NHKスペシャル「臨界世界 -ON THE EDGE- 女性兵士 絶望の戦場」 ― 2025-02-25
2025年2月25日 當山日出夫
NHKスペシャル 臨界世界 -ON THE EDGE- 女性兵士 絶望の戦場
こういう番組を見ることができるというのは、幸せなことなのか、それとも、不幸なことなのか。少なくとも見ていて幸せな気分になることはないが、しかし、世の中のこういう現実があることを、忘れてはいけない。
見ながら思いうかんだ本の名前をあげてみると、『戦争は女の顔をしていない』(スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ、三浦みどり訳)、『同志少女よ、敵を撃て』(逢坂冬馬)、『俘虜記』(大岡昇平)、などがある。たぶん、同じようなことを思った人は多いのではないかと思う。
戦場、そして、戦争をしている国の人びとの心理……ということから、考えることになる。無論、女性兵士だからということについて考えることもできるが、そういう特殊性よりも、戦場における兵士の心理として、一般的に思うことの方が強い。
いろいろと思うことはある。ただ、戦場においてこのような極限の心理状態におかれた兵士がいて、その一方で、政治的に戦争の終結を画策するというのが、世界の現実である、とは思っておいた方がいいだろう。
日本は、(幸いと言っていいかどうかとは思うが)この戦争の当事者ではない。だからこそ、戦場において、人間はどのような心理状態になるものなのか、冷静に考える余地を持っているといっていいだろう。こういうことをきちんと踏まえなければ、観念的に平和と言ってみても、非常にむなしいものに思えてくる。
戦争を終わらせるために、おそらく一番の障害になるのが、この戦争にこれだけの人びとが戦い犠牲になった、戦死した兵士たちの血を無駄にしてはいけない……という、心情というか、論理、であろう。こういう気持ちになることは理解しなければならないことだとは思うが、同時に、冷静な政治的判断においては排除しなければならない要素であることも確かである。課題は、このような人びとの心情を、ウクライナの多くの国民、そして、敵対するロシアの国民が、双方ともに納得できる形に持って行けるかどうか、だと思っている。これこそが、戦争を終結させることのできる、政治的指導者の力量である。
しかしながら、ウクライナでの戦争の最前線は、昔ながらの(という言い方しかできないのだが)突撃歩兵による銃撃戦であるというのは、戦争とはこういうものなのか、と考えることになる。
いくら無人兵器が発達しても、最後は、その戦場で人間が血を流すということがないと、士気をふるいたたせることができない、あるいは、あきらめることができない、というのが、人間というものなのであろう。
以前、何かのテレビ番組で、小泉悠が、もし台湾有事となった場合、無人兵器だけの戦闘で勝負がつくか、国民が納得するか……という意味のことを言っていて、そういうものなのだろうかと思って聞いていた。はたして、ウクライナやロシアの人びとは、どのような感覚でこの戦争を受けとめているのだろうか。NHKが作る番組だからということもあるが、基本的にウクライナ寄りの視点である。だが、戦争を終わらせるには、ウクライナだけではなくロシアの国民感情のゆくえも、考慮にいれなければならないはずである。それを双方ともに、それぞれのあり方で納得させることができてこその、高度な政治的判断ということになるにちがいない。
日本にできることは、余計な口出しをしない、ということぐらいだろうか。そして、このウクライナの現実が、明日の極東アジアに起こらないという保証はない。
2025年2月24日記
アナザーストーリーズ「あさま山荘事件 立てこもり10日間の真相」 ― 2025-02-25
2025年2月25日 當山日出夫
アナザーストーリーズ 「あさま山荘事件 立てこもり10日間の真相」
再放送である。最初は、2021年2月17日。
あさま山荘事件が起こったのは、1972年の2月。このときのことは記憶している。毎日、テレビにかじりついていたということではなかったが、(この時期なら普通は学校に通っていたはずである)、ニュースで大きく取りあげられたことは、はっきりと憶えている。これをふくめて、一連の連合赤軍事件の全貌が明るみに出て、世の中の潮流が大きく変わったのを実感している。
私が、今もって、いわゆる現在のリベラルを信用しきれないのは、連合赤軍のことが体験的に記憶していることだからである。権力への抵抗ということはそれなりに認めながらも、その活動それ自体が自己目的化したときどうなるか、それが暴走したときどうなるか、その危険を忘れることができないからである。たぶん、現在、70才以上の人間の多くはそうだろうと思う。いやこれよりも、思想の教条化ということへの危惧である。この観点では、別にリベラルが嫌いというのではなく、いわゆる保守的な立場についても、そう思う。自分がなぜその考え方をするのか、ということについての自省を含まない思想は、危険なのである。世の中、どちらかといえば、いわゆるリベラルの方が、自省の抑制がきかないことが多い。保守思想は、(本来の意味としては)何を保守するべきなのか自省をともなうものである。
あさま山荘事件については、これまで多くのドキュメンタリー番組であつかわれてきているし、佐々敦行が現場の指揮官だったことも、後に知ったことである。このときの警視総監は、後藤田正晴。
興味深いのは、犯人の視点からの部分。裁判が終わり、刑期をつとめれば、一般の人間として生活できる。そのインタビューが興味深い。あさま山荘にたてこもったのは、逃避行のなりゆきでたまたまの偶然の結果、ということらしい。人質を交渉材料につかって、何かをなしとげよう、ということではなかった。これはそうだったのかもしれないが、無計画というか、無謀というか、もうちょっと考えて行動していればという気になる。(まあ、考える余裕があったのなら、そもそもこのような事件の結末にいたることはなかっただろうが。)
この当時、機動隊の盾では銃弾を防ぐことはできなかった。これは、今では、どう改良されているのだろうか。現実に起こりうる事態として、カラシニコフを連射されても防ぐことはできるのだろうか。あるいは、これは秘密事項なのか。
犯人を生きたまま捕らえる、これが警察の至上命題だったことは、そうだろうと思う。死んでしまえば英雄視されることになる。テレビのカメラが、銃を持っている姿を捕らえることができているのだから、腕利きのスナイパーなら仕留めることは可能だったかもしれないが、それは選択肢から排除されたことになる。(どうでもいいことだが、重信房子が日本に戻ってきたとき、英雄の凱旋のごとく出迎えていたのが、日本のジャーナリズムの一部であることは、確かなことである。)
警察側が二名の殉職者を出したことは、そうなのだが、防ぐことは可能だったかもしれない。あるいは、二名の殉職者で済んだことは僥倖だったのか。おそらく、テロ対策の専門家などにおいては、きちんとした検証がされているのだろうと思う。
この番組では、人質になった女性の名前を出していた。これまでに見た番組では、その女性の名前は伏せていた場合もあったかと思うが、番組の全体の構成を考えると、名前は出さざるを得ないし、だからといって、特に問題が生じるということはないように思える。
番組の最後に、警察において、殉職者への顕彰碑が映っていたが、このことはもっと一般に知られていいことだと思う。
2025年2月19日記
Asia Insight「中国 仮想恋愛に生きる女性たち」 ― 2025-02-25
2025年2月25日 當山日出夫
Asia Insight 中国 仮想恋愛に生きる女性たち
今の時代、こういう女性たちがいてもおかしくはないと思うのだが、中国では、その市場規模はかなりのものになっているらしい。これも、もうちょっとすると、女性が結婚しない理由として、当局が規制に乗り出しても、これもおかしくはない。女性向けの、乙女ゲームがあるのだから、当然、男性向けの恋愛ゲームがあってもいいだろう。
リアルな社会で、実際の男性では満足できず、バーチャル世界でのことの方に充足感を覚える……ちょっと考えると、(私の感覚としては)病的とも感じるのだが、今の時代において、若い人たちが、このような感覚をいだくようになることは、たしかにあるのだろう。
現実の世界においては、自分は全肯定されない、しかし、バーチャル世界なら、自分を全肯定してくれる相手がいる。しかし、実際のリアルの世界において、人の全肯定も全否定も、そうあることではなく、程度の問題かなと思うところもあるのだが、今の中国社会の若者の感覚では、自分が全肯定される世界でなければ生きていけないということになっているのだろう。
親が自分のことを全肯定してくれない、といいながら、一緒に画面のなかに収まっている光景は、奇妙な印象を与える。少しでも不満があると、自分が全面的に否定されたように感じてしまうということなのかもしれないが、これはこれで、いささか問題があるようにも感じる。世の中、適当に折り合いをつけていきながら、人間は生きていくものだ、という感覚にはなれないのだろうか。
そうはいっても、月に20万の収入がありながら、親と一緒に生活していて、自立できていないと責められるのは、周囲の人びとの問題かもしれないし、本人の気持ちの持ち方の問題かもしれない。
その年齢なら普通なら結婚して子どももいる……ということは、そう親が思うことはあっても、はっきりそう言うことではないようにも思える。日本でも、特に地方に住む女性については、いろいろと言われることではあるが、都市部では、普通はそこまで露骨に言うことはないだろう。
コス委託というのは、まあ、そういう需要があるのだろうとは思う。しかし、これに収入のほとんどをつぎ込んでしまうというのも、ちょっとどうかなと思う。だが、日本で問題になっているように、ホストに入れあげて売春させられるようなことを思えば、この範囲で済んでいるというのは、まともといっていいのだろうか。(番組には出てきていなかっただけで、裏でどんな関係があるのか、こういうことが明るみに出ることは、容易なことではないのかもしれない。)
ともあれ、今の若い人たちが、自分を全肯定してくれる相手でなければ満足できない、というのは、これからの社会にとって、いいことなのかどうか。もし、対策を考えるとするとしても、もう遅いかもしれない。
ところで、乙女ゲームの向こう側にいるのは、人間(プログラマ)なのだろうか、それとも、今ではAIなのだろうか。
2025年2月19日記
Asia Insight 中国 仮想恋愛に生きる女性たち
今の時代、こういう女性たちがいてもおかしくはないと思うのだが、中国では、その市場規模はかなりのものになっているらしい。これも、もうちょっとすると、女性が結婚しない理由として、当局が規制に乗り出しても、これもおかしくはない。女性向けの、乙女ゲームがあるのだから、当然、男性向けの恋愛ゲームがあってもいいだろう。
リアルな社会で、実際の男性では満足できず、バーチャル世界でのことの方に充足感を覚える……ちょっと考えると、(私の感覚としては)病的とも感じるのだが、今の時代において、若い人たちが、このような感覚をいだくようになることは、たしかにあるのだろう。
現実の世界においては、自分は全肯定されない、しかし、バーチャル世界なら、自分を全肯定してくれる相手がいる。しかし、実際のリアルの世界において、人の全肯定も全否定も、そうあることではなく、程度の問題かなと思うところもあるのだが、今の中国社会の若者の感覚では、自分が全肯定される世界でなければ生きていけないということになっているのだろう。
親が自分のことを全肯定してくれない、といいながら、一緒に画面のなかに収まっている光景は、奇妙な印象を与える。少しでも不満があると、自分が全面的に否定されたように感じてしまうということなのかもしれないが、これはこれで、いささか問題があるようにも感じる。世の中、適当に折り合いをつけていきながら、人間は生きていくものだ、という感覚にはなれないのだろうか。
そうはいっても、月に20万の収入がありながら、親と一緒に生活していて、自立できていないと責められるのは、周囲の人びとの問題かもしれないし、本人の気持ちの持ち方の問題かもしれない。
その年齢なら普通なら結婚して子どももいる……ということは、そう親が思うことはあっても、はっきりそう言うことではないようにも思える。日本でも、特に地方に住む女性については、いろいろと言われることではあるが、都市部では、普通はそこまで露骨に言うことはないだろう。
コス委託というのは、まあ、そういう需要があるのだろうとは思う。しかし、これに収入のほとんどをつぎ込んでしまうというのも、ちょっとどうかなと思う。だが、日本で問題になっているように、ホストに入れあげて売春させられるようなことを思えば、この範囲で済んでいるというのは、まともといっていいのだろうか。(番組には出てきていなかっただけで、裏でどんな関係があるのか、こういうことが明るみに出ることは、容易なことではないのかもしれない。)
ともあれ、今の若い人たちが、自分を全肯定してくれる相手でなければ満足できない、というのは、これからの社会にとって、いいことなのかどうか。もし、対策を考えるとするとしても、もう遅いかもしれない。
ところで、乙女ゲームの向こう側にいるのは、人間(プログラマ)なのだろうか、それとも、今ではAIなのだろうか。
2025年2月19日記
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