『鎌倉殿の13人』あれこれ「いざ、鎌倉」2022-03-01

2022年3月1日 當山日出夫(とうやまひでお)

『鎌倉殿の13人』第8回「いざ、鎌倉」
https://www.nhk.or.jp/kamakura13/story/08.html

前回は、
やまもも書斎記 2020年2月22日
『鎌倉殿の13人』あれこれ「敵か、あるいは」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/02/22/9466321

頼朝は、鎌倉へと向かうことになった。

この回を見て思うこととしては、次の二点ぐらいがあるだろうか。

第一には、東国国家という考え方。

頼朝は、鎌倉に館をかまえて、そこを都として、まつりごとを行うつもりでいるようだ。歴史学の立場からするなら、鎌倉幕府による東国国家論とでもいうことになるのだろう。

これまでにもこのドラマでは、板東武者の世をつくりたいと語られてきた。これは、これとして面白い。そのような立場からの歴史ドラマがあってもいいと思う。

一方で、頼朝は都にいる後白河法皇の生き霊にとりつかれている。平家の横暴をただし、源氏の世をつくるのが願いらしい。これは、源氏が軍事権門をになうことになる、権門体制論ということになるのかもしれない。

さて、このドラマは、頼朝の作ることになる鎌倉幕府というものを、どのように描くことになるのだろうか。

第二は、板東の武士たち。

ドラマもこの回ぐらいまで、板東の武士たちの一致団結した様子は描かれない。むしろ、それぞれの利害打算で生きる、ばらばらの状態、烏合の衆といってもいいようだ。

たぶん、これからの流れとしては、これらの武士たちが、鎌倉幕府のもとに団結して……それを象徴するのが「13人」ということなのだろうが……頼朝と幕府を支えていくことになるのだろう。これから、どのようにして頼朝への忠誠心が生まれてくることになるのか、興味深いところである。

以上の二点ぐらいが、この回を見ていて思ったことなどである。

それにしても、頼朝、義時の周辺の女性たちが、なんとも面白い。まるでコントを見ているようでもある。このあたりが、三谷幸喜の脚本なのだろうと思う。

次回から、いよいよ源平の合戦ということになるようだ。義経がどのように活躍するか興味がある。楽しみに見ることにしよう。

2022年2月28日記

追記 2022年3月8日
この続きは、
やまもも書斎記 2022年3月8日
『鎌倉殿の13人』あれこれ「決戦前夜」
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/03/08/9470372

梅の花芽2022-03-02

2022年3月2日 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日なので写真の日。今日は梅である。

前回は、
やまもも書斎記 2022年2月23日
木瓜の冬芽
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/02/23/9466642

年が明けてから、ときどき様子を見に行っている木である。一月のころは、冬芽で、いかにもまだ寒い冬という感じであった。それが、ここにきて少し暖かくなってきたせいもあるのだろう、花芽と言っていいような状態になってきた。もうじき、つぼみと言えるようになるかもしれない。

写真に撮るのは、比較的下の方の枝である。あまり陽当たりがよくない。上の方を見上げてみると、太陽のよくあたるあたりの枝は、より季節の進み具合を感じるようでもある。例年、上の方の枝に早く花が咲く。ただ、接写で写真に撮ろうとすると、せいぜい目の高さにところぐらいしか写すことができない。

沈丁花の花が、もうじき咲きそうになってきている。また、木瓜を見ても、これも花芽と言っていいような様子になってきている。山茱萸の木を見ると、ようやく花が咲きそうな雰囲気である。

三月になると、冬も終わり我が家でもいくつか花が咲くかと思う。季節の移ろいを、これからも写真に撮っていきたいと思う。

梅の花芽

梅の花芽

梅の花芽

梅の花芽

梅の花芽

梅の花芽

Nikon D500
SIGMA APO MACRO 150mm F2.8 EX DG OS HSM

2022年2月28日記

追記 2022年3月9日
この続きは、
やまもも書斎記 2022年3月9日
桜の冬芽
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/03/09/9470771

『眠れる美女』川端康成/新潮文庫2022-03-03

2022年3月3日 當山日出夫(とうやまひでお)

眠れる美女

川端康成.『眠れる美女』(新潮文庫).新潮社.1967(2010.改版)
https://www.shinchosha.co.jp/book/100120/

これも若いとき時に読んでいる。若いときに読んだ印象としては、エロティシズムの小説と憶えている。だが、この年になって……もう、この作中に出てくる老人とほぼ同じ年齢になってしまっている……読んでみると、エロティシズムの小説というよりは、老いを描いた小説として読める。いや、そのような部分をより強く意識して読むようになったということであろうが。

川端康成の代表的な作品であり、最も著名なものの一つであろう。

この作品、まさに性と生、そしてそのゆきつくはてにある老いの世界を見事に描ききっていると感じる。傑作である。

ただ、他の川端作品である『みずうみ』などを読んだ目で見てみるならばであるが、これを一九世紀的なリアリズム小説の延長で理解してはいけないのかもしれない。ひょっとすると、老人が体験したと思っていること……眠らされた少女とのこと……これは、幻影なのであろうか。ふと、そんなことを思ってみる。そう思うと、この作品には、全編に底流として流れている意識の流れというようなものを感じ取ることも可能だろう。意識の流れが連続している、いくつかの短篇のつらなりとも読むことができる。これは、牽強付会な読み方だろうか。

そうではなく、やはり、老いとエロティシズムの小説として理解しておくのが、普通の読み方であるのだろうか。

この作品は、年齢に関係なく、それぞれの年に応じて、何かしら感じるところがあるはずである。だからこその、名作、傑作といえる。

文体、文章の体裁も気になる。この作品は、センテンスが長く、読点「、」も少なめである。段落も長いものが多い。先に読んだ『古都』などは、センテンスが短く、読点が多い。段落も多くなるように改行してある。このあたり、川端康成の文体論としても興味深いところがある。

新潮文庫版の『眠れる美女』には、他に「片腕」「散りぬるを」を収録してある。読後の印象が独特なのが「片腕」。川端康成というのは、こんな小説を書く作家だったのかと、認識を新たにするところがある。若いとき、確か新潮文庫版で読んだと思うのだが、ほとんど憶えていない。「片腕」の文学的魅力について、私の若いときに分からなかったということなのだろう。

2022年2月8日記

『みずうみ』川端康成/新潮文庫2022-03-04

2022年3月4日 當山日出夫(とうやまひでお)

みずうみ

川端康成.『みずうみ』(新潮文庫).新潮社.1960(2012.改版)
https://www.shinchosha.co.jp/book/100118/

新潮文庫版の解説を書いているのは、中村真一郎。その解説のなかで、プルーストに言及して、この小説は、意識の流れを描いたものであると論じている。この発想は、やはり中村真一郎ならではのものであろうが、私はこれに深く同意する。

この小説、筋立てを追って読んで行くと、はっきり言って支離滅裂である。だが、はじめから読んでいって、この小説を語っている意識の流れの連続性というものは、確かにある。そう長くはない作品である。ほぼ一息に読める。読んでいる間、登場人物の心のうちに入りこんでいく。それが、連続的に移り変わる登場人物にしたがって、そのままに意識も流れていく。これは、連続したものとして読むことができる。

文庫本の解説によると、この小説が発表された当時、賛否両論いろいろとあったらしい。常識的に判断して、『伊豆の踊子』とか『雪国』のような小説と比較してみるならば、ある意味で破綻した作品である。だが、これは、常識的なリアリズムの感覚では読めないということである。そうではなく、登場人物の意識に身を任せて読み進めていくならば、そこには、川端康成ならではの文学世界が存在することになる。

川端康成の小説としては異色の作品なのかもしれない。しかし、この『みずうみ』に見られるような意識の流れの連続性という観点で見るならば、『雪国』もまた同類と言っていいのかとも思う。

川端康成を理解するためには、重要な作品であると感じる。そして、川端康成の文学から、まだまだ学ぶべきものが多くあると感じたりもする。

2022年2月8日記

『日本語の技術』清水幾太郎2022-03-05

2022年3月5日 當山日出夫(とうやまひでお)

日本語の技術

清水幾太郎.『日本語の技術-私の文章作法-』(中公文庫).中央公論新社.2022
https://www.chuko.co.jp/bunko/2022/02/207181.html

もとは、『日本語の技術 私の文章作法』として、一九七七年に、ごま書房から刊行の文庫化である。一九七七年というと、私の学生のころのことになる。そのころは、まだ清水幾太郎は、現役で読まれている人だった。その後、急速に消えていったかと思う。ただ、岩波新書の『論文の書き方』のみは、読まれ続けてきた。が、近年になって、清水幾太郎は、復活してきていると言えるかもしれない。いくつかの著作が復刊になったりしている。この本もその一つとして読めばいいだろうか。

内容的には、『論文の書き方』の姉妹編であり、こちらは、「です、ます」の文体で、かなりくだけた調子で書いてある。対象とする文章も、「論文」というよりは、手紙などをふくめたいくぶん知的な文章となる。

読んで思うこととしては、次の二点。

第一に、『論文の書き方』の姉妹編として読むと、これはこれで非常に読みやすい。また、文章の書き方の指南本として、きわめて実用的であり、示唆にとむ内容となっている。

そもそも何故人は文章を書くのか……これは、時代とともに大きく変わった。ワープロとインターネットの発達により、日本語を書くという環境は激変したと言っていいだろう。この本は、当用漢字の時代における漢字制限の問題からはじまって、日本語を母語としていることの意味、そして、文章を書くことの意義に説き及んでいる。この本の書かれた時代と現代とを比較するならば、まさに今の時代においてこそ、文章の書き方が重要になってきている。内容的にいくぶん古びている部分はあるが、しかし、二一世紀の今日において、文章を書くにあたっての参考書として、十分に役にたつ内容である。

第二に、話し方について、多くのページを使っていること。この本が念頭においているのは、人前での講演などである。

いかに自分の話を聞いてもらうか、伝わる話をすることができるのか。現在、COVID-19の影響で、オンラインで人の話を聞くという機会が急速に増えてきている。では、ここではどのようにふるまうべきなのか。いまだ、はっきりとした指針のようなものがないのが現状である。

今では、学会など今では、ほとんどオンライン開催である。そこで、どのように話すのがいいのか。資料の提示は、どのようにするのがふさわしいのか。このようなことについて、いまだ試行錯誤の状態にあると言ってよいだろう。

大学の授業も、二〇二〇年度は、オンラインが主流になったという経緯がある。そこでは、まさに、ZOOMとはいったい何なのかというレベルから始まって、さまざまな試行錯誤と苦労、工夫が積み重ねられてきている。

オンライン(ZOOMやYouTubeなど)と、リアルの講演とは違うところもあるだろう。だが、今の時代の状況を考えると、「話す」ことで何をどう伝えるのか、ここは改めて研究、考察がなされるべきことがらである。この観点から、この本の価値はあるといえよう。(ただ、私としては、もう学校での講義など、学生を相手に話しをすることが、ほとんどなくなってしまっているのだが。)

以上の二点のことが、読んで思うことなどである。

なお、この本の解説を書いているのは、斎藤美奈子。これは、まさに適任というべきかもしれない。

また、いわゆる「文章読本」の類……その多くは小説家の手になる……が、今でも多く刊行されているようだ。谷崎潤一郎のものは、読んであまり感心しなかったということはあるのだが、他にも出ている「文章読本」を読んでおきたくなっている。

2022年2月27日記

『カムカムエヴリバディ』あれこれ「第18週」2022-03-06

2022年3月6日 當山日出夫(とうやまひでお)

『カムカムエヴリバディ』第18週
https://www.nhk.or.jp/comecome/story/details/story_details_18.html

前回は、
やまもも書斎記 2022年2月27日
『カムカムエヴリバディ』あれこれ「第17週」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/02/27/9467738

この週もいろいろとあった。なかで印象に残っていることとして、次の二つぐらいがある。

第一には、あんこのおまじない。

サンタが登場していた。モモケンに会って、あんこのおまじないを伝える。ここで、このドラマは、最初にもどって、岡山の安子編とつながったことになる。しかし、るいの顔を見ただけで、サンタは立ち去ってしまった。さて、これから、るいは母の安子と再会することはあるのだろうか。

ただ、サンタは、安子と長く会っていないと言っていて、死んだとは言っていなかった。ということは、安子はまだ生きているということでいいのだろうか。

第二には、映画村。

確かに、時代劇は、映画もテレビも斜陽産業であったことはたしかである。記憶にある範囲でも、テレビの時代劇は急速に姿を消していったと憶えている。

映画村の経営はどうだったろうか。ドラマでは、映画村の入場者数も減少となっていた。

映画村のお化け屋敷は面白かった。映画監督が演出するだけのことはあって、本格的なお化けであったかと感じる。

しかし、五十嵐は不満である。自分は俳優であるという矜恃がある。とはいえ、まだ大部屋なのであるが。

以上の二つぐらいが、印象に残っていることだろうか。

さて、ドラマでは、ノストラダムスの大予言は実現するのだろうか。ドラマだからそうなってもいいような気もする。しかし、そうなると、一〇〇年の物語が続かなくなる。ここは、ひなたの杞憂ということになるのかと思う。

次週、ひなたは再度、英語に挑戦するようである。楽しみに見ることにしよう。

2022年3月5日記

追記 2022年3月13日
この続きは、
やまもも書斎記 2022年3月13日
『カムカムエヴリバディ』あれこれ「第19週」
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/03/13/9472035

『日曜日 蜻蛉』志賀直哉/中公文庫2022-03-07

2022年3月7日 當山日出夫(とうやまひでお)

日曜日 蜻蛉

志賀直哉.『日曜日 蜻蛉-生きものと子どもの小品集-』(中公文庫).中央公論新社.2021
https://www.chuko.co.jp/bunko/2021/12/207154.html

この文庫本は、志賀直哉の短編作品集である、『日曜日』(一九四八)、『蜻蛉』(一九四八)を合冊したものである。一部、重複している作品は、整理して編集してある。

志賀直哉については、若いころから読んでいる。学校の教科書にも採録されていたのを憶えている。

近年になっても読んでいる。『暗夜行路』を、読みなおしてみたりした。(これは若いときに手にした作品である)。また、新潮文庫版で、作品集が二冊で出ているのを読んでもみた。

中公文庫で、新たに短篇集として、新編集で出たので手にしてみた。

読んで思うことは、次の二点ぐらいである。

第一には、やはり志賀直哉は短編小説の名手であること。

どの作品も、たいていは身近なところに題材をとっている。それは、多くの場合、子どもであったり、生きものであったりであるが、これらを題材にして、短い作品を仕上げている。

これを読んで気づくのだが、「小僧の神様」も「清兵衛と瓢箪」も、子どもを題材にした作品であることに気づく。また、「城の崎にて」も、これは生きものをあつかった作品の系譜に位置づけられることになる。このような短篇集……志賀直哉の作品としては、この文庫本の編集の方が、もとの形に近いものになるのだが……で読んでみることによって、なるほど志賀直哉とは、このような系譜の作品群を書いていたのかと、認識を新たにするところがある。

第二に、知った地名が出てくること。

これは、この作品集の文学的な方面とはまったく関係ないのだが、読んでいると、今住んでいるところの近くの地名がいくつか出てくる。志賀直哉が奈良に住んでいたとき、今の私の住んでいるあたりまでは、日常の行動範囲であったことがわかる。だからといって、どうということはないのかもしれない。しかし、その当時……戦前になるが……の、近鉄の電車と駅、道路はどんな状態であったのか、これは気になるところでもある。

以上の二つぐらいが、この中公文庫版を読んで思うことなどである。

さらに書いてみるならば、この作品集は、生きものをあつかった作品が多い。犬などのことが出てくる。読んでいると、現代の日本社会の犬に対する対応……それは、犬というよりも、ペットとして家族の一部というあつかいであることが多いと思うのだが……これも、時代とともに大きく変わってきていることが分かる。場合によっては、今の若いひとたち、あるいは、子どもたちが、この作品集を読むと、幾分の違和感を感じるところがあるかもしれない。

2022年3月1日記

『鎌倉殿の13人』あれこれ「決戦前夜」2022-03-08

2022年3月8日 當山日出夫(とうやまひでお)

『鎌倉殿の13人』第9回「決戦前夜」
https://www.nhk.or.jp/kamakura13/story/09.html

前回は、
やまもも書斎記 2022年3月1日
『鎌倉殿の13人』あれこれ「いざ、鎌倉」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/03/01/9468363

いよいよ源平の戦いがはじまった。

この回を見て印象に残っているのは、次の二点ぐらいだろうか。

第一には、板東武者と忠誠心。

武士であるから、主君には忠誠心があるのがあたりまえ。これは、今日の感覚かもしれない。このドラマでは、源氏の方の武士たちは、かならずしも頼朝に忠誠心を持っているとは限らない。頼朝への忠義よりも、自分の所領のことの方が心配である。

結果としては、富士川の合戦において勝利はしたものの、それ以上の追撃は不可能であったということになる。これには、攻めようとしたものの兵站がかなわなかったということもあるが。

そして、頼朝は孤独である。では、北条義時はどうなのであろうか。頼朝に忠誠心を持っているのだろうか。このあたり、まだはっきりしない。北条が生きのびるためには、源氏の棟梁である頼朝が必要であるという気持ちはあるようだ。だが、これは、かならずしも頼朝に対する忠誠心につながるということでもないようである。

第二、義経との出会い。

富士川の合戦の後、頼朝は義経に会うことになる。ここで対比的なのが、板東の武士たち……かならずしも頼朝に忠義をつくすというのではない……これに対して、義経は身内である。

歴史の展開としては、この後、義経が源氏の軍勢を率いて平家追討ということになる。(義仲なども登場すると思うが。)

源氏の棟梁ではあるが、自分の家来というものを持っているのではない頼朝にとって、弟の義経は何よりありがたい存在であった。(まあ、結果としては、頼朝は義経と決裂することになるのだが、今はその段階ではない。)

以上の二点ぐらいが、印象に残ることなどである。

このドラマの撮影は、夜の合戦のシーンをよく描く。松明のあかりなど、映像として効果的に使えるということもあるのだろう。これも、撮影技術の進歩を反映した、あたらしいドラマの映像作りということで見ておいていいことなのだろうと思う。

次週以降、さらに源平の合戦はつづくことになる。楽しみに見ることにしよう。

2022年3月7日記

追記 2022年3月15日
この続きは、
やまもも書斎記 2022年3月15日
『鎌倉殿の13人』あれこれ「根拠なき自信」
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/03/15/9472602

桜の冬芽2022-03-09

2022年3月9日 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日なので写真の日。今日は桜の冬芽である。

前回は、
やまもも書斎記 2022年3月2日
梅の花芽
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/03/02/9468656

今年の桜は、どうだろうか。天気予報など見ていると、ほぼ例年通りということの予想のようだ。

我が家の駐車場の桜の木である。毎年、写真に撮っている。去年は早く花が咲いたように憶えているが、今年はどうだろうか。冬の寒いときから、時々見ているのだが、三月になって少し暖かくなってきたせいか、冬芽といっても、徐々に様子が変わってきている。まだ、花芽というには早いだろうが、しかし、真冬の時とは変わってきているのが分かる。

桜の花の咲く頃、ちょっとでかければいろいろと写真が撮れるのだろうとは思うが、基本的に我が家のうち、せいぜい、家から歩いて行けるところの写真しか写さないことにしている。また今年も同じように桜の花の季節を迎えることになるかと思う。年々歳々、同じように花の写真を撮っていければいいと思う。

桜の冬芽

桜の冬芽

桜の冬芽

桜の冬芽

桜の冬芽

桜の冬芽

Nikon D500
TAMRON SP 90mm F/2.8 Di MACRO 1:1 VC USD

2022年3月8日記

追記 2022年3月16日
この続きは、
やまもも書斎記 2022年3月16日
梅のつぼみ
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/03/16/9472931

『名人』川場康成/新潮文庫2022-03-10

2022年3月10日 當山日出夫(とうやまひでお)

名人

川端康成.『名人』(新潮文庫).新潮社.1962(2004.改版)
https://www.shinchosha.co.jp/book/100119/

私は、残念なことに囲碁についての知識がまったくない。そのルールも知らなければ、プロ棋士の世界がどのようであるのか、その対局についても、まったく知らない。(そもそも、ゲームの類いに縁のない人間なのである。)

だから、この『名人』という作品を読んでも、本当のところは分からないままなのかもしれないと思う。小説の終わりには、棋譜が掲載になっている。囲碁の知識があって、これを参照して読むことができるならば、きっとこの小説は、随分と面白い作品であるにちがいない。

とはいえ、読んで感銘をうけるところがあるとすれば、次の二点ぐらいがポイントになるだろうか。

第一には、「見る」という視点の設定である。

川端康成の文学は「見る」文学であると言えるだろうか。この小説の語り手は、囲碁の対戦記事を書く記者という設定である。このような人物を設定しなくても、一般の第三人称視点でも十分に小説としてなりたつのであろうが、ここであえて記者という「見る」立場の人物を設定してあることが、作品により深みを与えていることになる。

作品の冒頭近くにある、死体の死に顔の写真を撮るところなど、まさに「見る」文学としての川端康成である。

第二には、囲碁と芸術。

書いたように、私は囲碁についての知識は皆無なのであるが、それでも、読んでいて、その棋士の描写は、印象的である。囲碁という勝負の世界のことでありながら、一方で、それを一種の芸術として見るところがある。芸術としての囲碁というものを描き出したところに、この小説の妙味があるのだろう。

以上の二点が、心にのこることなどである。

解説を書いているのは、山本健吉。それによると、太平洋戦争中からこの作品のもとになるものが書かれてきている。それを戦後になってから完成させて雑誌に発表して一つの作品にした。おそらく川端康成にとっては、囲碁の世界、またそこの棋士や名人というものに、非常に深く傾倒したところがあったにちがいない。

囲碁の世界に美を見出す、これも川端康成の文学ということになる。

2022年2月8日記