おとなのEテレタイムマシン「わたしの自叙伝 手塚治虫〜こども漫画三十三年〜」2026-01-06

2026年1月6日 當山日出夫

おとなのEテレタイムマシン「わたしの自叙伝 手塚治虫〜こども漫画三十三年〜」

テレビに接続のHDに録画が残っていたので、見た。

最初の放送は、1979年である。

手塚治虫については、さまざまに語られているし、周囲の人のいろんな証言もある。

この放送のあった1979年というと、私が大学生のころであり、手塚治虫の作品としては、ちょうど「ブラックジャック」が連載されていたころになるはずである。

子どものころに作文を書かされた。それが好きだった。その作文の実物が映っていたが、見ると、文字がきちんとしている。昆虫を描いた手帖も映っていたが、描いてある昆虫の絵も見事であるが、それよりも、文字がきちんと整っていることに目がいく。(これは、私自身が、国語学研究者として文字や表記のことを勉強してきたから、ということもあるが。)

家に漫画の本が200冊ぐらいあり、ミッキーマウスやポパイの漫画映画を見たということだったが、こういう環境、あるいは、強いて言えば文化資本があってのことということになるだろう。

キザなことばでいえばアイデンティティー……と言っていたのは、納得できる。「アイデンティティー」という用語は、今では、ごく普通に使うことばになっている。もともとは、社会心理学の専門用語で、アメリカのエリク・エリクソンが使い初めて、それが、日本では1970年代以降にはいってきた。ちょうど私が大学生のころ、このことばが知的な最先端の概念として、流行し始めたころである。

1979年の放送で、このように言っているということは、この時代の雰囲気を感じる言い方である。

漫画には、風刺の精神、告発の精神が必要である、というのは、そのとおりである。

私は、現在では、基本的に漫画(マンガというべきか)は読まないのだが、手塚治虫が、個性が無い、会話が書けない、と批判されたのは、そういうものかと思うことになる。いや、現代のマンガが、かつての子ども向けの漫画に比べて、格段に、科白で語る要素が多くなってきて、あつかうテーマも多様化してきている、豊富になってきているということは、あるのだろうと思う。

手塚治虫が、かつて漫画が悪書として批判された経験があって(この時代のことは、私も記憶している、街に白ポストがあった時代である)、今の時代(番組の放送のころ)は、漫画に対する批判が弱くなった、と嘆いているのは、隔世の感がある。

現代では、マンガは、日本の重要なカルチャーであり、擁護し賛美することはあっても、(悪書として)批判するようなことは、ありえないことになっている。漫画家は甘やかされていると言っていたが、現代では、人気のマンガ家はヒーローでもある。マンガを批判しようものなら、現代の文化や、社会的問題意識が欠如しているとして、逆に、批判されるようになっている。(これで、本当にいいのだろうか。カウンタカルチャーというのは、社会からたたかれてこそ価値のあるものだと思うのだが、私が、こんなふうに思うこと自体が、もはや時代遅れということなのだろうか。)

2026年1月2日記

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