『ばけばけ』「ドコ、モ、ジゴク。」2025-11-09

2025年11月9日 當山日出夫

『ばけばけ』「ドコ、モ、ジゴク。」

この週で、おトキは、ヘブン先生の女中になることを決意する。ただし、「女中」ということばの意味を、どうも誤解しているらしい。

ヘブン先生は、松江の中学校で英語の教師となる。その教え方を見ると、読み・書きよりも、リスニングが中心のようである。この時代の日本の英語教育の実際がどうであったかという問題はあるのだが、ヘブン先生の場合、左目を少年のときに失明していて、右目も極端な近視であったということだから、テキストを教室で普通に読んで授業するというスタイルは、とりにくかっただろうと思う。これはこれで、設定として筋がとおったことになる。(その後の熊本の五高や、東京帝国大学、早稲田大学での、講義はどんなふうになるかという興味はあるのだが。)

泊まっている宿屋が気に入らない。直接的な原因は、旅館の女中のおウメについて、旅館の主人が目医者につれていかないということに立腹してということのようだが、どうも理由としては、ちょっと弱いような気もする。ヘブン先生が、目のことを非常に気にかける人で、また、旅館の女中のことまで心配する。心優しい人であったということになる。

家を探すにあたって、女中が必要ということになる。ここで、県知事は錦織に対して「どっちも」と言う。有り体にいえば、家政婦兼おめかけさん、ということになる。ここの部分は、日本にやってきた御雇外国人はそういうものである、という大前提で話しが進んでいる。(これは一種の偏見であると思うけど。)

遊廓のなみさんは、ラシャメンになる、という。ラシャメンということばがテレビのドラマの科白で堂々と使われるのは、珍しいかもしれない。それ以前に、異人ということばもそうである。思いかえせば、以前の『マッサン』のときには、私の記憶では、異人という言い方はしていなかったように憶えている。それを、このドラマでは、わざとであろうが、なんのためらいもなしに使っている。異人ということばは、現代ではもうほとんど死語に近いかと思うので、かえって使ってもいいのかとも思える。

ラシャメンも異人も、差別的な蔑称であるという側面はあるのだが、だが、結果として、おトキがヘブン先生と一緒になるはずであるということを思ってみると、ラシャメンとして軽蔑されるような賤業(もうこういう言い方もしないが)と見なされることになることを、どう描くかということについて、かなり工夫した結果だろうと思って見ることになる。これはこれで成功していると、私としては感じる。ラシャメンは、私は知っていることばだが、ほとんどの視聴者にとっては、未知のことばだったかもしれない。

しかし、ヘブン先生の話すことば(英語)を聞いていると、HOUSE MAID と言っている。ハウスメイドは、今でいえば家政婦ということだろうと理解するが、これを、女中として、無理に拡大解釈したのが錦織ということになるかもしれない。

錦織としても、松江にもどって中学で働くことができているのは、県知事のおかげらしいので、その意向にしたがっていなければならない。だが、それが、女衒(この言い方は番組の中では出てきていないが)まがいの仕事となると、気が乗らないものがあったにちがいない。遊廓のなみさんが無理で(これは、ヘブン先生が嫌だと言った)、仕方なしにおトキのところに向かった。

ヘブン先生の女中として月給が20円という。旅館のおウメさんの給料が90銭で、小学校の臨時教員のおサワさんの給料が4円。破格の給料であるということは、「どっちも」ということを込みにしての給料と思うのが、普通だろう。このとき、史実にしたがえば、ヘブン先生の給料は県知事並の高給であったはずで、おそらく100円だったとしても、そうだろうと思う。

シジミの行商で、シジミ1合が2銭というおトキにしてみれば、借金まみれの生活から抜け出すには、またとない話しではあったろうが、簡単には承諾しない。錦織に対して、家族のためにお断りします、と言っていた。ここで、おトキは、おなみと近所づきあいをしていて、遊女に対して、差別的意識は持っていないことが前提であるが、しかし、異人のめかけ(ラシャメン)は、さすがに嫌だったということだろう。

雨清水のおタエ様が物乞い(乞食)になってしまった。零落のはてに乞食しか生きていくすべがなくなったことになる。

この時代であれば、いわば職業としての乞食、ということがあったと、私は認識している。だが、これは、まさに賤業であり、普通の身分秩序の外にはじき出されることでもあった。一方、そのような人に対して、施しをするということも一般にはあったわけで、餓死しない程度の最低限の社会的セーフティネットという見方もできる。(職業としての乞食ということでいうならば、戦後になってから傷痍軍人なども、その範疇にいれていいことかと思う。しかし、今の時代だと、本物の乞食を見たことがある経験があるのは、私ぐらいより上の年齢にかぎられるだろう。かつての乞食と、今のホームレスは、ちょっと違う。そういえば、昔の漫画には、原っぱにルンペンがいるというようなシーンがあったはずだが、これもいつの間にか消えてしまったことの一つになる。ある意味で、世の中がクリーンになってきている。)

落ちぶれた雨清水家の現実を見て、同時に、貧しいとはいえ家族で笑うことのできる家がある松野家のことを思って、最終的に、おトキはヘブン先生の女中になることを決意した、ということになっていた。ここにいたるまでに、いろんな人のいろんな思いがあり、それが交錯して、誤解もあったりするが、ともかくもドラマとしては、一歩前進ということになる。

実の生みの母が、乞食をしている姿を目にすることになったおトキは、深く思うところがあったにちがいない。

土曜日に週の放送を連続して再放送するので見るのだが、『ばけばけ』では、それぞれの場面が意味があって有機的につながっている。非常に緊密な構成になっているのだが、それをことさら感じさせない。うまく作るというのは、工夫のあとをあからさまに感じさせないところにある。下手なドラマは、うまくつくってあるでしょ、という意図を誇示しがちである。(そういうケレン味が成功する場合もあるが、朝ドラは、むしろ淡々と描くことの方が、好感を得られる。)

橋の欄干の擬宝珠のところで、おトキとおサワが話しをするシーンがあったが、このつながりとして、おトキの怪談好きがあり、人柱の言い伝えがあり、ラシャメンになる女性は人柱であるという比喩になり、それでもラシャメンになりたいというおなみの境遇のこともあり、さまざまなことが連想されるようになっている。

また、背景の人物の使い方がたくみである。松江の街の中の人の姿が、さりげなく描かれているが、自然に画面の中に溶け込んでいる。

三之丞が、窮乏のあげく、路傍のほこらにお供えしてあるおにぎりに手を伸ばそうと逡巡するシーンでも、見ていると画面のほんのわずかの部分で、三之丞の背後を歩いている人影がある。

旅館で、おトキと三之丞が話しをするシーンで、おウメがお茶を持ってきて、話しの内容をちょっと耳にして、失礼しましたとそそくさと立って行くのも、演出としてたくみだと感じるところである。

気になることとしては、乞食をしているおタエ様が、着物はボロであるが、髪をきちんと結って、クシをさしていたのは、どうかなと思わないでもない。アクセサリのクシなど、とっくにお金に変わっていてもいいはずである。しかし、いくら零落したとはいて、そこは雨清水家のおタエ様のプライドの表現として、最低限の身だしなみとして、妥協できなかったことと思えば、納得できるところかとも思う。

シジミの貝殻しか入っていないシジミ汁であっても、家族が笑っていられる方がいい。そういう日常を大切にしたい。そういうおトキの気持ちが、うまく表現されているドラマになっている。このクオリティがずっとつづくと、傑作として残るものになるにちがいない。

2025年11月8日記

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