新日本風土記「大阪 路面電車の旅」 ― 2025-11-07
2025年11月7日 當山日出夫
新日本風土記 「大阪 路面電車の旅」
阪堺電車には乗ったことがない。名前は知っているのだが、乗る機会がなしに、いままできている。わざわざ乗りに行こうというほど、鉄道好きということではない。
路面電車というと、私にとっては、昔の京都の市電である。大学生のころまで走っていただろうか。路面電車に乗った記憶のある街というと、広島、富山などを思い出す。富山大学に行くには、電車に乗っていった。
住吉大社の行事として、田植えは、ニュースなどで見ることがある。だが、踊りの方は、あまり広く知られるということはないかもしれない。これも続くといいといいと思う。幼い少女が踊るということだと、今の時代だと、幼い女性を特別視するのはけしからんと、文句が出そうな気がするが、まだ、そういうことにはなっていないようである。
堺の街は刃物の街である。古くは鉄砲鍛冶の街でもあった。堺の刃物は、今でも有名である。そこで、包丁を作る仕事をしているフランス人のことが出てきていた。(これは偏見だといわれるかもしれないが)私の理解では、フランスは、職人クラスの人たちと、上層階級の人たちと、階級的に異なるのが基本だと思っている。登場していたフランスの人は、どういう階級の出自ということなのだろうか。こういう感想をいだくこと自体が、差別的であると批判されかねないかもしれないのだが、どうなのだろうかと思う。
映画館の手書きの看板というのも、いつのまにか見なくなったものである。そもそも、街の中に映画館がある、という時代ではなくなってしまっている。出てきた映画館は、今では、いったいどういう映画の上映で、営業しているのだろうか。映画館としての営業のことも気になる。
浜寺は、海辺の公園のあるところというイメージである。ここで、子どもたちを集めて、日本の古式泳法の教室が続いている。こういうことは、続いていっていいことだと思う。これも、今の時代だと、小学生ぐらいの女の子が、水着の姿を公衆の前にさらすなど、絶対に許されないとんでもないことであると、猛烈な批判がありそうな気がするところであるが、これからどうなっていくだろうか。
西成、釜ヶ崎、このような地域は、私としては、社会の中に必要なところだと思っている。普通の社会の中に、どうしてもなじめない、いっそのことどこかに失踪してしまいたい、このように思う人がいるだろうし、そういう人を受け入れるようなところが、世の中ににはあっていい。ただ、こういうところにいる人たちに対して、必要があるならば、援助の手を差し伸べる用意が、この周囲にあることが必要であろう。だからといって、強いて、ここに生活する人たちの中に介入していくことは、避けるべきかもしれない。
自分の本名(戸籍上の名前)を知られずに亡くなっていくというのも、ある意味では、そういう人生の選択であると理解することの方がいいかとも思う。
2025年11月4日記
新日本風土記 「大阪 路面電車の旅」
阪堺電車には乗ったことがない。名前は知っているのだが、乗る機会がなしに、いままできている。わざわざ乗りに行こうというほど、鉄道好きということではない。
路面電車というと、私にとっては、昔の京都の市電である。大学生のころまで走っていただろうか。路面電車に乗った記憶のある街というと、広島、富山などを思い出す。富山大学に行くには、電車に乗っていった。
住吉大社の行事として、田植えは、ニュースなどで見ることがある。だが、踊りの方は、あまり広く知られるということはないかもしれない。これも続くといいといいと思う。幼い少女が踊るということだと、今の時代だと、幼い女性を特別視するのはけしからんと、文句が出そうな気がするが、まだ、そういうことにはなっていないようである。
堺の街は刃物の街である。古くは鉄砲鍛冶の街でもあった。堺の刃物は、今でも有名である。そこで、包丁を作る仕事をしているフランス人のことが出てきていた。(これは偏見だといわれるかもしれないが)私の理解では、フランスは、職人クラスの人たちと、上層階級の人たちと、階級的に異なるのが基本だと思っている。登場していたフランスの人は、どういう階級の出自ということなのだろうか。こういう感想をいだくこと自体が、差別的であると批判されかねないかもしれないのだが、どうなのだろうかと思う。
映画館の手書きの看板というのも、いつのまにか見なくなったものである。そもそも、街の中に映画館がある、という時代ではなくなってしまっている。出てきた映画館は、今では、いったいどういう映画の上映で、営業しているのだろうか。映画館としての営業のことも気になる。
浜寺は、海辺の公園のあるところというイメージである。ここで、子どもたちを集めて、日本の古式泳法の教室が続いている。こういうことは、続いていっていいことだと思う。これも、今の時代だと、小学生ぐらいの女の子が、水着の姿を公衆の前にさらすなど、絶対に許されないとんでもないことであると、猛烈な批判がありそうな気がするところであるが、これからどうなっていくだろうか。
西成、釜ヶ崎、このような地域は、私としては、社会の中に必要なところだと思っている。普通の社会の中に、どうしてもなじめない、いっそのことどこかに失踪してしまいたい、このように思う人がいるだろうし、そういう人を受け入れるようなところが、世の中ににはあっていい。ただ、こういうところにいる人たちに対して、必要があるならば、援助の手を差し伸べる用意が、この周囲にあることが必要であろう。だからといって、強いて、ここに生活する人たちの中に介入していくことは、避けるべきかもしれない。
自分の本名(戸籍上の名前)を知られずに亡くなっていくというのも、ある意味では、そういう人生の選択であると理解することの方がいいかとも思う。
2025年11月4日記
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