『虞美人草』夏目漱石2019-11-01

2019-11-01 當山日出夫(とうやまひでお)

虞美人草

夏目漱石.『虞美人草』(新潮文庫).新潮社.1951(2010.改版)
https://www.shinchosha.co.jp/book/101010/

続きである。
やまもも書斎記 2019年10月28日
『野分』夏目漱石
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/10/28/9169902

漱石の作品を、初期のものから順番に読んでいこうと思って手にした。この作品、近年、あまり読むことがなかった。数年おきぐらいに、漱石の作品は読み直してきているのだが、なぜか、長編では、『虞美人草』と『坑夫』は抜かしている。これらの作品、若いとき……学生のころ……読んでいらいになるかもしれない。

『虞美人草』についての、文学史的な位置づけについては、ひととおり知ってはいるつもりでいる。漱石が、朝日新聞に入社して、作家生活をはじめるにあたって最初の作品である。これは、その当時、社会的にも大きな話題になった。

だが、文学作品としての評価は、今一つと言っていいだろうか。今回、読み直してみて、はっきりいって、面白いと思うところが少なかった。登場人物は限定的であるし、場面も限られている。しかし、すんなりと、そのストーリーが頭にはいってくるということがなかった。

これは、この作品特有の、非常に技巧的な文章にも起因するのかもしれない。漱石は、平明な文章を書ける作家である。たとえば、『猫』などを見ても、平易な文章で、登場人物の心の内を描くことができている。

ところで、日本の近代文学のテーマとでもいうべきものを巨視的に見るならば、近代的知識人の内面の苦悩を描く……ざっくり言ってこのようになるのかもしれない。これは、漱石や鷗外のみならず、自然主義、白樺派などをふくめて、総合的にこのようにみることができよう。

『虞美人草』は、まさに近代的な知識人の内面の苦悩を描こうとしたのだろう。そして、そこに、女性を配している。これが、成功したかどうか、むずかしいところがあるかもしれない。後には、『それから』や『行人』などにおいて、懊悩する知識人を漱石は、見事に描いているといえる。

このような観点から見て、『虞美人草』は、はっきりいって、よくわからない小説であるというのが、いつわらざる読後感である。

それから、女性についていえば、どうももうひとつ、登場人物としてその輪郭がはっきりとイメージできない。漱石は、この小説において、女性、特に、藤尾については、特にちからを注いで描いたとは感じるのだが、しかし、女性として魅力的に描かれているとはいいがたいように思えてならない。

このように思ってはみるのだが、しかし、職業作家になった漱石が何をめざしていたのか、その描こうとしていたものが何であったのか、そのあたりはなんとなく感じとれる。この意味では、漱石の作家としての試行錯誤のひとつとして、この作品は評価されることになるのかと思う。

ざっと以上のようなことを思ってみるのだが、その一方で、やはり漱石ならではの作品であると感じるところもある。後年の漱石が描こうとしたことの萌芽とでもいうべきものを、読みながら随所に感じる。また、全編にわたって非常に技巧的な文章で書かれていながら、同時に、随所に詩情を感じるところもある。

特に、最後の章は、漱石の作品のなかでも印象に残るものの一つといっていいだろう。これから、また機会をつくって、再度、再々度、読んで味わっておきたい作品である。

次の漱石は、『吾輩は猫である』である。

追記 2019-11-04
この続きは、
やまもも書斎記 2019年11月4日
『吾輩は猫である』夏目漱石
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/11/04/9172644

『象』レイモンド・カーヴァー/村上春樹(訳)2019-11-02

2019-11-02 當山日出夫(とうやまひでお)

象

レイモンド・カーヴァー.村上春樹(訳).『象』(村上春樹 翻訳ライブラリー).中央公論新社.2008
http://www.chuko.co.jp/tanko/2008/01/403507.html

続きである。
やまもも書斎記 2019年10月26日
「羊男のクリスマス』村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/10/26/9169121

やまもも書斎記 2019年10月22日
『レイモンド・カーヴァー傑作選』村上春樹(訳)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/10/22/9167501

これは、私が、レイモンド・カーヴァーを読んだ最初の本になるのだが、順番としては、中公文庫の傑作選の次に掲載しておくことにする。

また繰り返しなるのだが、他の作品、作家と同様、もし村上春樹が訳していなかったら、この本は読まずに終わってしまっていただろう。しかし、読んでみて、損はないと深く感じるところのある作品である。

解題(村上春樹)によると、この短編集が、レイモンド・カーヴァーでは最後の作品ということになるらしい。意図的にそう選んだわけではないのだが、たまたま手にした順番からしてそうなってしまった。解題を読んで、それぞれの作品の読みどころはつかめる。

ジャパンナレッジで、レイモンド・カーヴァーを検索してみた。世界文学大事典に掲載になっていた。読むと、簡単な説明のなかに、「ミニマリスト」とある。「ミニマリスト」をさらに検索してみる(リンクしてある)。1960年代から美術用語としてつかわれたらしい。文学用語としては、1970年代からになる。その特徴は、「文学の場合は小説について、第一に作品が量的に短いこと、内容的に家庭内の出来事などの小さい領域をカバーすることを指していて、アメリカ小説が伝統的に長編によって大きな世界を扱おうとしたことに対する反動と考えられる。」と書いてある。そして、その代表が、レイモンド・カーヴァーということになるらしい。

ただ、レイモンド・カーヴァーは、このミニマリストということばを嫌っていたらしい。また、村上春樹も、積極的にこのことばをつかってはいない。

Wikipediaの「レイモンド・カーヴァー」の項目を見ると、ここでも「ミニマリズム」の文学と書いてある。そして、ヘミングウェイやチェーホフと並び称されるようだ。

日本における、レイモンド・カーヴァーの紹介は、村上春樹から始まるともある。

このようなことをふまえて読んでみるならば、昨年までに、チェーホフの作品の主なものは読んでみた(ほとんどは再読になるが)。また、ヘミングウェイの短編集(新潮文庫版)、主な長編も読んだ(これも、再読が多いが)。

今年、ふと思い立って、村上春樹の作品を読み始めた。その小説(長編、短篇)と読んで、次に、エッセイや翻訳を読んでいる。このような順番で読んだことをふまえて考えてみるならば、まあ、妥当な順に読んでいるといっていいかもしれない。

『象』である。読んで印象に残るのは、「引越し」「誰かは知らないが、このベッドに寝ていた人が」であろうか。まさに、チェーホフの短篇を思わせるところがある。小さな日常的な人生の断片を描いて、それでいて、何かしら不可思議な物語世界へいざなうようなところがある。

最後に掲載の「使い走り」。これは、まさにチェーホフのこと、その死のことを題材に描いている。これが、この作者の晩年の作品かと思って読むと、印象深いものがある。

重厚長大な長編もいいが、カーヴァーのような短篇をよむと、ふと気持ちがやすまる感じがする。こういう文学が、現代アメリカ文学の一つの流れとしてあるのか、これは、勉強になったと感じるところがある。では、日本において、このような作家としては誰になるだろうかと思ったりはするのだが、ともあれ、ここしばらくは、カーヴァーの作品を読んでみることにする。

次の翻訳は『大聖堂』である。

村上春樹の続きは『ふわふわ』である。

追記 2019-11-08
この続きは、
やまもも書斎記 2019年11月8日
『ふわふわ』村上春樹・安座水丸
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/11/08/9174145

『スカーレット』あれこれ「ときめきは甘く苦く」2019-11-03

2019-11-03 當山日出夫(とうやまひでお)

『スカーレット』第5週「ときめきは甘く苦く」
https://www.nhk.or.jp/scarlet/story/index05_191028.html

前回は、
やまもも書斎記 2019年10月27日
『スカーレット』あれこれ「一人前になるまでは」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/10/27/9169515

この週のポイントは、次の三点だろうか。

第一に、圭介とのこと。

下宿人の圭介に恋人ができる。相手は、犬のゴンをつれて散歩にきている、あき子である。そのため、圭介は荒木荘を出ることになるのだが、その時に、喜美子は気付く。自分が、これまで、圭介のことを思っていたことを。この気持ちは、恋なのであろうか。そこまでいかない、ちょっと淡い感情のようなものかもしれない。

第二に、大久保さん。

たしか一日だけのことだったが、大久保さんが、荒木荘にやってくる。そして、喜美子が無事に荒木荘の女中としてやっていることを確認して、帰っていく。その帰っていくときの、玄関を出てからの表情が、なんとも満ち足りたという印象であった。

第三に、草間さん。

喜美子は、草間宗一郎と再会する。草間が探していた妻は、どうやら別の男と暮らしているらしい。そこで、喜美子は、草間と一緒にその店に行く。そして、何事もなかったかのごとく、立ち去ることになる。

以上の三点が、この週のポイントかなと思う。

この週は、喜美子の成長を描いた週だったと思う。圭介と別れることによって、一段、人間的に成長したようである。また、大久保さんにも認めてもらうことができた。さらに、草間さんと再開して、かつて草間さんから学んだ柔道の教えを確認することになった。

喜美子は、美術の学校に通うことになるのだろうか。そう思っていたところに、父からの電話であった。次週は、信楽を舞台にドラマは進行するようだ。楽しみに見ることにしよう。

追記 2019-11-10
この続きは、
やまもも書斎記 2019年11月10日
『スカーレット』あれこれ「自分で決めた道」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/11/10/9174882

『吾輩は猫である』夏目漱石2019-11-04

2019-11-04 當山日出夫(とうやまひでお)

吾輩は猫である

夏目漱石.『吾輩は猫である』(新潮文庫).新潮社.1961(2003.改版)
https://www.shinchosha.co.jp/book/101001/

続きである。
やまもも書斎記 2019年11月1日
『虞美人草』夏目漱石
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/11/01/9171497

漱石の作品を読んでいくことにして(新潮文庫版で)、『吾輩は猫である』を手にした。この作品を通読するのは、何度目になるだろうか。これまで、数年おきぐらいには、漱石の主な作品をよみなおしてきていた。『吾輩は猫である』を読んで……『草枕』などはとばして……『三四郎』からはじまる長編を読む、こんなふうにして読んできた。

『猫』は、若いとき、最も多く読んだ本のうちのひとつである。昔の、その当時の、岩波版の「全集」で、何回読みかえしたことだろうか。大学受験があって、気分の鬱屈したとき、ただ読めた作品が『猫』であった、ということである。それは、おそらくは、その当時の作者(漱石)の心境、大学の教師をしながら気分転換に筆をとった小説……その背景にある「神経衰弱」の精神状態に、共鳴するものを感じてのことであったかと、今になって思う。

今回、『猫』を読んでみて感じるところを記しておくならば、次の二点。

第一に、これはまさに「落語」である、ということ。

『猫』のことを「落語」と評したのだ誰であったか忘れてしまったが、これは言い得て妙であると思う。「猫」が人間のことばをつかう、このような荒唐無稽とでもいうべき発想が、まさに「落語」的であるといえるだろう。こう思って読むからなのかもしれないが、『猫』は「落語」である、と強く感じるところがある。

第二に、詩情。

「落語」であるといいながら、読んで行くと、随所に、詩情を感じる風景、景物の描写がある。ただ、諧謔のみではなく、詩情をふくんだ文章であることに気付く。

以上の二点、「落語」と「詩情」これが、微妙なバランスのうえになりたっているのが、『猫』である。

そして、この『猫』を書いて、あくまでも「猫」視点をつらぬいていた作者が、途中で、作中人物の心中に入り込むことになる。終わりの方、第九章の「読心術」の箇所である。ここで、作中人物の心理を描くことの面白さに気付いてしまった作者は、これ以上『猫』を連作しなくなることになる。近代的な小説家としての夏目漱石の誕生である。(たぶん、こんなことは、漱石研究の分野においては、常識的に言われていることだろうと思うが。)

また、「文明批評家」としての漱石の面目躍如たる作品であることも、言うまでもないことだろう。この『猫』を読むと、漱石の作品のすべての出発点であることが確認されることになる。

さらに書けばであるが……『猫』の中で、女学生ことばをつかう登場人物がでてくる。「てよだわ」ことばである。後の作品では、『三四郎』の美禰子、よし子、『それから』の三千代、『門』のお米、『こころ』の奥さん、などがそうである。この女学生ことばをつかう女性というのは、漱石の作品を理解するうえで重要なキーになるだろう。女学生ことばをつかう人物造形が意味をもつものとしてあると考える。その目で、『猫』を読んで見ると、まず、女学生ことばをつかっているのは、三毛である。天璋院さまの~~に飼われている雌猫である。それから、苦沙弥先生の姪の雪江。設定として女学生であるということだから、これはむしろ自然なのかもしれない。このような視点、日本語学的に言うならば、「役割語」の効果とでもいうべきところが、この『猫』の中には、随所に見ることができる。

さて、次に読もうと思っている漱石の作品は『坊っちゃん』である。これも久しぶりに読むことになる。

追記 2019-11-07
この続きは、
やまもも書斎記 2019年11月7日
『坊っちゃん』夏目漱石
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/11/07/9173811

『いだてん』あれこれ「おれについてこい!」2019-11-05

2019-11-05 當山日出夫(とうやまひでお)

『いだてん』第41回「おれについてこい!」
https://www.nhk.or.jp/idaten/r/story/041/

前回は、
やまもも書斎記 2019年10月29日
『いだてん』あれこれ「バック・トゥ・ザ・フューチャー」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/10/29/9170316

来年の二〇二〇年東京オリンピックの、マラソンと競歩が札幌開催ということになった。今になって決めるぐらいなら、はじめから、そのようにしておけばよかったと思うのは、私だけではないはずである。少なくとも、国民のためのオリンピックということは感じられない議論の推移であった。

一九六四年の東京オリンピックのマラソンは憶えている。アベベであり、円谷幸吉である。アベベは、この回にも登場していた。

ともあれ、その一九六四年の東京オリンピックの開催にいたるまでの舞台裏。いろいろな思惑が渦巻いている。日本がメダルを取れる競技を種目にいれたい。そのため、女子バレーボールの登場ということになる。(このオリンピックでの試合の様子、なかんずく最後のソ連との競技は、テレビで見ていたのを記憶している。)

また、政治家が出てくる。政治とオリンピック。あるいは、オリンピックと金の話は、今においても、いろいろと問題になる。そこを、このドラマでは、ドタバタで描いていた。

田畑が追い求めていたもの……純粋に、スポーツを通じて、世界のあらゆる国々の人びとが、「カオス」となって楽しめる……その理想は、確かに伝わってくる。しかし、純粋に理想を語れば語るほど、現実のオリンピックをめぐる政治と金の話、さらには外交の問題が、浮かびあがってくる。

来年、二〇二〇年のオリンピックは、それに参加した選手が……たとえ、予選で敗退したとしても、それに参加したことを誇りに思えるようなオリンピックに、はたしてなるだろうか。このドラマで、一九六四年のオリンピックを通じて「理想」を描くことによって、逆に、来年にさしせまったオリンピックの「負」の面が、浮き上がってくるように思えてならない。

言ってみれば、二〇二〇年東京オリンピックには、「理念」が感じられないのである。

追記 2019-11-12
この続きは、
やまもも書斎記 2019年11月12日
『いだてん』あれこれ「東京流れ者」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/11/12/9175786

コナラ2019-11-06

2019-11-06 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日は花の写真の日。今日は、花ではなくドングリである。コナラを写してみた。

前回は、
やまもも書斎記 2019年10月30日
エゴノキ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/10/30/9170764

我が家から歩いて少しのところにある。先週掲載のエゴノキのあるところまでの途中にある。エゴノキを写しに行こうと思って歩いていて、ふとドングリが目にはいった。調べてみると、コナラのようである。

日本国語大辞典(ジャパンナレッジ)をみる。「こなら(小楢)」で項目がある。

ブナ科の落葉高木。各地の山野に生える。高さ一五~二〇メートルに達する。樹皮は灰白色で縦に裂ける。若枝や若葉は淡褐色の毛を密生。葉は長さ一センチメートル内外の柄をもち長さ五~一二センチメートルの倒卵状長楕円形、先はとがり縁にあらい鋸歯(きょし)があり、裏面は灰白色を帯びる。

とあり、さらに説明がある。

用例は、古く『万葉集』からある。巻一四、三四二四の歌である。万葉仮名では、「許奈良」とあるよし。東歌である。が、その次の用例が、近世の『書言字考節用集』にとぶ。他の古辞書などにもないようだ。その中間の用例がないので、本当に『万葉集』の例が、それにあたるものなのか、ちょっと疑問に思わないでもない。

『言海』にもある。

こなら 小楢 名 楢ノ一種、山中ニ多シ、高サ一二尺ニ過ギズ、葉ハならニ同ジ、夏ノ初メ、新葉ヲ生ジテ、花アリ、實ハ樫ニ似テ、枝ノ梢ニ生ズ、別ニ、栗毬(イガ)ノ如キモノヲ、枝ノ間ニ生ズ、或ハ單生シ、或ハ簇生シ、其刺(トゲ)、柔カニシテ刺(サ)サズ、初メ綠ニシテ、秋ニ至リテ、茶褐ナリ、コレヲならこぶトイフ、蟲ノ巣ナリ、内ニ、堅キ核ノ如キモノアリ、綠ナルトキ破レバ、中ニ白クシテ長キ一小蟲アリ、褐色ノトキ、破レバ、一小蝶アリ。 孛落樹

ただ、『言海』の記述をみると、どうやら別の木のことかもしれないと思う。この木については、これから年をとおして観察していきたいと思う。

コナラ

コナラ

コナラ

コナラ

コナラ

コナラ

Nikon D500
AF-S DX Micro NIKKOR 85mm f/3.5G ED VR

追記 2019-11-13
この続きは、
やまもも書斎記 2019年11月13日
ホトトギス
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/11/13/9176208

『坊っちゃん』夏目漱石2019-11-07

2019-11-07 當山日出夫(とうやまひでお)

坊っちゃん

夏目漱石.『坊っちゃん』(新潮文庫).新潮社.1950(2012.改版)
https://www.shinchosha.co.jp/book/101003/

続きである。
やまもも書斎記 2019年11月4日
『吾輩は猫である』夏目漱石
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/11/04/9172644

おそらく、漱石の作品の中では一番有名かもしれない。現代でも、中学高校生ぐらいで十分に読めるし、また、読まれている(だろうと思う)作品である。

新潮文庫版の解説を書いているのは、江藤淳。読んでなるほどと思うところがいくつかある。最も納得するところは……この物語は、正義感の物語であり、そして、直情径行な正義感は敗北せざるをえないものである……このような意味の指摘がなされている。そう思ってみれば、たしかに、この物語は、正義感の物語である。だが、その正義は、敗北することになる。

いったい何に敗北することになるのか。たぶん、「近代」ということになるのかもしれない。主人公「坊っちゃん」は、江戸の生まれである。江戸の文化のなかで育ってきている。また、行動をともにする「山嵐」は、会津の出身である。会津もまた、明治維新における敗北者であるともいえよう。その一方で、「近代」を代表するのは、文学士である「赤シャツ」だろう。そして、漱石から見れば、「赤シャツ」に象徴されるような「近代」は、まがいものにすぎない。

このような読み方は、やや強引かもしれない。だが、この物語が敗北せざるをえない正義感であり、前近代の価値観である……このことは、読みとっていいことだろうと思う。

ところで、この『坊っちゃん』を読んで感じたことだが、これもまた「落語」だな、ということ。バッタをめぐる中学生とのやりとり、あるいは、下宿の婆さんとの会話など、江戸ことばと、松山方言とをまじえた「落語」であると思う。

それから、今回、この作品を読んでみて……これも、久しぶりのことになるのだが……随所にある、漱石の文章のもつ叙情性ということを感じた。ふとした景色の描写、風景の描写が、実に詩的である。「坊っちゃん」は俳句にはとんと興味が無いようだが、しかし、この『坊っちゃん』という作品には、俳句的情緒を感じとることができる。

次に読もうと思っているのは、『倫敦塔・幻影の盾』である。

追記 2019-11-09
この続きは、
やまもも書斎記 2019年11月9日
『倫敦塔・幻影の盾』夏目漱石
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/11/09/9174436

『ふわふわ』村上春樹・安西水丸2019-11-08

2019-11-08 當山日出夫(とうやまひでお)

ふわふわ

村上春樹(文).安西水丸(絵).『ふわふわ』(講談社文庫).講談社.2001 (講談社.1998)
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000202395

続きである。
やまもも書斎記 2019年11月2日
『象』レイモンド・カーヴァー/村上春樹(訳)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/11/02/9171894

ひょっとしたら……猫について書いた文学ということで、日本文学史に名が残る作品ではないだろうか。

文章は村上春樹で、それに安西水丸の絵がついている。出てくるのは、猫……村上春樹が飼っていた、ある雌猫の話。全体で短い。しかも、文章のページと絵のページが交互に出てくる。三〇分もかからずに、読み終えてしまった。いや、もっと短かったかもしれない。

だが、この本を読んで、村上春樹という人は猫が本当に好きなんだなあと思う。そういえば、『村上朝日堂』だったか、猫のことについて書いた文章があったのを思い出す。

ところで、我が家にも猫……黒猫が二匹に、薄い色合いの茶トラ猫が一匹……がいる。猫を見ていると、いろんなことを思う。猫は、哲学的である。人生を教えてくれる、そう言っても過言ではないと思う。

重厚な長編、抒情あふれる短篇、軽妙なエッセイ、それに翻訳……村上春樹の仕事は多彩である。今は、エッセイと翻訳小説を読んでいる。その合間に手にした、軽い感じの本である。村上春樹という人間の一端を感じさせてくれる作品であると思う。無論、この本は、安西水丸の絵と一緒に読まなければ意味がない。

次の村上春樹は、『大聖堂』である。

『倫敦塔・幻影の盾』夏目漱石2019-11-09

2019-11-09 當山日出夫(とうやまひでお)

倫敦塔・幻影の盾

夏目漱石.『倫敦塔・幻影の盾』(新潮文庫).新潮社.1952(2008.改版)
https://www.shinchosha.co.jp/book/101002/

続きである。
やまもも書斎記 2019年11月7日
『坊っちゃん』夏目漱石
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/11/07/9173811

この新潮文庫の『倫敦塔・幻影の盾』には、次の作品が収録されている。

「倫敦塔」
「カーライル博物館」
「幻影の盾」
「琴のそら音」
「一夜」
「薤露行」
「趣味の遺伝」

いずれも、漱石の初期の作品である。まだ、朝日新聞に入って専業作家になるまでのものである。

やはり読んで印象に残るのは、「倫敦塔」であろうか。この作品には、「死」のイメージがある。しかも、川をわたって、かつ、門をくぐって、倫敦塔の中にはいっていく。異世界への旅のごとくである。極論すればであるが、漱石にとって、ロンドンでの倫敦塔の訪問は、文学的な「擬死体験」であったのかもしれない。

また、「幻影の盾」がいいと感じる。ただ、はっきり言って何がどう書いてあるかよくわからない作品である(一読しただけでは)。だが、その文章のリズムが、実にここちよい。読んでいて、思わずに文章のなかにひたってしまっている自分に気付く。漱石は、ヨーロッパに題材をもとめながらも、その文章は、漢文調の美文である。たぶん、漱石は、読んでいてここちよくなるような、このような文章を書きたくて、この作品を書いたのかと思うところがある。漱石の文章は、目で読む文章ではあるが、耳できいてここちよい感じがある。

その他の作品を読んで感じるところは、初期の漱石の持っているロマンチシズムとでもいうべきものかと思う。ともあれ、初期の漱石が、大学の教師の仕事をしながら、このような文学の世界に遊んでいたことは確かなことである。

初期の漱石の文学の多様性を感じることのできる一冊になっていると思う。

次の漱石は、『文鳥・夢十夜』である。

追記 2019-11-14
この続きは、
やまもも書斎記 2019年11月14日
『文鳥・夢十夜』夏目漱石
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/11/14/9176708

『スカーレット』あれこれ「自分で決めた道」2019-11-10

2019-11-10 當山日出夫(とうやまひでお)

『スカーレット』第6週「自分で決めた道」
https://www.nhk.or.jp/scarlet/story/index06_191104.html

前回は、
やまもも書斎記 2019年11月3日
『スカーレット』あれこれ「ときめきは甘く苦く」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/11/03/9172262

この週で、喜美子は大阪を離れて信楽に帰ることになった。見ていて思うことは次の二点ぐらいだろうか。

第一に、大阪の荒木荘の人びととの別れ。

大阪に残るか、信楽に帰るか、喜美子は迷う。ここで、喜美子は決断する。信楽に帰ることになる。だが、荒木荘の人びととの別れはつらい。特に、ちや子のことが気にかかるようであった。ちや子のためのお茶漬けのレシピが、印象に残る。

第二に、新しい信楽での生活。

信楽に帰って喜美子は、丸熊陶業ではたらくことになる。そこで、火鉢の絵付けに興味を持つ。自分でも、それにとりくんでみたいと思う。たぶん、ここからが、陶芸家としてのスタートになるのかもしれない。

以上の二点が、この週の見どころであったろうか。

それから、相変わらずの父親。借金だらけの家の家計。母親の病院の薬代もまともにはらうことができない苦しい生活。しかし、このような状況にあっても、母親は気丈であるし、喜美子の姉妹三人は、なんとなく仲良くやっていっているようである。

また、幼なじみの照子と信作。この二人とも仲がいい。

次週、信楽を舞台にして、ちや子も登場して、物語は展開するようだ。楽しみに見ることにしよう。

追記 2019-11-17
この続きは、
やまもも書斎記 2019年11月17日
『スカーレット』あれこれ「弟子にしてください!」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/11/17/9177936