 ― 2025-01-20
2025年1月20日 當山日出夫
『べらぼう』 千客万来『一目千本』
吉原が繁盛することが、そこで働く女性たちにとっていいことなのかどうか、これは、ちょっと考えるところである。その当時の価値観として、吉原は悪所ではあったが、同時に、幕府から公認された場所でもあった。そこでの女性の幸福とはなんであるのだろうか。(強いていえば、運良く身請けされること、ということになるのかもしれないが。)
長谷川平蔵が、この回でも野暮として描かれていた。金の切れ目が~~ということで、もう吉原で花魁と遊ぶこともできない、となったところで、大通のふるまいを見せることになる。次回以降も鬼平は登場することになるのだろうか。
「吉原細見」の改版でお客を呼ぼうという目論みであるのだが、そもそも、文字が読める人でないと、本を読まない。どうしても気になるのは、この時代の識字率である。吉原は貧乏人がそう簡単に行けるようなところではなかったろうから、ここの客になるような人間は、それなりに文字の読める人だった、ということでいいのだろうか。
おそらく、文字の読めないような男性たちは、行くとすれば近場の岡場所ということになったのかと、想像してみる。
田沼意次は、本当に吉原細見を読んだのだろうか。吉原細見など、幕閣がそんなに手にとって見るようなものではないと思うのだけれど。
蔦屋重三郎が、北尾重政と組んで、吉原の花魁たちを花に見立てたガイドブックを作ったことは、史実のとおりということになる。
ここで、私が考えてみたいと思うのは、吉原の女性に名前がなぜ必要だったのか、という素朴な疑問である。ただ、性の相手であるならば、特に固有名詞が必要ではないかもしれない。その場かぎり、一夜かぎりの、はかない縁であってもいいのかもしれないし、むしろその方が後腐れがなくていいともいえよう。だが、吉原では女郎に名前がある。いわゆる源氏名である。これは、現在までも水商売において引き継がれていることだともいえるかもしれない。
女郎である女性たちに名前が必要であったとして、では、客である男性は、店にあがるときに、自らの名前を名乗ったのであろうか。これは、ちょっと考えにくい。
さて、性と名前ということは、どのような関係にあるのだろうか。(このあたりのことについては、先端のジェンダー論で何か言われていることかもしれないが、もう、そのような論考を探して読んでみようという気にもならないでいる。)
女郎を花にたとえることの大きな前提として、江戸時代の人びとの間で、植物や園芸についての知識がひろまっていなければならない。これを背景として、専門的には本草学という分野の成立ということになる。平賀源内は、ドラマのなかで、本草学者とも紹介されているのだが、その本草学の領域に植物の知識もふくまれるはずである。どうもドラマのなかの本草学者というと、山師というようなイメージになってしまっている。(ちなみに、江戸時代の本草学の延長として、『らんまん』で描かれた、その後の牧野富太郎の仕事もあることになる。)
江戸時代は、園芸のさかんな時代でもあったはずである。その典型が朝顔の栽培である。武家屋敷の庭園なども、今に残っているものもある。六義園などがそうである。こういう時代背景、人びとの感覚を、もうすこし描いてあった方が、より説得力が増すだろう。
それにしても、女性を花にたとえるという趣向は、蔦屋重三郎の独創という感じはしないのだが、歴史的にふり返ってみるとどうなのだろうか。『源氏物語』に出てくる女性たちの名前は、花の名前のことがある。夕顔とか葵上とか。文化史として、女生と花、という観点からは、何を考えることができるだろうか。(これも、しかるべき研究があるかとも思うのだが。)
花の井は、オトコエシに見立てられていた。
このドラマは、奥行きのある映像を演出しようとしていると感じる。半逆光ぐらいで、登場人物の輪郭を光でうかびあがらせて、背景を暗くして奥行きを感じさせる。このような映像の作り方をしている場面が、いくつかあったかと思って見ている。
花魁たちの化粧については、これは時代考証の結果もあるのだろうが、かなり現代的な雰囲気で、かなり妖艶なものになっている。かなり凝った映像として、見せようとしていると感じる。
弁柄格子の色が印象的に使われている。また、その中にいる女性の視点と、外からそれを見る男性の視点と、両方を描こうとしていると感じさせる。
吉原が舞台のドラマであるから、床下手、腹の上で死ぬ、というようなことばが使われてもおかしくはないのだが、どういうことかは見るものの想像力ということになる。
入銀本のことだが、要するに蔦屋重三郎はウソをつく、はったりで仕事をするのがたくみである、ということになるのかもしれない。このような素地があってこそ、いわゆるこの番組でいうところの江戸のメディア王という存在になり得た、ということになる。そして、重要なことは、何かを作ることは楽しいことだ、ということを知ったことである。
田沼意次がどのような政治を構想していたか、その理念ということが、まだ明らかに描かれてはいない。一般に、田沼意次は悪者のイメージであるが、その人物像と政治の判断とは、どうかかわるのか、というあたりのこともこれから、ということになるのだろう。
家治と田沼意次が、江戸城内を歩くシーン。天井を映してあった。これは、セットも撮影も凝ったものということになる。
大河ドラマで、おにぎりが出てくると、あまりいい印象がない。(もうやめてほしい。)
本を作って、その板木の管理はどうなっていたのだろうか。近年、急速に研究の進んだ分野として、江戸の木版本の板木の研究がある。
ドラマのこの段階では、本は、商品としてあつかわれていない。吉原に客を呼ぶための手段として見られている。ビジネスとしての、出版ということと、蔦屋重三郎のこれからは、どうかかわることになるのだろうか。
最後の紀行で、岩瀬文庫が登場していた。この施設が、このように紹介されることは珍しいことかもしれない。
2025年1月19日記
『べらぼう』 千客万来『一目千本』
吉原が繁盛することが、そこで働く女性たちにとっていいことなのかどうか、これは、ちょっと考えるところである。その当時の価値観として、吉原は悪所ではあったが、同時に、幕府から公認された場所でもあった。そこでの女性の幸福とはなんであるのだろうか。(強いていえば、運良く身請けされること、ということになるのかもしれないが。)
長谷川平蔵が、この回でも野暮として描かれていた。金の切れ目が~~ということで、もう吉原で花魁と遊ぶこともできない、となったところで、大通のふるまいを見せることになる。次回以降も鬼平は登場することになるのだろうか。
「吉原細見」の改版でお客を呼ぼうという目論みであるのだが、そもそも、文字が読める人でないと、本を読まない。どうしても気になるのは、この時代の識字率である。吉原は貧乏人がそう簡単に行けるようなところではなかったろうから、ここの客になるような人間は、それなりに文字の読める人だった、ということでいいのだろうか。
おそらく、文字の読めないような男性たちは、行くとすれば近場の岡場所ということになったのかと、想像してみる。
田沼意次は、本当に吉原細見を読んだのだろうか。吉原細見など、幕閣がそんなに手にとって見るようなものではないと思うのだけれど。
蔦屋重三郎が、北尾重政と組んで、吉原の花魁たちを花に見立てたガイドブックを作ったことは、史実のとおりということになる。
ここで、私が考えてみたいと思うのは、吉原の女性に名前がなぜ必要だったのか、という素朴な疑問である。ただ、性の相手であるならば、特に固有名詞が必要ではないかもしれない。その場かぎり、一夜かぎりの、はかない縁であってもいいのかもしれないし、むしろその方が後腐れがなくていいともいえよう。だが、吉原では女郎に名前がある。いわゆる源氏名である。これは、現在までも水商売において引き継がれていることだともいえるかもしれない。
女郎である女性たちに名前が必要であったとして、では、客である男性は、店にあがるときに、自らの名前を名乗ったのであろうか。これは、ちょっと考えにくい。
さて、性と名前ということは、どのような関係にあるのだろうか。(このあたりのことについては、先端のジェンダー論で何か言われていることかもしれないが、もう、そのような論考を探して読んでみようという気にもならないでいる。)
女郎を花にたとえることの大きな前提として、江戸時代の人びとの間で、植物や園芸についての知識がひろまっていなければならない。これを背景として、専門的には本草学という分野の成立ということになる。平賀源内は、ドラマのなかで、本草学者とも紹介されているのだが、その本草学の領域に植物の知識もふくまれるはずである。どうもドラマのなかの本草学者というと、山師というようなイメージになってしまっている。(ちなみに、江戸時代の本草学の延長として、『らんまん』で描かれた、その後の牧野富太郎の仕事もあることになる。)
江戸時代は、園芸のさかんな時代でもあったはずである。その典型が朝顔の栽培である。武家屋敷の庭園なども、今に残っているものもある。六義園などがそうである。こういう時代背景、人びとの感覚を、もうすこし描いてあった方が、より説得力が増すだろう。
それにしても、女性を花にたとえるという趣向は、蔦屋重三郎の独創という感じはしないのだが、歴史的にふり返ってみるとどうなのだろうか。『源氏物語』に出てくる女性たちの名前は、花の名前のことがある。夕顔とか葵上とか。文化史として、女生と花、という観点からは、何を考えることができるだろうか。(これも、しかるべき研究があるかとも思うのだが。)
花の井は、オトコエシに見立てられていた。
このドラマは、奥行きのある映像を演出しようとしていると感じる。半逆光ぐらいで、登場人物の輪郭を光でうかびあがらせて、背景を暗くして奥行きを感じさせる。このような映像の作り方をしている場面が、いくつかあったかと思って見ている。
花魁たちの化粧については、これは時代考証の結果もあるのだろうが、かなり現代的な雰囲気で、かなり妖艶なものになっている。かなり凝った映像として、見せようとしていると感じる。
弁柄格子の色が印象的に使われている。また、その中にいる女性の視点と、外からそれを見る男性の視点と、両方を描こうとしていると感じさせる。
吉原が舞台のドラマであるから、床下手、腹の上で死ぬ、というようなことばが使われてもおかしくはないのだが、どういうことかは見るものの想像力ということになる。
入銀本のことだが、要するに蔦屋重三郎はウソをつく、はったりで仕事をするのがたくみである、ということになるのかもしれない。このような素地があってこそ、いわゆるこの番組でいうところの江戸のメディア王という存在になり得た、ということになる。そして、重要なことは、何かを作ることは楽しいことだ、ということを知ったことである。
田沼意次がどのような政治を構想していたか、その理念ということが、まだ明らかに描かれてはいない。一般に、田沼意次は悪者のイメージであるが、その人物像と政治の判断とは、どうかかわるのか、というあたりのこともこれから、ということになるのだろう。
家治と田沼意次が、江戸城内を歩くシーン。天井を映してあった。これは、セットも撮影も凝ったものということになる。
大河ドラマで、おにぎりが出てくると、あまりいい印象がない。(もうやめてほしい。)
本を作って、その板木の管理はどうなっていたのだろうか。近年、急速に研究の進んだ分野として、江戸の木版本の板木の研究がある。
ドラマのこの段階では、本は、商品としてあつかわれていない。吉原に客を呼ぶための手段として見られている。ビジネスとしての、出版ということと、蔦屋重三郎のこれからは、どうかかわることになるのだろうか。
最後の紀行で、岩瀬文庫が登場していた。この施設が、このように紹介されることは珍しいことかもしれない。
2025年1月19日記
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