『象』レイモンド・カーヴァー/村上春樹(訳)2019-11-02

2019-11-02 當山日出夫(とうやまひでお)

象

レイモンド・カーヴァー.村上春樹(訳).『象』(村上春樹 翻訳ライブラリー).中央公論新社.2008
http://www.chuko.co.jp/tanko/2008/01/403507.html

続きである。
やまもも書斎記 2019年10月26日
「羊男のクリスマス』村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/10/26/9169121

やまもも書斎記 2019年10月22日
『レイモンド・カーヴァー傑作選』村上春樹(訳)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/10/22/9167501

これは、私が、レイモンド・カーヴァーを読んだ最初の本になるのだが、順番としては、中公文庫の傑作選の次に掲載しておくことにする。

また繰り返しなるのだが、他の作品、作家と同様、もし村上春樹が訳していなかったら、この本は読まずに終わってしまっていただろう。しかし、読んでみて、損はないと深く感じるところのある作品である。

解題(村上春樹)によると、この短編集が、レイモンド・カーヴァーでは最後の作品ということになるらしい。意図的にそう選んだわけではないのだが、たまたま手にした順番からしてそうなってしまった。解題を読んで、それぞれの作品の読みどころはつかめる。

ジャパンナレッジで、レイモンド・カーヴァーを検索してみた。世界文学大事典に掲載になっていた。読むと、簡単な説明のなかに、「ミニマリスト」とある。「ミニマリスト」をさらに検索してみる(リンクしてある)。1960年代から美術用語としてつかわれたらしい。文学用語としては、1970年代からになる。その特徴は、「文学の場合は小説について、第一に作品が量的に短いこと、内容的に家庭内の出来事などの小さい領域をカバーすることを指していて、アメリカ小説が伝統的に長編によって大きな世界を扱おうとしたことに対する反動と考えられる。」と書いてある。そして、その代表が、レイモンド・カーヴァーということになるらしい。

ただ、レイモンド・カーヴァーは、このミニマリストということばを嫌っていたらしい。また、村上春樹も、積極的にこのことばをつかってはいない。

Wikipediaの「レイモンド・カーヴァー」の項目を見ると、ここでも「ミニマリズム」の文学と書いてある。そして、ヘミングウェイやチェーホフと並び称されるようだ。

日本における、レイモンド・カーヴァーの紹介は、村上春樹から始まるともある。

このようなことをふまえて読んでみるならば、昨年までに、チェーホフの作品の主なものは読んでみた(ほとんどは再読になるが)。また、ヘミングウェイの短編集(新潮文庫版)、主な長編も読んだ(これも、再読が多いが)。

今年、ふと思い立って、村上春樹の作品を読み始めた。その小説(長編、短篇)と読んで、次に、エッセイや翻訳を読んでいる。このような順番で読んだことをふまえて考えてみるならば、まあ、妥当な順に読んでいるといっていいかもしれない。

『象』である。読んで印象に残るのは、「引越し」「誰かは知らないが、このベッドに寝ていた人が」であろうか。まさに、チェーホフの短篇を思わせるところがある。小さな日常的な人生の断片を描いて、それでいて、何かしら不可思議な物語世界へいざなうようなところがある。

最後に掲載の「使い走り」。これは、まさにチェーホフのこと、その死のことを題材に描いている。これが、この作者の晩年の作品かと思って読むと、印象深いものがある。

重厚長大な長編もいいが、カーヴァーのような短篇をよむと、ふと気持ちがやすまる感じがする。こういう文学が、現代アメリカ文学の一つの流れとしてあるのか、これは、勉強になったと感じるところがある。では、日本において、このような作家としては誰になるだろうかと思ったりはするのだが、ともあれ、ここしばらくは、カーヴァーの作品を読んでみることにする。

次の翻訳は『大聖堂』である。

村上春樹の続きは『ふわふわ』である。

追記 2019-11-08
この続きは、
やまもも書斎記 2019年11月8日
『ふわふわ』村上春樹・安座水丸
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/11/08/9174145