今年読みたい本のことなど(二〇二〇)2020-01-01

2020-01-01 當山日出夫(とうやまひでお)

元日は、今年の気持ち、特に読んでみたい本のことなど書くことにしている。

昨年の暮れから読んでいるのが、宮尾登美子。ふとWEBを見ていて、Facebookだったか、Twitterだったか……誰かが宮尾登美子の『櫂』について書いているのが目にとまった。『櫂』は、若いときに読んでいる。もう一回読んでみようかと思って読んだのだが、面白い。続けて、自伝的な作品である『春燈』『朱夏』『仁淀川』と読んだ。宮尾登美子の作品のいくつかは、若いときに読んでいる。好きな作家であった。が、最近は遠ざかってしまっていた。亡くなっていることも知らなかった。

宮尾登美子は、市井の人間の情感を描いている。それも、老いとか、病とか、死とか……素朴な人間の情感をきめ細やかに描いている。ここは、宮尾登美子の作品を読んでおきたくなった。再読の作品もあれば、未読であったものを新たに読むものもある。

日本の古典文学を読んでおきたい。これまで、勉強……国語学……ということで、主な日本の古典文学は手にしてきたのだが、それをはなれて、純然たる読書のたのしみとして、ページを繰ることをしてみたくなった。昨年は、『源氏物語』『平家物語』『今昔物語集』など読んだ。

『源氏物語』の岩波文庫版が、今年は完結するだろうか。昨年は、新潮日本古典集成版で二回読んだのだが、新しい岩波文庫版の校注で全巻を読んでおきたいと思う。

昨年末からよみはじめているのが、『太平記』。岩波文庫版で六冊になる。新しい校訂である。これは新潮日本古典集成版もあるし、また古い日本古典文学大系もある。『太平記』は、近年になって、再評価がなされているかと思う。「アナホリッシュ国文学」が『太平記』を特集している。これなど手引きとして、『太平記』を読んでおきたいと思う。

これは、「古典は本当に必要なのか」ともかかわる。近世まで、あるいは、昭和戦前まで、『太平記』は「古典」であった。だが、私が国文学、国語学という勉強をしていたころ、日本の「古典」の中心的な存在ではなくなってしまっていたと思う。「古典」とは、常に読まれつづけることによって、新しく読みを加えることによって、再発見、再生産されていくものであると思っている。ただ、自明なものとして「古典」があるのではない。

この「古典」とは何かということについても、これから考えていきたいと思っている。

村上春樹の作品については、その小説(長編、短篇)を読んで、エッセイとか翻訳とかを読んでいる。村上春樹の翻訳は、中央公論新社で、村上春樹翻訳ライブラリーというかたちでまとまって刊行されている。これを順次読んでいきたい。昨年のうちに、レイモンド・カーヴァーなどだいたい読み終えた。のこる作品についても、順番に読んでみようと思っている。

『失われた時を求めて』の岩波文庫版、全一四冊が、昨年完結した。この作品については、一昨年に、岩波文庫版の既刊分(一二冊)を読んで、残りを集英社文庫版で読んだ。『失われた時を求めて』は、他に、光文社古典新訳文庫版でも刊行されている。まだ途中までしか出ていないが、これも、既刊分については読んでみたい。また、読まなかった岩波文庫本の残り二冊についても、読んでおきたい。

さらに思うことは、ミシェル・フーコーを読んでおきたいと思う。名前は知っている。どんな仕事をしたひとなのかも、いろんなところで目にする。だが、これまで、ミシェル・フーコーそのものを、じっくりと読むことがなかった。「近代」というもの、あるいは、「人文学」というものを考えるとき、やはりミシェル・フーコーは必須だろう。これも今年の読書の希望の一つである。

漱石も読み返しておきたい。若いときに買った、一七巻本の古い全集がまだどこかにあるはずである。今度読むときは、これを取り出して読むことにしようかと思う。活版の時代の本である。

その他いろいろとあるが、「古典」「文学」を読むことで時間をつかいたいと思っている。そして、残りの時間で、身近な草花の写真など撮ってすごしたいと思う次第である。

ところで、大晦日の日、たまたまテレビをつけたら、映画『風と共に去りぬ』を放送していた。『風と共に去りぬ』は、これまで三回読んでいる。新潮文庫の旧訳、新訳、それから、岩波文庫である。この作品も、再度読んでみたくなった。

2020年1月1日記