みんなでカラー化! 日本再発見 ― 2026-01-02
2026年1月2日 當山日出夫
「みんなでカラー化! 日本再発見」
年末に、お昼ご飯を食べて、テレビをつけていたら始まったのでそのまま見ていた。
私は、白黒画像、映像のカラー化には、基本的には反対である。これは、何度も書いてきた。その時代につかえた機材の制約として、モノクロであることはやむをえないことである。また、1940年ごろから、カラーフィルムが使われ始めるようになるが、限定的である。よく知られたこととしては、『風と共に去りぬ』は、1939年に制作されている。一方、戦後になってから日本でカラーフィルムが多く使われるようになってからでも、黒澤明は白黒で映画を作っている。いったい誰が、『赤ひげ』をカラー化して見たいと思うだろうか。白黒のフィルムで表現されているからこその、三船敏郎の赤ひげなのである。
記録映像についても、太平洋戦争中の戦闘記録を、アメリカ軍はカラーフィルムで撮影したものがある。しかし、日本側では無いはずである。こういうことも、また、一つの歴史の史料の価値である。
男鹿半島の出稼ぎのようすとか、宮崎の錫鉱山と日光の中禅寺湖での外交官とか、どれも興味深いことなのだが、こういう番組の枠の中であつかうのが適当だろうか、と思うところはある。
昭和41年の男鹿半島の出稼ぎからお父さんが帰ってくるところは、たしかに感動的な映像である。北海道に行って漁業をしていたという。漁労長ということだったので、おそらくかなり稼ぎは良かったかと思える。(漁労長の方が、船長よりも、漁について権限があったかと思う。)
20年の出稼ぎで、借金なしに、旅館が開業できたというのは、かなりの稼ぎがあったということだろう。
だが、この時代、「裏日本」と言われた日本海側の農山村が、貧しく、出稼ぎが普通のことだったということは、忘れられようとしていることかもしれない。「日本列島改造論」の背景にあった、日本海側の生活の歴史がある。
旅館を開業して、お客さんがいっぱい来たというのも、時代背景としては、どういうことがあるのかと思う。そんなに著名な観光地ということでもないように思っているのだが。日本が、豊になって、国内旅行が行きやすくなった時代ということはあるだろうが。
そして、(言ってはいなかったが)現在は、どうなっているのだろうか。
宮崎の日之影町の錫鉱山だが、経営していたのがイギリス人であるとして、実際に労働していた人びとの暮らしはどんなだったのだろうか。戦前から戦後、各地の炭坑などでは、過酷な労働であったとは思うのだが、この錫の鉱山が特別に労働者の待遇が良かったということもないだろうと思うのだが。おそらくは、会社の幹部社員は、裕福な生活であったかとは思うが、現場の労働者はどうだったのだろうか。
日光の中禅寺湖畔が、外交官の別荘地になっていたということは、よく知られたことだと思っている。今も、その名残があるはずである。ここが、太平洋戦争中は、どんなふうであったか、これはこれで興味深いことである。(同様に、戦時中の軽井沢の外国人のことなども、どうだったかと思うが。)
稲刈りのときの食事の光景が映っていた。とにかくお弁当箱が大きい。そして、白米がぎっしりつまっている。戦争の時代でも、田舎ではお米がたくさんあった、ということで言っていたが、これは、地域差のことを考える必用がある。お米が多く作れない地域も、日本には多かった。また、戦時中、食糧不足になったのは、人手が足りなくなって生産力に回らなくなったということもあるし、国内、あるいは、外地をふくめて、物流の問題もある。戦時中の食糧事情は、総合的に、ロジスティックスの面からも考えるべきことである。
昔の日本の農村の風景から読み取れること、ハンス・ハンターという英国人のこと、中禅寺湖での外交官のこと、どれもいい素材なので、独立して番組を作った方が、よかったように思える。
2025年12月28日記
「みんなでカラー化! 日本再発見」
年末に、お昼ご飯を食べて、テレビをつけていたら始まったのでそのまま見ていた。
私は、白黒画像、映像のカラー化には、基本的には反対である。これは、何度も書いてきた。その時代につかえた機材の制約として、モノクロであることはやむをえないことである。また、1940年ごろから、カラーフィルムが使われ始めるようになるが、限定的である。よく知られたこととしては、『風と共に去りぬ』は、1939年に制作されている。一方、戦後になってから日本でカラーフィルムが多く使われるようになってからでも、黒澤明は白黒で映画を作っている。いったい誰が、『赤ひげ』をカラー化して見たいと思うだろうか。白黒のフィルムで表現されているからこその、三船敏郎の赤ひげなのである。
記録映像についても、太平洋戦争中の戦闘記録を、アメリカ軍はカラーフィルムで撮影したものがある。しかし、日本側では無いはずである。こういうことも、また、一つの歴史の史料の価値である。
男鹿半島の出稼ぎのようすとか、宮崎の錫鉱山と日光の中禅寺湖での外交官とか、どれも興味深いことなのだが、こういう番組の枠の中であつかうのが適当だろうか、と思うところはある。
昭和41年の男鹿半島の出稼ぎからお父さんが帰ってくるところは、たしかに感動的な映像である。北海道に行って漁業をしていたという。漁労長ということだったので、おそらくかなり稼ぎは良かったかと思える。(漁労長の方が、船長よりも、漁について権限があったかと思う。)
20年の出稼ぎで、借金なしに、旅館が開業できたというのは、かなりの稼ぎがあったということだろう。
だが、この時代、「裏日本」と言われた日本海側の農山村が、貧しく、出稼ぎが普通のことだったということは、忘れられようとしていることかもしれない。「日本列島改造論」の背景にあった、日本海側の生活の歴史がある。
旅館を開業して、お客さんがいっぱい来たというのも、時代背景としては、どういうことがあるのかと思う。そんなに著名な観光地ということでもないように思っているのだが。日本が、豊になって、国内旅行が行きやすくなった時代ということはあるだろうが。
そして、(言ってはいなかったが)現在は、どうなっているのだろうか。
宮崎の日之影町の錫鉱山だが、経営していたのがイギリス人であるとして、実際に労働していた人びとの暮らしはどんなだったのだろうか。戦前から戦後、各地の炭坑などでは、過酷な労働であったとは思うのだが、この錫の鉱山が特別に労働者の待遇が良かったということもないだろうと思うのだが。おそらくは、会社の幹部社員は、裕福な生活であったかとは思うが、現場の労働者はどうだったのだろうか。
日光の中禅寺湖畔が、外交官の別荘地になっていたということは、よく知られたことだと思っている。今も、その名残があるはずである。ここが、太平洋戦争中は、どんなふうであったか、これはこれで興味深いことである。(同様に、戦時中の軽井沢の外国人のことなども、どうだったかと思うが。)
稲刈りのときの食事の光景が映っていた。とにかくお弁当箱が大きい。そして、白米がぎっしりつまっている。戦争の時代でも、田舎ではお米がたくさんあった、ということで言っていたが、これは、地域差のことを考える必用がある。お米が多く作れない地域も、日本には多かった。また、戦時中、食糧不足になったのは、人手が足りなくなって生産力に回らなくなったということもあるし、国内、あるいは、外地をふくめて、物流の問題もある。戦時中の食糧事情は、総合的に、ロジスティックスの面からも考えるべきことである。
昔の日本の農村の風景から読み取れること、ハンス・ハンターという英国人のこと、中禅寺湖での外交官のこと、どれもいい素材なので、独立して番組を作った方が、よかったように思える。
2025年12月28日記
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