『いだてん』あれこれ「ヘルプ!」2019-11-19

2019-11-19 當山日出夫(とうやまひでお)

『いだてん~東京オリムピック噺~』第43回「ヘルプ!」
https://www.nhk.or.jp/idaten/r/story/043/

前回は、
やまもも書斎記 2019年11月12日
『いだてん』あれこれ「東京流れ者」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/11/12/9175786

東京オリンピック(一九六四年)のとき、私は小学生だった。オリンピックのことは記憶に残っているのだが、その前に開催されたアジア大会のときのことは、さっぱり憶えていない。

そのアジア大会のときのもろもろの舞台裏を描いていたのが、この週であった。

国際的なスポーツの大会に、政治がからんでくるのはしかたないことなのかもしれない。純粋にスポーツの祭典としてのオリンピック……それは、田畑が目指しているものであり、また、かつて嘉納治五郎が理想としたものであった……これは、現実には無理なのかもしれない。

そういえば、モスクワでのオリンピックのとき、アメリカが参加しないので、それにならって日本も参加しない、ということになった。その前のロサンゼルスのときは、東西両陣営のかけひきが逆であった。

ともあれ、このドラマを見ていると、来年の二〇二〇東京オリンピックが、いったい何のために、誰のために、開催されることになるのか、その根底を問いかけているように思えてしかたがない。真夏の開催といい、それに配慮しての、マラソンと競歩の札幌開催への変更といい、最も考えられるべき選手のことが、一番考えられていないとしか思えない。

ただ、現在の我々は歴史の結果を知っている。一九六四年の東京オリンピックは、成功するのであるということを。だからこそ、その成功のうらにある、種々の生臭いに人間のドラマを、ある意味で安心して見ていることができる。しかし、これを同時代の視点で考えるならば、まさに東京オリンピックは、綱渡りであったことが理解される。

その歴史の結果を知っているからこそ、それにいたる人間のドラマに興味をもつ。次回以降、どのような展開になるのか、楽しみに見ることにしよう。

また、このドラマは、ここに来てスポーツのドラマから、政治のドラマに変わってきてもいる。戦後政治の暗闇の部分をえぐり出すような雰囲気を感じさせる。

さらには、晩年の志ん生が、これからどのようにオリンピックにかかわっていくのか、これも見届けておきたいと思う。

追記 2019-11-26
この続きは、
やまもも書斎記 2019年11月26日
『いだてん』あれこれ「ぼくたちの失敗」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/11/26/9181413

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。

名前:
メールアドレス:
URL:
次の質問に答えてください:
このブログの名称の平仮名4文字を記入してください。

コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/11/19/9178696/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。