「筒井康隆の世界 〜文学界の巨人 90歳のメッセージ〜」2024-11-22

2024年11月22日 當山日出夫

筒井康隆の世界 〜文学界の巨人 90歳のメッセージ〜

見ていて思ったことなど、思いつくままに書いてみる。

まず、現役の作家……筒井康隆は存命であり、引退したというわけではない……について、このような番組を作ることは異例である。それだけ、筒井康隆という作家が、特に若い人を中心に読まれているということなのだろう。そうはいっても、かなり特殊な事例だという印象はある。死んでから特番を作るよりも、生きているうちにインタビューを撮っておいた方が、面白いものができるということはあるかもしれない。

荻野アンナが出てきていた。若いころ、学生だったとき、三田のキャンパスで顔を覚えている。たしか仏文だったはずである。芥川賞をとったとき、あああの女の子か、と思ったものである。そのころの慶應の文学部の雰囲気として、文学に興味関心のある学生にとって、筒井康隆は注目すべき作家の一人だったと。その時代は、一方で吉本隆明も広く読まれていた時代でもあった。(ちなみに、宗教社会学の宮家準先生は、『共同幻想論』を受業で読んでいた。これは、その当時としては珍しい例ということになるが。)

学生のとき、筒井康隆はかなり読んだ。その風刺、笑い、皮肉、そして、時代と社会に対する強烈な批判……これらは、たしかに筒井康隆の世界として、文学部の学生(文学に関心のある)に受容されていたものである。

私としては、どうしても、『朝のガスパール』のことは忘れることはできない。極端にいえばであるが、『朝のガスパール』のことをきっかけに、筒井康隆といえども、この程度の作家であったかと思ったことは確かなことである。

当時、今のアサヒネットがパソコン通信であったころのことである。これは、それまでのパソコン通信が、匿名(ハンドルネーム)であったのに対して、実名表示というシステムであった。朝日新聞社が、雑誌『朝日パソコン』を創刊するのにあわせてはじまった。たぶん、私は、これに申し込んだ最初期のユーザであったはずである。(いろいろとあって、その初代の社長の島戸一臣さんとも親しく話しをしたこともある。)

朝日新聞に筒井康隆が『朝のガスパール』連載するのにあわせて、パソコン通信で「電脳筒井線」というコーナーができた。これは、閉じたグループとして、その存在は隠されていた。参加していたユーザから見ると、新聞連載の小説と、パソコン通信上でのメッセージのやりとりが、同時並行してあって、パソコン通信でのことが小説に反映されていく(かのように作ってあった)、ということになる。

ここでは、かなり過激なやりとりがあったと私は記憶する。途中から、私は、「電脳筒井線」のなかで非常に批判的なスタンスで書くようになった。その一つの論点は、番組のなかで出てきた用語でいえば、メタフィクションということをめぐってであった。パソコン通信のなかで、その参加者のほとんどは、朝日新聞に連載の『朝のガスパール』という小説の「作者」が「筒井康隆」という作家であり、その同一の人物がパソコン通信「電脳筒井線」のなかでも発言している、という大前提であった。リアルな「筒井康隆」という作家が、パソコン通信のなかにもいるということである。

これはおかしいと私は感じた。パソコン通信「電脳筒井線」の中の「筒井康隆」と、朝日新聞に『朝のガスパール』を書いている「筒井康隆」が同一であるという保証がどこにあるのだろうか。「電脳筒井線」で言っている『朝のガスパール』と、朝日新聞に連載の『朝のガスパール』が同じ小説だと思いこんでいるのは、幻想にすぎないのではないか。どちらか、あるいは、両方がそれぞれに、フィクションの存在であってもかまわないのではないか。そうであるにもかかわらず、同じと見なしているだけのことである。

ここに参加している人の多くは、筒井康隆とパソコン通信上でやりとりできることを、何かの特権であるかのように感じている。これが、私には、どうにも我慢できないことであった。

「電脳筒井線」が始まるまえに、東京で参加者の会合があって出かけていったことがある。そのとき、挿絵を担当する真鍋博さんも出ていた。

パーティの席上で、私はこう言ったのを憶えている。これまでの、作者と読者の関係は、「1:N」の関係であった。それが、パソコン通信の世界では、「N:N」になる。まあ、このような発想は、インターネット以降、現代のSNSの時代になって当たり前になってきたことではあるが、その当時、このように考えている人間はまだ希だった。この世界では、「筒井康隆」といっても、「N」のなかの一つにすぎない存在となる。

この「N:N」の世界のなかでは、もはや中心は存在しない。「筒井康隆」を中心にした世界の一員であることに満足しているようではいけない。この「N:N」の世界のなかでは、自分自身が中心になった世界しか見ることができない。(このように予言的に言ったのだったが、これは、まさに今のSNSの世界でそうなってしまっていることになる。ユーザの数だけタイムラインがある。中心もなければ、正しいタイムラインなどは存在しない。)

朝日新聞連載の『朝のガスパール』が本物で、「電脳筒井線」はその影のような存在とほとんどの参加者が思っていたようだったのだが、これもおかしい。「電脳筒井線」こそが本体であって、その影が朝日新聞連載の『朝のガスパール』であってもおかしくない。この当時、まだネット上のことは虚構で、リアルの社会とは別のものであるという感覚が一般的だった。それが、現在では、ネットのなかにこそリアルを感じる社会に変貌してきてしまっているのは、周知のとおりである。

だが、上記のような考え方は、その当時の筒井康隆ファンであるような人たち、「電脳筒井線」のメンバーでもある、には理解してもらえなかったことになる。

初期のパソコン通信、PC-VANなどからはじめて、朝日ネットなどを経て、今のインターネットの時代まで、見てきて体験してきたというのが、私の経験してきたことである。そのなかで考えたこと、感じたことは、いろいろとある。そのなかでも、やはり、『朝のガスパール』のときに考えたことが、今の時代になっても、私がインターネットやSNSについて、考えるときの基本にあると感じるところである。

朝日ネットで「電脳筒井線」を始める前に、朝日ネットの社長の島戸一臣さんがこんなことを言っていたのを記憶している。メンバーのなかに人工知能を配置して応答するようにしたら面白い。これは、その当時としては、まさにSF的な話しであって、不可能なことであった。だが、これも、今ではAIの発達によって現実のものになってきている。

『朝のガスパール』でいろいろと発言していた、その多くは私に対して非常に敵対的であった、その人たちは今はどうしているだろうかと、考えてみることもある。

その他、この番組で触れなかった作品としては、『文学部唯野教授』のことなど、いろいろと思うことはある。また、教科書に採録の作品をめぐって、断筆宣言をしたときのことも、別の観点から考えるならば、文部省の教科書の検定のあり方についての問題でもあったことになる。しかし、世間ではこの論点からの議論がまったくなかったといってよい。

思うことは多々あるが、これぐらいにしておきたい。

2024年11月18日記

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