加藤陽子『戦争まで-歴史を決めた交渉と日本の失敗-』国民観2016-09-13

2016-09-13 當山日出夫

加藤陽子.『戦争まで-歴史を決めた交渉と日本の失敗-』.朝日出版社.2016
http://www.asahipress.com/sensomade/

やまもも書斎記 2016年9月12日
加藤陽子『戦争まで-歴史を決めた交渉と日本の失敗-』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/09/12/8182853

ここで、私は、加藤陽子は、「民草」の視点では歴史を見ていないと書いておいた。それは、半藤一利の本を念頭においてのことである。

やまもも書斎記 2016年9月8日
半藤一利『日露戦争史』全三巻
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/09/08/8174084

あるいは、次の本もある。

半藤一利.『B面昭和史 1926-1945』.平凡社.2016
http://www.heibonsha.co.jp/book/b214434.html

加藤陽子『戦争まで』の「4章 日本人が戦争に賭けたのはなぜか」の「尾崎秀実と天皇の国民観」に次のようにある。

「では、普通に日々の生活をしていた国民はどうであったのか。これを見たいのですが、たとえば彼ら、彼女らが残した日記などを通して、その考え方を知る方法もありえます。ただ、そのためにはかなり長い期間にわたって調査し、その変化と背景を注視する必要があり、思うよりもずっと難しい。そこで、歴史学では、国民と大局的な場にある人間が国民をどう見ていたのか、ある意味、国民の姿を鏡に映すことで、間接的に国民像を探る方法をとります。」(p.401)

とりあげてあるのが、尾崎秀実と昭和天皇である。結論として、次のようにある。

「スパイと天皇という、対局の立場にいる二人が、ある意味で、同様の国民観を抱いていたという点が興味深い。ただ、二人とも、国民を批判しているのではなく、国民がそのように思い込まされてきている、その点を憂慮した言葉になっている点を読み取ってください。」(p.405)

このような歴史学の方法論がいかんなく発揮されているのが、日独伊三国軍事同盟締結のあたりになるのかと思う。ここで、著者(加藤陽子)は、外交実務者(課長クラス)、陸海軍の佐官クラスの実質的担当者の史料をもちだして、その同盟の本当の意図はなんであったかをさぐっている。三国同盟が、当時の世論においていかに受け止められていたかは、あまり考慮していない。(逆に、このような視点で描いているのが、半藤一利の仕事であるといえるのかもしれない。)

注意すべきは、ここで著者は、国民・庶民・市民・民草がどう考えていたか見る必要はないと言っているのではない、ということである。それは必要なことではあるが、歴史学研究としての手続きをふまえたものでなければならない、この方法論にしたがっている。

このような箇所は、これから歴史学を学ぼうという、高校生、あるいは、大学生にとって、是非とも、読み取っておくべきところであろうと思うのである。

ただ、文学研究・思想研究というような観点からは、以前にとりあげた、『神やぶれたまはず』(長谷川三千子)のような仕事も有りうると思っている。

やまもも書斎記 2016年8月16日
長谷川三千子『神やぶれたまはず』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/08/16/8152889

ここで確認しておかなかればならないのは、『戦争まで』(加藤陽子)は、「歴史」を語った書物なのである、ということである。

追記 2016-09-13
考証→交渉 誤字を訂正しました。

追記 2016-09-14
この本については、正誤表がWEBで公開されている。
http://www.asahipress.com/sensomade/teisei.html