トルストイ『戦争と平和』2016-09-09

2016-09-09 當山日出夫

トルストイ.工藤精一郎(訳).『戦争と平和』(新潮文庫).1972(2005改版)
http://www.shinchosha.co.jp/book/206013/

全四巻である。

実は、この作品、若いとき(学生のころだったろうか)、一度、読みかけて挫折している。それを、今回、新しく買って(版がきれいになっている、字も大きい)読み直してみた。今度は、意外なほどにすんなりと全部読み切ることができた。

この作品については、いろんな人がいろんなことを書いているはずである。今更、私が何を付け加えるべきほどのこともないだろう。だが、強いていえば、というあたりをいささか。

この作品のメインのテーマは、「歴史」である。歴史とは何か、歴史を動かしているのは何であるのか、作者は問いかけている。そのせいだろうと思う。かつて、若いときの私がこの本を途中で読むのをやめてしまって、逆に、今になって読み切ることができたのは。

私は、昭和30年の生まれである。1955年。いわゆる五五年体制のできあがった年になる。世界史的にみれば、東西冷戦に突入したあたり。そんな私にとって、歴史とは、過去のもの、あるいは、静止したものだったように思う。太平洋戦争(大東亜戦争)が終わって10年。これは、もう過去のことであった。まだその記憶が生々しかったとはいえ、もはや戦後ではない、と言われた時代になっていた。そして、世界の歴史をみれば、東西冷戦で、ここでも時間は止まっていたかのごとくである。キューバ危機やベトナム戦争はたしかにあったが、全体として、世界の歴史は止まっていた感じがする。

国内的には、五五年体制。国際的には、東西冷戦。こんな状況のなかで、若いときをすごしている。ふりかえってみると、このような状況のなかでは「歴史」とは、過去についての知識、あるいは、非常に観念的なものとしてあったように思い出す。私は、歴史は好きな方であった。だが、その歴史は、過去にあったことがらについての知識・解釈であった。

しかし、この歴史が、現実の世界のものになったのが、1989年のベルリンの壁の崩壊、2001年のアメリカでのテロ事件、国内的には、五五年体制の崩壊、2011年の震災、原発事故……このような状況のなかで生活してくると、(たとえ、それがテレビや新聞などによる知識としてであったとしても)まさに「歴史」のなかにいるという感覚になる。

そのせいだろうと思う。『戦争と平和』を読んで、そこに生きている歴史を感じ取ることができた。単なる知識(過去にあったことを知っている)ではなく、今自分が生きている世界、この世の中が、なぜこのようにあるのか、なぜこのようなできごとがおこるのか、生活感覚として実感するようになってきている。だから、この年になって『戦争と平和』を読んで、そこに描かれた「歴史」に何かしら感じるものがあったのであろう。

若いときは、ただ若かったというだけではない。その当時の政治、世界の状況のなかで、生きている歴史というものを、あまり感じることがなかったように思い出すのである。これが、たぶん、『戦争と平和』を今になって面白いと感じる要因であるのだろう。

だからといって、『戦争と平和』に書かれた歴史(ナポレオンのロシア侵攻)に通暁しているわけでもないし、そこで述べられているトルストイの歴史観に、全面的に賛同しているというわけでもない。現在、言語論的転回を経た後の歴史とは、改めて考え直されなければならないものになっていることは、承知しているつもりである。

だが、歴史とは何かを問いかけようという姿勢そのもの、歴史を描き出そうという気概のようなもの、それには、深く共感するところがある。

『戦争と平和』、この夏に一読したでけではもったいない。もうすこし時間がたってから、再度、再再度……何度か読み直してみたいと思っている。まだ、それぐらいの時間の余裕は、自分にも残されていると思う。