ハイケン内見 〜世界の町で部屋探し〜「ローマ」2025-06-02

2025年6月2日 當山日出夫

ハイケン内見 〜世界の町で部屋探し〜 ローマ

番組表でたまたま見つけたので録画しておいて見た。

こういう視点で、外国に住む人の生活について語るということは、面白いと思う。まあ、この場合、出てきた人が中流以上の階級の人びとだから、というかたよりはあるにちがいないが。かといって、下層(とあえていうが)の人びとであったりすると、取材などがむずかしいかもしれない。もちろん、スラムにくらす人びとのことは、こういう方法では無理だろう。

古代の遺跡の一部を使った建築があるというのは、いかにもローマらしい。

バスルームで、バスタブは無くてもいい、いや、今では無いのが当たり前ということや、ビデは必需品というのは、面白い。(日本だと、トイレのウォシュレットは当たり前で、それにはビデ機能もついているが、このあたりは、どうなのだろうか。)

玄関をはいってすぐに寝室があり、その寝室の壁が全面の鏡になっているというのは、ちょっと日本ではないだろう。(まあ、鏡をつける人はいるかもしれないが。)

出てきた家のベッドルームが、どれも、ダブルベッドになっていたのは、たまたまなのだろうか。ここは、今の日本だと、シングルを二つ置くことが多いかもしれない。

自分の部屋、書斎、というべき使い方の部屋はどうなるのか、ということは気になる。(今の時代だと、家のなかでWi-Fiがつながるかどうかということが、気になるところなのだが。)

台所のシンクが二つ並んであるというのは、便利そうだが、日本でこういう需要があるだろうか。

自分が死んだら所有権が移るという売り方は、ある意味で合理的ではある。ただ、これは、建物の耐用年数が長い、ということがあってのことになる。日本のような木造建築が主流のところでは、これは無理かもしれない。

気になったのは、五階まで登るのに階段ということ。日本でも、古く建てられた団地などで、こういうところはまだあるかもしれないが、今だと、エレベータが必須だろう。特に、住む人が高齢になってくれば、階段を登るのは苦労がある。こういうことは、ローマの人は平気なのだろうか。

番組の趣旨からしてあつかわなかったのだろうが、郊外の住宅地とか、新しい高層マンションとか、中はいったいどうなっているのだろうか。

2025年5月27日記

『八重の桜』「八月の動乱」2025-06-02

2025年6月2日 當山日出夫

『八重の桜』「八月の動乱」

私の思うところでは、『八重の桜』での松平容保(綾野剛)が、他の作品の誰よりも印象に残るところがある。武士なのだが、武士らしくない感情をうまく表現している。忠誠心が、この場合には、孝明天皇に対してのものになっている。これは、もうほとんど、(あまりいいことばが思いつかないが)盲目的な恋愛感情に近い。

だからということもあるのだろうが、このドラマにおいては、あまり女性が活躍しない。無論、主人公は、八重であるのだけれども、今のところ会津の自分の家でくすぶっているだけである。活躍することになるのは、会津戦争においてであり、その後、京都に舞台が移ってから、同志社を設立するあたりになる。ここで、ようやく八重の女性としての側面(?)が表現されるようになる。

この意味では、『八重の桜』の前半においては、松平容保が大きな位置をしめる。孝明天皇と松平容保の関係は、ほとんど恋愛感情に近いと言ってもいいかもしれない。両者とも、非常に女性的な人物造形になっている。いわゆる男性的な猛々しさという部分がまったくない。

こうなると、武士としての忠誠心などは、どうでもよくなってしまう。その結果として、戊辰戦争での会津の悲劇と続くことになるので、会津藩にとっては、よくよく貧乏くじの殿様にあたってしまった(というのは言い過ぎかとも思うが)となるかもしれない。容保の朝廷への忠誠心と、八重たち会津藩の人びとの、藩への忠誠心、これが、ドラマのなかで違和感無く融合しているところが、このドラマの面白さといっていいかと思う。

2025年6月1日記

『べらぼう』「蝦夷桜上野屁音」2025-06-02

2025年6月2日 當山日出夫

『べらぼう』「蝦夷桜上野屁音」

この回の演出は、大原拓。かなり凝った映像で表現している。往年の映画監督でいうならば、五社英雄監督あたりを彷彿させる。終わりの方であった、吉原の宴会シーン「屁」など見ると、そう思う。

誰袖がいい。以前の瀬川とはちがった魅力を出している。ちらっと映っていただけであるが、吉原のお稲荷さんで拝んでいるときの後ろ姿が、なんとも妖艶である。

時代劇ではよく出てくることだと思うが、キセルの雁首を灰吹きに打ち付ける。これを効果的に使って場面転換をするということが、巧みに演出してあったと思う。

狂歌は、あんなものだったのかなあ、という印象である。五七五七七に作ればいいというものではないし、どことなく雅の要素(古典的な和歌の何かを感じさせる)があって、そのパロディとして面白く、そして、世の中に対する風刺と笑いの部分がなければならない。ただ、おもしろおかしいだけのものというのも、世の中の状況によっては、痛烈な風刺となりうる。

『赤蝦夷風説考』は、昔、高校の歴史の教科書で出てきたのを憶えている。

このドラマのなかでは、ロシアは日本との交易を求めてきている、ということであったが、大きな歴史の流れとしては、いわゆる南下政策ということになる。これが、江戸時代のなかばぐらいのころから、日本にやってくるようになり、最終的には、幕末にいたって、いわゆる開国ということになる……常識的には、こういう筋書で考えることになるだろう。(そして、この延長として、近代化をすすめる日本との間での、朝鮮半島から満州地域の覇権をめぐって日露戦争ということになる。『坂の上の雲』の時代ということになる。)

歴史のもしも、ということになるが、もし、田沼意次の時代に北海道を天領にして開発に乗り出したとしても、はたしてどうだっただろうか、という気はする。まあ、松前藩がもうけていた分を、幕府が横取りするということになったとは思うが。

錦絵というのは、絵師だけの技量で決まるものではなく、彫師、摺師、これらの協業のうえに成立する。最終的にどんな色で表現することができるのか、絵師が絵の具で描いた色が、板木ですると実際にはどうなるのか、ここを見定めることができる人間が、軸になって指示しなければ、いい作品はつくれない。こういう視点での、蔦重の役割がどうであったのか、ということになる。

江戸の出版を戯作だけで描くことはどうかなと、相変わらず思うところはあるのだが、しかし、戯作や狂歌にかかわることになる人びとを、吉原をからめて、それぞれの人物像を描くということについて見れば、このドラマは、成功しているといっていい。作品のアイデアをめぐってのライバル意識、絵師であったり戯作者であったりして、どの分野でどのような作品・作風で勝負するか、このあたりの人びとの人間関係の気持ちは、これはおそらく現代にも通じるものというべきであろう。

本を作る、錦絵を作るには、全隊について指図する人間が必要である。こういうことで本や錦絵にかかわることができる、蔦重は気づくことになる。そして、「そうきたか」というアイデアで、読者にアピールする道があることを、目指すことになる。この方向で、後に歌麿が絵師として世に出ることになる、ということであろう。

恋川春町は、ややこしい人物である。そこをなんとかその気にさせて筆をとらせるのも、出版にかかわる蔦重の仕事ということである。

松前藩では、抜け荷をしている……だが、このようなことは、公然の秘密であったような気もするのだが。薩摩が琉球を支配し交易していたということもふくめて、知られていたことだったと思っているのだが、どうなのだろうか。

一橋治済は、あいかわらず不気味である。あまり科白はないけれど、その存在感は尋常ではない。前回まで薩摩と仲がよかったとあったが、今回では松前藩と仲がいいということになっている。史実はともかく、日本全体を視野にいれた交易ということを考えていたことになる。

この回は、脚本としても面白いし、また、映像としてみてもケレン味たっぷりの魅力がある。

2025年6月1日記