デジタル化データの寿命2008-02-09

2008/02/09 當山日出夫

新聞のHPを見ていたら、朝日新聞の、Asahi.comで、DVDの寿命についての記事が出ていた。

DVDディスク、寿命に格差 数年から「永遠」まで http://www.asahi.com/business/update/0209/TKY200802090125.html

試験によると、数年で、ダメになるものもあるらしい。

DVDまたはCDの寿命=デジタル・データの寿命、とは必ずしもいえない。定期的に、コピー・バックアップをおこなえば、その寿命はのびる。しかし、その作業量は、データの増大とともに、どんどんふくらむ一方である。

あるものを残すためにデジタル化するのであるならば、データの長期保存(そのための、メディアの寿命、コピーやバックアップのシステム)、これも総合的に考えないといけないだろう。

おりしも、我が国においても、ようやくのところで、公文書の保存について行政が動き始めたところである。

なんのためのデジタル化保存であるのか、保存のための保存にとどまるのか、利用のための保存となるのか……長期的視野にたった展望が必要なときにきているように思う。

なお、私個人は、残すべきと思ったものは、CD-R、または、MO、で残すようにしている。どちらもそれほど残るものではないかもしれないが、まあ、個人のレベルでは、十分であろう。(私が生きてパソコンを操作できる間は、ぐらいの意味で。)

そういえば、今は無くなってしまった(撤退してしまった)コニカが、フィルムメーカであったころ。「100年プリント」で、経年劣化につよい写真をアピールしたことがあった。そのコニカは、ミノルタと一緒になって、今は、カメラ部門は、ソニーが引き継いでいる。そのデジカメ「α」で写した画像データの長期保存は、どうすればいいのか。(ちなみに、我が家の子供たちの小さいときの写真の多くは、コニカかコダックのフィルムで写してある。カメラは、もちろん、ニコン。)

デジタル・ヒューマニティーズ(人文情報学)が、資料のデジタル保存を前提になりたっているとするならば、見逃すことのできない課題である。

あるいは、いっそのこと発想をきりかえるか。有限の資源……保存できるデータ量には限界がある、この立場から、何を残すか、その選択の価値観を根本的に考え直してみるべきだろう。

當山日出夫(とうやまひでお)

『ひとりでは生きられないのも芸のうち』2008-02-10

2008/02/10 當山日出夫

内田樹の本である。そのブログも、たまに見たりしているのだが(ここは、正直に告白しておこう……)、本として出ると買ってしまう。

内田樹の書いたものに、はっきりいって、そう共感するということではない。ただ、記憶に残っている範囲で、非常に印象的なフレーズがある。

数年前、いわゆる靖国問題をめぐって、高橋哲哉が話題になったとき、朝日新聞に寄稿した文章。

政治について語る人たちは自分と異なる政治的意見については、「どうしてそれが間違っているか」を論証することには熱心だが、「どうして私はその人と同じように考えることができないのか」という自問には興味を示さない。   『態度が悪くてすみません』.p.220

これは、特に政治について語るときのことではないであろう。ただ、このような問いかけが、特に靖国神社問題のようなケースには、それなりに、有効性をもつ論法であることは、分かる。だからといって、特殊な場合についてのみにおいて、考えるべきことでもない。

したがって、なぜ、私はこの問題について、内田樹のように考えることができないのだろう……という、逆方向からの、読者からの問いかけを常にひきうける覚悟が必要になる。(この程度のことは、十分に承知のことと思う。そのブログをたまに見る限りであるが。)

自分の考えることを一方的に主張することには、ブログやHPというツールはきわめて便利である。だが、それに反対する意見があった場合、じっくりとそれに耳を傾けるには、適していない。

ここで考えておかなければならないと思うのは、唯一の「知」のあり方を、絶対視する方向もあれば、多様な解釈を併存させる方向もある、ということである。私の浅薄な理解でいえば、自然科学の世界であれば、公理・定理・法則、という「基盤」のうえにその「知」は構成されている。だが、人文学の世界においては、それほど単純ではない。極論すれば、研究者の数だけ「基盤」がある。

そして、その「知」は、異なっている基盤を総合的に俯瞰するところに、自らを位置づけられたとき、ようやく、その片鱗をつかみうるものであるのかもしれない。きわめて流動的・可変的である。

なお、『ひとりでは生きられないのも芸のうち』で、私が印象に残った箇所を引用しておこう。

「自分が手に入れたいもの」は、それをまず他人に贈与することでしか手に入れることができない。贈与したものに、その贈与品は別のところから別のかたちをとって戻ってくる。自分の所持品を退蔵するものには誰も何も贈らない。p.32

残念ながら、若い人がその最初の就業機会において、適性にぴたりと合致し、それゆえ潜在的才能を遺憾なく発揮でき、結果的にクリエイティヴな成果を上げ、久しきにわたって潤沢な年収をもたらすような仕事に出会う確率は限りなく低い。 p.97

これから研究者を目指す若い人たちにとって、上述の言説はどのようにうけとめられるであろうか……

内田樹.『ひとりでは生きられないのも芸のうち』.文藝春秋.2008

内田樹.『態度が悪くてすみません-内なる「他者」との出会い-』.角川書店.2006

當山日出夫(とうやまひでお)

佐藤さんの論文2008-02-11

2008/02/11 當山日出夫

さきの2月9日で、「壬申調査から写真史へと」と書いた。

http://yamamomo.asablo.jp/blog/2008/02/09/2613470

このトラックバックを、この記事で言及した、佐藤守弘さんのブログに送ったところ、佐藤さんが次のような論文を書いている旨、御教示くださった。佐藤さんのブログに書いてあるのだが、ここに、転載・引用させていただく。

蒼猴軒日録

http://d.hatena.ne.jp/morohiro_s/20080208

「トポグラフィアとしての名所絵 ――江戸泥絵と都市の視覚文化」『美学芸術学』第14号、1999年4月、59-73

「都市とその表象 ――視覚文化としての江戸泥絵」『美学』202号、2000年 9月、37-48

都市・名所絵、というものを、写真史研究家の目でどのように見ているいるか、是非とも読んでみたい。(今、書きかけの論文があるので、それが終わってからになってしまいそうだが。)

このような論文、たしかに、今の論文検索エンジンでヒットさせることは可能であろうが、一方で、ブログなどによる相互の交流のなかで、教えてもらえると、論文について知ったときの、喜びが増す。そして、そのよろこびは、今後の研究へのエネルギーになっていく。

また、このようなケースであれば、疑問点などあった場合、直接、筆者にたずねることもできる。少なくとも、心理的な壁は低くなる。機械的な検索エンジンによるのではない、研究者間のつながりが徐々にでは形成されていくこと、これもまた、今後の、研究活動におけるネット利用の一つの方向であろう。

當山日出夫(とうやまひでお)

『列島創世記』2008-02-11

2008/02/10 當山日出夫

小学館の「日本の歴史」シリーズの第1巻である。出たのは昨年であるが、ようやく、今になって読めた。すでに第2巻が出ている。第2巻は、『日本の原像』として、著者は、平川南。このあたり、かなり意図的な編集であることがわかる。日本にとって、文字とは、そして、言語(日本語)とは……という問いかけが見える。

松木武彦.『列島創世記』(日本の歴史 1).小学館.2007

以下、あえて、批判的な視点から書いてみる。この本が、「認知考古学」という、きわめて斬新な視点で書かれていることは、十分に承知のうえで、「ことば」の視点から考えてみたいのである。

この著者であれば、かならず読んでいるはずであろう。『日本語の歴史』(亀井孝ほか、平凡社ライブラリー)を、知らないはずはない(と、思う。)そして、日本語学(あるいは、国語学)を専門とする私の目で、この『列島創世記』を読んで、気づいた点がひとつある。

それは、「日本語」ということば(用語)を使っていないことである。これは、おそらく意図的に使用を避けたと思う。「言葉」という用語も、きわめて限定的に使っている。使用例は、少ない。

可能な限り「ことば(言葉)」を使わないように書いたといっても、どうしても使わざるを得なかったとおぼしき箇所がある。

時には言葉の壁を越えて交渉を乗り切るための人材や(p.259)

そこの人びとと会話し(言葉は通じなかったかもしれないが)、交渉し(p.240)

気がついた範囲では、これぐらいであろうか。(その気になって再読すれば、もうちょっと見つかるかもしれないが。)

だが、その一方で、「文字(無文字)」ということには、徹底的にこだわっている。文字を持たない社会におけるコミュニケーションの様相が、この本の主眼点のひとつであることは、容易に読み取れる。

だが、そのことを

人口の増加に伴うコミュニケーションの複雑化などによって(p.241)

とだけで、すませてしまうのはどうであろうか。そのゆえの、巨大なモニュメントや、土器などの「凝り」であったりする。だが、その複雑なコミュニケーションにおける「ことは」の役割とはいったいどんなものであったのだろうか。

あえていうならば、「無文字」ということと「無言語」ということは、違う。まず、このことの概念を明確にした上で、無文字社会については、論じなければならない。あるいは、このことは、「認知考古学」では当たり前だから書いていないのであろうか。しかし、この小学館の日本の歴史シリーズは、一般向けの本である。

古墳時代以前の日本が「無文字」であったことは、よくわかる。であるとして、では、どのようにして、コミュニケーションしていたのか。人間と人間とのコミュニケーションの手段なくして、人間の社会はなりたたない。そこに、「ことば」は、どのような意味をもっていたのか。「ことば」に触れずに「無文字」であったことのみを強調しても、そこには空虚さのみが残る。

たしかに、「ことば」を「日本語」と規定してしまうことは難しい。また、「日本語」と規定してしまえば、そこに、「民族」の概念が入り込む。それは、安易に「日本人」にすり替わってしまう。このことは、わかる。だが、このことについて、強いて避けるならば、その避ける理由を説明すべきではなかろうか。少なくとも、全体のうち一つの章ぐらいは、「ことば」「日本語」「日本人」そして「無文字」、コミュニケーションと社会、これらの用語・概念をめぐる議論につかうべきであろう。わからなければ、わからないと、書けばよいのである。

認知考古学では、「ことば」のことは問題にしないのである、という方針であるならば、そのことは明記しておくべきではないか。かつて、言語学の世界においては、言語の起源は研究対象としない……と、されていた時代もあったのだから。

率直なところ、読後感として、著者の意欲は感じるが、しかし、学問的な空虚感も感じずにはいられない本である。これが、正直な感想である。別に、意図的に批判しているわけではない。「ことば」と「文字」に関心のある人間の読んだ率直な感想としてである。

あるいは、この問題は、つぎの第2巻にまわす、ということであるのだろうか。この小学館のシリーズには、つきあわざるをえないと思う。また、これは、日本史・考古学(認知考古学)の課題であると同時に、日本語学・言語学の課題でもあることを、確認しておきたい。

くりかえしになるが確認しておきたい。私は、この本で、「ことば」のことが等閑視されていることを批判しているのではない。なぜ、「認知考古学」においては「ことば」をあえて無視するのか、この点についての、積極的な理由説明が必要であると思うのである。

當山日出夫(とうやまひでお)

季刊大林『アーカイブヴズ』2008-02-11

2008/02/11 當山日出夫

過日の、CH77研究会(情報処理学会・人文科学とコンピュータ研究会、東洋大学)については、その概要(私から見ての)は、記したごとくである。その小特集「アーカイブ」のとき、会場で回覧されたのが、

『アーカイヴズ』.季刊大林 No.50.大林組.2007年

である。大林組は言うまでも、大手ゼネコン。建築会社の広報誌ではあるが、宣伝のためのものではない。今はもう聞かなくなったことばだが、企業メセナの雑誌。

目次は以下のとおり、


グラビア/図書館にみるアーカイヴズ空間

創造するアーカイヴズ なぜわれわれは記憶を外在化するのか / 武邑光裕

デジタル・アーカイヴズのいま、未来 / 樋口範子

あの子は何でも欲しがります デジタル・アーカイヴズ / 浜野保樹

アーカイヴズ/メディア・テクノロジー 関連年表 / 遍:武邑光裕・岩倉淳

永遠なる叡知の結晶 古代アレクサンドリア図書館 / 周藤芳幸

アーカイヴズの原点 古代アレクサンドリア図書館の想定復元 /復元:大林組プロジェクトチーム 監修:周藤芳幸

シリーズ藤岡照信の「建築の原点」(1) ストックホルム市立図書館

「アーカイヴズ」の事典


全部で70ページほどの本。「季刊大林」でGoogleで検索をかけると、ダイレクトに出た。

http://www.obayashi.co.jp/kikan_obayashi/index.html

ここから、注文のメールを送信して、所定の銀行に送金すると送ってくれる。1000円(送料込み)。

とにかく、来年度、デジタルアーカイブ論の授業を半期担当しないといけないので、その参考書さがしが目的で買ったというのが、本当のところ。巻末の、アーカイヴズ事典は、現時点での、アーカイブ関係の参考文献リストとしては、適切というべきであろうか。

アーカイブや図書館に興味のある方は、手にいれておいて損はないと思う。

當山日出夫(とうやまひでお)

「都市とその表象」(佐藤守弘)を読む2008-02-12

2008/02/12 當山日出夫

佐藤守弘さんから、御紹介いただいた論文をさっそく読んでみる。

佐藤守弘.「都市とその表象-視覚文化としての江戸泥絵-」.『美学』第51巻2号(202号).2000年

http://ci.nii.ac.jp/naid/110003714385/

よみはじめて、最初のページに、

〈日本美術史〉という言説が創造され始めたその時期に、藤岡作太郎が(以下、略)p.37

とある。私は、美術史の方面はまったく素人であるが、「〈日本美術史〉という言説の創造」は、確かに理解できる。だが、その時点から論文を書き始めるということは……「〈国語史〉という言説の創造」について、考えないではないが、(いや、自分なりに考えてきたつもりではいるが)、このような書き方はできない。人文学研究といっても、分野が異なると、かなり流儀も異なるらしい(と、思う。)

なお、藤岡作太郎は、私ぐらいの年代の人間にとっては、かなりなじみがある。『国文学全史 平安朝篇』(平凡社、東洋文庫)は、国文科の学生として、必読書であった。その本文よりも、秋山虔の手になる注釈の方を読むため、である。(いまでも、さがせば、書庫のどこかにあるはずである)。藤岡作太郎は、国文学者であるが、日本美術史の方面の研究者でもあることは、なんとなく知ってはいたが、佐藤さんの論文を読んで、初めて確認したような次第。

日本文学研究・日本語研究と、日本美術史、近いようでいて、へだたりがあるのかと思う。(このあたり、立命館ARCの赤間亮さんなどは、文学・芸能・美術と、多方面にわたる見識の持ち主であるが。)

ところで、佐藤さんの論文にかえって……あるモノやコトについて、生産者がいれば、消費者がいる、これは、普通に考えれば当たり前のことである。しかし、この当たり前のことが、きちんと考えると難しい。

たとえば、ごく身近な例では、食べ物。日本の歴史を通じて、コメという作物(食物)は、どのように生産され、どのように消費されてきたのか、このようなごく日常のことであっても、考えてみるとよくわからない。(この点、先にとりあげた『列島創世記』について不満に思う点の一つでもある。縄文から弥生への転換が、コメの栽培であるとして、このことについて、認知考古学はどう考えるのか、いまひとつはっきりしていない……ように読めた。)

さて、美術や絵画というモノであっても、生産と消費という流れのなかにあることは確かである。佐藤さんの論文は、この視点を再確認させてくれる。

江戸泥絵が、江戸という都市の何を表象しているのか、という問いかけは、泥絵の消費者の側からみて明らかになる。このことを、鮮やかに論じてみせた論文であると、私は読んだ。また、この視点は、浮世絵が、泥絵とは異なる、生産と消費の流れのなかにあったことと対比することによって、より明らかになる。

美術作品にも、その生産と流通のシステムがあって、消費者がいる。しかし、一般に、美術・芸術については、このようなことは意識しない。文学や芸術について、それを「商品」として語ることは、まだ、なじみがないといってよいであろう。だが、文学であっても、それは、書物という商品として流通している。「商品」として見る視点からこそ、見えるものもある。

ちなみに、今、私が読んでいる「商品」は、『愚か者死すべし』(原リョウ、ハヤカワ文庫)。もちろん、単行本で出たとき、すぐに買って読んだ。文庫本になって出ると、また、読んでしまう。ハードボイルドも、また、その消費者あってのものである。

注:原リョウの「リョウ」の字。JISの0208(第1・2水準)にはない。第3水準まで見えるならば、「尞」1-47-60、として見えるはず。

當山日出夫(とうやまひでお)

ARG3092008-02-13

2008/02/13 當山日出夫

まず興味をひくのが、京都大学学術出版会による研究書データの公開、である。

http://d.hatena.ne.jp/arg/20080210/1202609769

まず、一般的には、学術情報の流通という点からは歓迎すべきことである。ユーザの側からすれば、このような事業の推進は、望ましい。

しかし、その一方で、出版は、決して無償の慈善事業ではない、会社・企業としての営利事業でもある、という面を、軽視してはならない。

たとえば最近の事例でいえば、草思社。1月に民事再生法の適用となっている。

http://www.soshisha.com/

http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0801/09/news089.html

昨年、私が買った本では、『人類の足跡10万年史』(スティーヴン・オッペンハイマー 著 /仲村明子 訳)など、いい本を、たくさん出している。

別に、インターネットが出版社をつぶしたというつもりはない。草思社の例は、また特殊な事情があってのことかもしれない。だが、普通の出版社にしてみれば、書籍情報(その内容)の電子化というのは、きわめて、難しい面をふくんでいる。

『大書源』(二玄社)であるが、その内容は、DVDで、最初から付属でついてくる。大部な全3巻は、ほとんど必要ない。索引篇と、パソコンにインストールした、DVDデータがあれば、それで十分である。

これは、英断、であったと思う。この本の場合、おそらく、DVDをつけても、つけなくても、実売部数にそう変化はないであろう。だが、DVDがあった方が、読者としては格段に便利であるし、このクラスの本になれば、やはり「実物=書物」の方も手元においておきたくなる。また、個人ではなく、図書館であれば、「実物=書物」の方を、本棚におかざるをえない。

しかし、『日本語指示体系の歴史』(李長波.京都大学学術出版会.2002年)になると、個人的には微妙なところである。実際に書店で目にしたとき、買っておくべきかどうか、迷った記憶がある(結局、買わずにおいたのだが。)

ところで、ひつじ書房の松本功さんが出した『ルネッサンス・パブリッシャー宣言』(ひつじ書房.1999)のことも、忘れがたい。学術的な専門書を出している出版社の多くは、従業員数名程度の零細企業である。専門的な本は、実際の販売部数は、数十から、せいぜい、数百という範囲。自分の会社で出した本が、容易に、コピーされる、あるいは、最近であればPDF化される、ということは、企業としての存亡にかかわる。

ひつじ書房

http://www.hituzi.co.jp/

ルネッサンス・パブリッシャー宣言

http://www.hituzi.co.jp/hituzi/runepub.html

ひつじ書房の社長のブログ(茗荷バレーで働く社長の日記)

http://d.hatena.ne.jp/myougadani/20080111

京都大学学術出版会などは、「つぶれる心配がない」と言ってしまうと、批判が過ぎるであろうか。しかし、将来にわたって、良質な学術書の出版が継続的におこなわれるためには、その電子化と流通については、出版社・書店の経営の安定をふくめた、総合的な視点にたったきちんとした議論が必要であると思う。

當山日出夫(とうやまひでお)

本文とは何か(書記言語のこと)2008-02-13

2008/02/13 當山日出夫

もろさんのブログで、「ふり仮名」「ふり漢字」のことが話題になっている。当該のブログにコメントとして書いてもいいのだが、長くなるので、私の方に書いて、トラックバックを送っておくことにする。

もろ式:読書日記 ふり漢字/ふり英字/ふり〓

http://d.hatena.ne.jp/moroshigeki/20080212/1202826410

私の記憶をさかのぼれば、この話題は、JIS漢字論、あるいは、デジタルテキスト論の当初からあった。特に、近世文学を専門にしている研究者の場合、ルビ(ふりがな)の方が、本文である、というテキストをあつかうことになる。(この当時は、テキスト・データベースという呼称が普通であったように思うが。)

「ふりがな」の方が本文であり、「本行」の漢字の方が、補助的な役割であるというテキストについて、どのような、タグづけが有効であるのか。(むかしは、XMLやHTMLではなく、TEIの利用であったが。)

ルビ(ふりがな)とは、単に、難しい漢字のよみかたを示すものではない。書記言語は、音声言語を文字化したのものではない。このあたり、日本語における漢字と仮名(ひらがな・カタカナ)をふくめた、総合的な議論になる。ルビだけの問題ではない。

ただ、個人的な印象として、「ふり漢字」という現象が、現代日本語においても観察されるということは、その背景として、日本おける漢文訓読・訓点という視点からも、考えてみる必要があるように思う。

現時点で、論点を整理すると、大きく二つの方向で考えることができようか。

本文が唯一、直線的(シーケンシャル)なものとして存在しており、それに部分的に、付属として、「ふり仮名」「ふり漢字」がある。言語については、音声言語を優先的に考える考え方。

書記言語は、2次元空間(巻子本では、紙背をふくめると3次元になる)における、その物理的配置や、文字の書体・字体・大きさ、などをふくめて、総合的になりたつ。書記言語コミュニケーション論、である。「視覚」という視点から見た書記言語を考えるべきであろう。

ただし、私の場合、書記言語のなかに、点字をふくめておきたい。点字も日本語の文字である、という立場をとっているので。

當山日出夫(とうやまひでお)

『愚か者死すべし』2008-02-14

2008/02/14 當山日出夫

原尞.『愚か者死すべし』(ハヤカワ文庫).早川書房.2007(原著は、2004、早川書房)

※「尞」(リョウ)の字、このブログを読んでいるほどの人なら、第3水準漢字ぐらい見えるだろうから、もう注はつけなない、でおく。

この本、単行本で出たとき、すぐに買って読んだ。そして、新たに文庫本で出ても読んでしまう。そして、その次に何をするかというと、まったく前回と同じ……シリーズ第1作の『そして夜は甦る』を、再読、である。厳密には、再々々々読ぐらいになるかもしれないが。

というわけで、小学館の「日本の歴史」の2巻『日本の原像』(平川南)は、ちょっと後回し。

『そして夜は甦る』につづいて、『私が殺した少女』『天使たちの探偵』『さらば長き眠り』がある。しかしながら、おそらく、世の中の、かなりの人は、私と同じ行動パターンに従っているに違いないと判断する。それだけの魅力が、このシリーズにはある。

風俗的な背景・描写については、どうしても、時間がたつと古びるところがある。私の世代だと、第1作『そして夜は甦る』から読んでいるので、そう違和感を感じない。少なくとも、世の中から、タバコというものが無くなって(これはたぶん無いだろう)、ブルーバードという車種名が無くならない限りは。

當山日出夫(とうやまひでお)

大正イマジュリィ学会第5回全国大会2008-02-14

2008/02/14 當山日出夫

佐藤守弘さんのブログ「蒼猴軒日録」に載っていた。勝手に(笑)、こちらにも転載させていただくことにする。

http://d.hatena.ne.jp/morohiro_s/20080214#c


日程:2008年3月8日(土)、9日(日)

場所:京都精華大学、京都国際マンガミュージアム

主催:大正イマジュリィ学会

共催:京都精華大学、京都国際マンガミュージアム

スケジュール

大会スケジュール 3月8日(土) 於京都精華大学黎明館 L002教室 (京都市左京区岩倉木野町137)

13:45  第13回 研究発表会 第1部

高久直子(同志社大学大学院)「1911年の劇画性――鈴木松年筆《宇治川の戦図屏風》と祇園祭」

天内大樹(東京大学大学院)「分離派建築会と山東省」

15:30 精華大情報館にて開催中の「美少年美少女幻影――高畠華宵の世界」展見学

16:00 第13回 研究発表会 第2部

林田新(同志社大学大学院)「伊奈信男「写真に帰れ」再考――1930年代の「新興写真」を中心に」

富山由紀子(早稲田大学大学院)「小林かいちのビブリオグラフィー――親族へのインタビュー調査から」

上薗四郎(笠岡市立竹喬美術館)「共用した甲斐庄楠音のモデル」

3月9日(日) 於京都国際マンガミュージアム 多目的映像ホール(京都市中京区烏丸通御池上ル)

講演、シンポジウムに参加するためには、ミュージアム入館料(500円)が必要です。

10:30  高畠華宵生誕120周年記念講演会

講師:竹宮惠子氏(京都精華大学教授、マンガ家)  

聞き手:高畠澄江氏(高畠華宵大正ロマン館館長)

13:00  高畠華宵生誕120周年記念シンポジウム「高畠華宵とセクシュアリティ」

篠原資明(京都大学大学院人間・環境学研究科教授、哲学・美学)

ジャクリーヌ・ベルント(横浜国立大学教育人間科学部准教授、美学・マンガ研究)

永山薫(マンガ評論家、作家)

司会:石田美紀(新潟大学人文学部准教授、映像文化論)

同時開催:「美少年美少女幻影――高畠華宵の世界」展

於 京都精華大学情報館3F スペース「tatami」(3月8日~4月11日) 入場料無料  (日祝日休館)


當山日出夫(とうやまひでお)