『城』カフカ(その三)2018-07-14

2018-07-14 當山日出夫(とうやまひでお)

城

続きである。
やまもも書斎記 2018年7月13日
『城』カフカ(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/07/13/8914796

カフカ.前田敬作(訳).『城』(新潮文庫).新潮社.1971(2005.改版)
http://www.shinchosha.co.jp/book/207102/

さらに、読みながら付箋をつけた箇所を引用しておきたい。

「彼女の視線は、いつものように冷たく、澄んでいて、すこしも動かなかった。それは、自分が観察する対象にまともに向けられず、わずかばかり、ほとんど気づかないほどだが、それでもまぎれもなく対象のそばを素通りしているのだった。見られているほうでは、そにひどくこころを乱された。こういう視線になる原因は、元気がないからでも、当惑や無礼のせいでもなく、たえず他のどんな感情にもまして孤独をつよく望んでいるためであるようにおもえた。」(p.337)

しかし、これにつづけて次のようにもある。

「といって、この視線そのものは、けっしていやらしいものではなく、うちとけはしないものの、率直さにみちていた。」(p.338)

寓意に満ちたこの作品に下手に解釈を加えるものではないと思う。だが、上記のような箇所を読むと、現代における「孤独」というものの本質をついているように感じる。絶望的に孤独でしかありえないような、人間存在の深い淵をのぞきこんでいるような描写である。ここには、「孤独」を楽しむというような、いわゆる近代の憂愁とでもいうべきものは、もはやまったくない。そこには、不気味な絶望感を感じる。しかし、だからといって、そこに悪意を感じることはない。嫌悪してはいない。ただ、孤独な人間のあり方を語っているだけである。その語り口は、むしろ素直ですらある。淡々と絶望的な孤独を語っている。

交わることのない視線。しかし、それは率直なものでもある。このような孤独な視線を一世紀以上も前に描きえた、カフカという作家の文学的想像力に敬服するばかりである。

おそらく、文学史的には、その当時のチェコスロバキアにおけるドイツ系ユダヤ人としての、アイデンティティーの喪失、社会からの疎外感、とでもいうようなことばで説明することになるのかもしれない。もし、このように文学史的には説明されるとしても、今日、この作品を読んで感じる、いいようのない文学的感銘……絶望的な孤独感……の表現は、カフカの天稟であったと感じる。

いや逆なのであろう。今日、カフカを読むことによって、現代における孤独というものに気づく、これが文学というものなのである。