『蔵 下』宮尾登美子2020-01-31

2020-01-31 當山日出夫(とうやまひでお)

蔵(下)

宮尾登美子.『蔵』(下)(角川文庫).角川書店.1998 (毎日新聞社.1993 中公文庫.1995)
https://www.kadokawa.co.jp/product/199999171804/

続きである。
やまもも書斎記 2020年1月30日
『蔵 上』宮尾登美子
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/01/30/9208191

この作品、もとは毎日新聞の連載であり、その刊行当時話題になり、TVドラマや映画にもなるほど人気であった。しかし、今ではもう読まれない作品になってしまっているようだ。文庫本の上巻はあったのだが、下巻は在庫がなかった。古本を探して買った。

あるいは、もはや宮尾登美子の描いた世界は古びてしまったのかもしれない。その作品の多くは、市井の人びとといってよいかもしれないが、強いていえば、一昔前の時代の人びとでもある。高知の芸妓娼妓紹介業などは、今は存在しない職業である。また、芸妓や、『きのね』のような伝統芸能の世界も、前近代的な世界といってもいいだろう。

『蔵』が描いているのは、昭和戦前の越後の造り酒屋である。そこに暮らす人びとの愛憎の交錯するものがたりとなっている。この背景にあるのは、もはや過去のものとなってしまった、封建的とでもいうべき地方の「家」である。主人公の烈が、酒蔵の主人となろうと決意するのも、「家」の仕事としての酒造りがあってこそのことである。

この『蔵』の上下巻を読んで思うところを書いてみるならば、次の二点になるだろうか。

第一には、やはり、視覚障害というハンディをもった主人公、烈の生き方である。

失明という事態に対しても、烈は、冷静にみずからの運命としてうけとめているようである。そして、芯の強さは、人一倍といってよい。この烈の強固な個性が、この作品を豊かなものにしている。そのこころのつよさで、最終的には、結婚もし、さらには、醸造元としても成功することになる。

第二には、宮尾登美子の描く、人間の情愛の物語であるということ。

失明するというハンディをおいながらも、懸命に生きる烈。そして、その父。それから、母の妹の佐穂。後添えとしてやってきたせき。これらの人物のおりなす、こころのドラマがこの作品の読みどころの一つだろう。特に、せきの妊娠ということがあり、その相手は誰かと詮索するあたりの、人びとのそれぞれの思いを描いたところは、この小説のクライマックスといえるかもしれない。

不義の子をみごもってしまうせき。しかし、どうしても相手の名前を口にしない。しかし、それをうけれようとする父の意造。一方、それを許すことのできない烈。とまどう佐穂。このあたりのところは、その小説世界の中にひたって読んでしまうところである。

また、烈の恋、これも小説の終盤になって重要な意味をもってくる。

以上の二点を思ってみる。

それにしても、この小説の会話文の越後方言はよみづらいと感じた。だが、あえて読みづらくはあっても、その地方のことばを語らせることによってしか表現できない小説の世界がある。あくまでも越後という地域に根ざした人間の生き方を描くことを徹底させることによって、普遍的な人間の情感を描くことに成功しているといえるだろうか。

主人公の烈の生き方は、確かに厳しいものがある。その厳しさは、時として人のこころを刺し、影をつくることにもなる。宮尾登美子の作品の登場人物のこころのうちには、何かしら、強さと同時に、その強さにともなって生じる影の部分があるように感じる。決して理想的な人格者としては描かれていない。このような宮尾登美子の屈折した人間観は、今ではあまり受け入れられないものになっているのかとも思う。

ともあれ、ここしばらくは宮尾登美子の作品のいくつかを読んでいきたいと思っている。

2019年12月31日記

追記 2020-02-06
この続きの宮尾登美子は、
やまもも書斎記 2020年2月6日
『陽暉楼』宮尾登美子
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/02/06/9210721