『とと姉ちゃん』「常子、はじめて祖母と対面す」「常子、編入試験に挑む」2025-06-01

2025年6月1日 當山日出夫

『とと姉ちゃん』「常子、はじめて祖母と対面す」「常子、編入試験に挑む」

この週を見て思ったことなど書いておく。

このドラマは、これまでのところ、家と家族の物語として見ることができる。木場の青柳の家は、昔ながらの家である。滝子、つまり、女性が当主であるが、その意識としては、200年続いてきた、昔からの商いを重視する老舗である。(これが、京都だったら、たかが200年と言われるところであるが。)

一方、小橋の方は、家族である。父親は亡くなってしまったが、母親と娘三人で構成されている家族である。

近代になってから、それまでの家というのは、近代的な個人の自由を束縛する封建的遺制であるとして否定され、それに変わって家庭というものが重視されるようになってきた(かなりステレオタイプないいかたではあるが)、このような大きな流れがある。むろん、これもさかのぼれば、歴史的に大昔から家があったわけではないし、逆に、現代では家庭というもの、さらには、結婚という制度そのものが、個人を束縛するものとして、否定的に考える傾向になってきている。(一部の先端的な(?)考え方としては、ということになるかもしれないが。)

常子が、昭和の時代に生きた自立した女性として描かれるということは、まずは、昔の家からは解放される必要がある。別に書いてもいいことだろうが、木場のあたりは、昭和20年の東京大空襲で壊滅的な被害を受けることになる。それが将来に起こることであるということをふくんで、木場の材木商という設定にしてあるのだろうと思う。

青柳の家を出て、常子たちは、お弁当屋の森田屋で働くことになる。ここは、家族営業のお弁当屋さんであり、青柳の店に比べると規模は小さい。基本は、家族が従業員であり、その主人はいばっている。ここも、(その後、戦後になって考えられる)民主的な夫婦を単位とする家庭ではない。それ以前の姿をとどめている、ということになる。

家、家庭、個人、このようなことを、このドラマでどう描いていたことになるのか、今後の展開を見ながら確かめてみようと思う。

2025年5月30日記

『チョッちゃん』(2025年5月26日の週)2025-06-01

2025年6月1日 當山日出夫

『チョッちゃん』

この週で蝶子は、岩崎要の結婚のもうしこみに、「はい」と言ってしまう。この流れはかなり強引である。

要は蝶子に歌を歌ってみろという。要がピアノを弾き、蝶子が歌う。それを聞いて、声楽家は無理だから、おれの嫁さんになれ、と言う。ここが、今の普通のドラマだったら、声楽家になるために勉強を続けてもいいから、いや、その希望をかなえるように支えるから、結婚しよう、というふうになるところだろう。これは、昭和の戦前の価値観もあるが、このドラマの制作された1980年代では、このような筋書でも視聴者は納得していたということがあるはずである。

今の『あんぱん』では、若松次郎と結婚したのぶは、そのまま小学校の教員を続けている。これは、夫の次郎が船乗りで、家を空けている期間が長いからという理由になっている。昔のドラマだったら、夫の実家で、航海の帰りを待つ妻であり、その家族(夫の父親や母親)と一緒に生活する、ということになっていたところかと思う。『チョッちゃん』と比べて見ると、やはりここ四〇年ぐらいの時の流れを感じる。

要に最初に結婚をもうしこまれたとき、蝶子は、要をたたいてしまう。かなり乱暴な行動であるが、とっさの動作として、こういうこともあったろうし、だからといって蝶子が無分別な女性という印象にはならない。突然のことで、思わず行動に出てしまったということであるが、その意図を、要も理解しかねる。もちろん、蝶子自身も、なぜ自分がそのような行動をとったか理解できないでいる。このあたりがこのドラマの蝶子の魅力かと感じるところである。

要の求婚について、おばさん(富子)は反対する。要が女性にだらしないからというのが理由である。これまでの朝ドラで、こういうタイプの男性と結婚するというのは珍しいかと思う。

蝶子は、まわりの人に相談する。蝶子の週の人たちは、みんな大人である。そのなかで、もっとも冷静な判断をしているのが、神谷先生ということになるだろうか。しかし、自分で決めることだと言われても、自分でどうしていいか分からないから、蝶子は困惑しているのだから、あまり助言としては役にたたなかったことになる。

北海道の幼友達の頼介から手紙が来た。その文字を見ると、その生まれ育った境遇が分かる。まともに学校教育を受けることができなかった、貧しい農家の育ちということが分かる。これに対して、蝶子が手紙を書くシーンがあったが、それを見ると、女学校できちんとした教育を受けた女性であることが分かる。

それから、この時、蝶子はペンにインクをつけて書いていたが、この時代であれば、これが普通だった。その後も、昭和四〇年代ぐらいまで(私が中学生ぐらいまで)、普通に使っていたものである。こういうところも、今の時代に制作するドラマだと、万年筆で書くようになっている。『あんぱん』では万年筆で手紙を書いている。

また、蝶子の書いた文字は、女性の文字である。この時代であれば、ペンで書いてあっても、その筆跡を見れば、女性が書いたものとわかる。そういう時代であったのである。

その他、蚊帳とかはえ叩きとか、その時代においてごく普通にあり、ごく近年まで日常的にあったものが出てきている。これらは、本当に今の生活では目にすることがなくなってしまったものである。ほぼ同じような時代設定で描いている『あんぱん』では、こういう小道具は出てきていない。こういうところにも、時代の流れを観じることになる。

2025年5月31日記

『あんぱん』「絶望の隣は希望」2025-06-01

2025年6月1日 當山日出夫

『あんぱん』「絶望の隣は希望」 

今の時代に、昭和の戦前のドラマをつくるとこうなるのかなあ、という気はするのだが、やはり見ていて気になるところがいくつかある。時代的な背景を抜きにして、登場人物だけを見ているならば、それなりに面白く作ってあるとは思うのだけれども、不自然なところがあると感じる。

父親の危篤という電報を受け取って、嵩は高知にもどる。さすがに、嵩の下宿には電話は無いということなのか、これまでのように、高知と東京がすぐに長距離電話がつながるということはなかった。

嵩は卒業制作を仕上げてからと頑張るのはいいとしても、この時代(確か昭和14年のころのはずである)、東京から高知に向かう列車が、ガラガラということはありえないだろう。ここは、乗客を登場させることぐらいあってもいいはずである。(こういうところで手抜きをして作ってあるなと感じる、いろいろと気になるところばかりになってしまう。)

のぶは次郎と結婚する。その結婚式を、花嫁の家である御免与の朝田の家でするだろうか。家でするとしても、ここは高知の次郎の住む家の方だろう。あるいは、お見合いをした料亭とか、洋食を食べて話しをしたレストランとかであってもいいかと思う。そうではあっても、日常生活の華美が遠慮された時代として、ごくごく内輪の人間だけで、ということになったとは思う。こういうことを、科白かナレーションで、説明することも、この時代を描くこととして重要だろう。

なぜ、朝田の家で結婚式だったのか、説明があった方がいいと思ってしまう。次郎は、航海にばかり出ているので、高知の家はただ寝るだけのところである、というようなことでもよかった。しかし、それにしては、結婚した直後の次郎の家は、ごく普通の住居であるように描かれていた。朝田の家での結婚式がどうも納得できない。

結婚式の日取りが決まったと次郎が朝田家にやってくるのも、どうなのだろうか。普通なら、仲人がはいって連絡をとってだろうと思う。仲人がいないということなら、そういうことになったとなにがしかの説明があった方が自然である。

この時代に写真を趣味にできるというのは、かなりの資産家であったと思われるのだが(以前にも書いたように、ライカが一台あれば家が買えたという、まさに富の象徴である)、のぶの生活は、そのような資産家にとついだ玉の輿ではなかったようである。このあたりの描き方も、理解できない。

この週の展開で、もっとも気になるのは、朝田パンの店で、乾パンを焼くかどうかの問題。ドラマを見ていると、高知の地方の連隊の判断として、朝田パンに乾パンの製造を依頼した、ということのようである。これは、今のことばでいえば、随意契約として民間の業者を選定したということである。

陸軍の食糧などを統括するのは、陸軍経理部であるはずであり、そこを担当する軍人は、陸軍経理学校出身であるはずである。そして、呼称も普通の軍人の階級とは異なる。そして、乾パンについては、地方の連隊で、単独に地元の業者と契約するようなものではなかっただろう。兵士が食べるものを規則にのっとって管理するのは、軍隊として当然のことである。おそらく極めて厳格な管理があったはずである。

このようなことは、Copilotでもつかって、陸軍の糧秣についてたずねてみる、Wikipediaで、いくつかの項目を見る、これぐらいのことで容易に分かる。

兵士の食べるものというのは、軍隊にとって基本である。それは厳しく管理されていなければならなかった。ちょっと古い本になるが、高野孟の『海軍めしたきものがたり』(新潮文庫)を読むと、その管理のあり方が、厳格なあまり過剰に官僚主義的形式主義的であったことが語られている。陸軍でもそう変わるものではなかっただろう。(食事もそうであるが、兵士を性病から守ることも、軍に求められたことであった。)

乾パンと言っているが、軍隊での用語としては、重焼麺麭・乾麺麭であったと思うが、一般に乾パンになっていたということでいいのだろうか。これは陸軍で採用した携行できて保存できる食糧である。メイコは美味しいといって食べていた。しかし、この食べ物の場合は、焼き上がってすぐのものを食べて美味しいとかどうとかというものではないはずである。一般には、乾パンは美味しくないものの代表であった。少なくとも近年になって災害用の非常食として見なおされるようになるまでは、そうであった。やむおじさんが作っても、乾パンは美味しくない、これでよかったと思う。(まあ、このあたりのことは、現代では乾パンは災害用の非常食として見なおされているので、あまり悪い印象を作りたくないということだったかとは思うこともできるが。)

木箱に入れて連隊まで持って行ったようなのだが、これは、そのまま連隊での食事になるのだろうか。常識的には、数を決めて分けてさらに包装するなりして、携帯できるようにして戦地のおくるかと思う。これは、地方の連隊で独自におこなうようなものではなく、陸軍全体での兵站の仕事として、中央で取り仕切ることのはずである。だからこそ、これ(軍隊のでの食糧)についての専門家を養成するための、陸軍経理学校が必要になったのである。戦地ではなく、国内でのことであるから、逆に普通の軍人が口出しすべきことではなかったにちがいない。軍の組織の縦割りの硬直化ということこそが、問題になるべきところだろう。

ここまでの展開を見ていると、どうしても、パンと軍隊を結びつけて筋書きを作りたいようで、かなり無理な展開になっていると感じざるをえない。別に、町の中のパン屋さんが乾パンを作ったからといって、それが軍に協力した、強いていえば戦争に協力した軍需産業であった、などということはないだろうと思う。これが普通の人間の感覚だと思うのだが、どうだろうか。こういうことを言いだせば、軍隊で食べるお米を作った農家も、戦争協力者として非難されなければならなくなてしまうと思うが。

むしろ、この時代、普通に生活していることが、そのまま戦争につながることになっている、徐々にそうなっていく、という時代の変化、人びとの意識のあり方、生活の変化ということを描いておくべきことと思えてならない。

たとえば、(以前に少しだけ出てきた)「のらくろ」でもいいはずである。これは、明らかに軍国漫画であった。二等兵からはじまって最終的には大将にまでなる。それを楽しく読む子どもたちの姿を描いてはいけないのだろうか。(ただ、田河水泡の没年を見ると、まだ著作権は消えていないので、使えなかったということだろうか。)

前にも書いたことだが、朝田石材店に戦没者の墓石の注文がある、ということでもいい。釜じいは、そのような注文はこなしてきたが、豪の墓石だけはどうしても彫ることが出来なかった、ということでもよかったはずである。この方が、豪を失った嘆きが強く表現できたにちがいない。あるいは、徐々に材料が手に入らなくなって、あんパンを作ることがむずかしくなっていく、ということがあってもよかったはずである。そうであってこそ、軍用の乾パンのために、軍から小麦粉などを特別の枠で提供してもらえるということが、活きてくる。なぜ、こういうことを描いていないのだろうか。脚本が何も考えていないとしか思えない。

確認のため繰り返しておく。

乾パンは、軍用であり、美味しくないもの、食べにくいものの代表であった。しかし、その乾パンさえも食べることが出来なくて、多くの兵士は飢えて死んでいった。やむおじさんとしては、おいしくない乾パンを作らされるのは、軍の仕事をするのが嫌だったということよりも、パン職人として我慢できなかったという方が、自然である。

乾パンなど陸軍の食糧の生産と管理はどのようなものであったか、説得力を持って描けていない。近代になってから、軍隊(陸海軍)が、日本人の食事の全体に大きな影響を与えてきたということは、歴史の常識である。

どうも、このドラマのスタッフ、脚本は、この時代の人びとの生活の意識ということについて、あまりに知識と想像力がなさ過ぎるという印象がある。どう感じるかは世代差があることがらとは思うが、私としては違和感を感じるところが多々ある。

2025年5月30日記