『マックス・ウェーバー』野口雅弘2020-06-11

2020-06-11 當山日出夫(とうやまひでお)

マックス・ウェーバー

野口雅弘.『マックス・ウェーバー-近代と格闘した思想家-』(中公新書).中央公論新社.2020
https://www.chuko.co.jp/shinsho/2020/05/102594.html

中公新書と岩波新書で、マックス・ウェーバーについての本がほぼ同時に出た。これは、両方買って読むことにした。どちらから読んでもいいようなものかもしれないが、中公新書の方から読むことにした。著者の野口雅弘は、『仕事としての学問』の新訳など出している。これは出たときに買って読んだ。

やまもも書斎記 2018年7月27日
『仕事としての学問』マックス・ウェーバー
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/07/27/8926433

この訳が印象にのこっているので、中公新書の方からということにした。

中公新書『マックス・ウェーバー』であるが、この本の特徴とすべき点については、この本のあとがきで、著者自身がきちんと整理して書いてある。特に、何ほどのことを付け足すこともないかと思う。

が、読んで印象に残ったことなど書くとすれば、次の二点ぐらいだろうか。

第一には、マックス・ウェーバーの現代的な意味である。

現代において、特に、現代の日本において、マックス・ウェーバーの著作を読むことに、どのような意味があるかという問いかけが随所にある。かつて、マックス・ウェーバーが描き出した、ヨーロッパの近代というものが、日本においては、ある種の理想視されていたという側面がある。私が学生のころ、まさに、マックス・ウェーバーは、そのように読まれていたと言っていいだろう。特に、岩波文庫『プロ倫』の訳者である、大塚久雄の影響力はかなり大きかったと、今になって回想してみることになる。

ヨーロッパの近代を絶対視することがなくなって、あるいは、それを世界的規模のなかで相対的に見るような視点がうまれてきて、「近代」や「宗教」というもの対する考え方も、また変わってきているところがある。そころのところの問題点を、この本はするどく指摘している。

第二には、マックス・ウェーバーを歴史のなかで見る視点である。

たとえば、マックス・ウェーバーと、スコット・フィッツジェラルドを同時代の人間として、見るような視点の設定である。そういえば、『グレート・ギャツビー』も読んではいるのだが、これも、再度読みなおしてみたくなった。

その他、幾多の同時代の登場人物が出てくる。多彩な歴史的な人物群のなかにおくことで、マックス・ウェーバー自身もまた、歴史のなかに位置する一人として描かれることになる。

以上の二点が、中公新書の『マックス・ウェーバー』を読んで思ったことなどである。

さて、岩波新書の『マックス・ヴェーバー』も出たときに買ってある。つづけて読むことにしたい。

2020年6月8日記

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