『細雪』谷崎潤一郎(その五) ― 2017-02-05
2017-02-05 當山日出夫
つづきである。
やまもも書斎記 2017年2月4日
『細雪』谷崎潤一郎(その四)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/02/04/8349848
この小説は、はたしてハッピーエンドなのであろうか……
ふと、このような疑問をいだく。確かに、雪子の結婚がきまったところで、この小説はおわっている。一般的に考えれば、ハッピーエンドである。だが、谷崎は、それを意図していたのだろうか。
雪子の結婚の相手は、公家華族の庶子である。特にこれといった定職もなく、しかし、遊んでいるというのでもない。建築の仕事をしたりしている。小説の最後の方では、航空機の会社に勤めるようになったとある。
また、そう財産があるという設定でもない。庶子だから、親の家からいくぶんの財産は分けてもらったことがある。だが、それは、使い果たしてしまっている。金儲けが上手というわけでは決してない。雪子と結婚するにあたって、住む家とか、いくぶんの財産をもらうという手はずではあるようである。
しかし、である。これらのことがきまったのは、昭和15年から16年にかけて。結婚がきまって、昭和16年の春に、雪子が鉄道で旅をするシーンで、この小説は終わる。つまり、ヨーロッパでは戦争(第二次大戦)がはじまっている。そして、日本は、日中戦争が泥沼化するなかで、アメリカを相手に戦争になる、その直前の時期である。
昭和16年12月、太平洋戦争がはじまってしまってからのことは、読者の想像にまかされている。そして、この小説が書かれたのは、その中でも下巻が書かれたのは、戦後になってからである。アメリカとの戦争があって、徹底的に負けてしまってから、谷崎潤一郎は、『細雪』の下巻を書いて、完成させている。
確認しておくならば、雪子と華族の庶子との結婚という結末を書いたのは、戦後になって、日本が敗戦をむかえた後のことなのである。
最悪の筋書きを考えるならば……雪子の夫の仕事は無事につづかない。軍需産業(航空機)の会社だから、たぶん、しばらくは景気がいいのかもしれないが、アメリカとの戦争に負けることになれば、明るい未来があるというわけでもなさそうである。また、雪子たちの新居として用意された家は、空襲で焼けてしまったかもしれない。芦屋の幸子たちの家はどうかわからないが、東京の渋谷の鶴子たちの本家は、空襲でやられるにちがいない。
それよりも、華族という制度がなくなってしまうのである。戦後になって、旧華族として格式だけは保ったかもしれないが、その戦後の政治・経済の荒波のなかで、消えていく運命にあることは、まさに、同時代のこととして、戦後にこの小説を完成させた谷崎が、経験したことにちがいない。
大阪の船場の旧家をもととする、芦屋の「中流」の家庭、蒔岡の家。その三女である雪子と、華族の庶子である夫との結婚という最後は、まさに、ほろびゆくもの、戦後になって決定的にほろんでしまったものを、表象していると見るべきではないだろうか。戦後になって、阪神間(芦屋)の「中流」家庭もなくなれば、華族もなくなってしまう。これこそ、まさに、失ってしまって、もはや回復不可能なものであるとしかいいようがない。
先に、『細雪』角川文庫版の解説を見た。書いているのは内田樹。そこには、この小説は、失ってしまったものへの哀惜の念がこめられているとあった。この指摘にまちがいはないと、私は同意するものである。そして、その感覚を確信するのは、作中の随所にちりばめられた描写……その典型が、有名な花見の場面であり、蛍狩の場面である……もさることながら、この小説の結末を経て、雪子のその後のことを、想像してみることによってである。
雪子の結婚がハッピーエンドであるような世の中が、もはやおとづれることはない。それこそが、戦争と敗戦によって、日本が決定的に失ってしまったものである。
『細雪』を、久しぶりに読んでみて、特にその結末……雪子の結婚……を考えてみて、このようなことを思ってみた次第である。
追記 2017-02-06
このつづきは、
やまもも書斎記 2017年2月6日
『細雪』谷崎潤一郎(その六)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/02/06/8351963
つづきである。
やまもも書斎記 2017年2月4日
『細雪』谷崎潤一郎(その四)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/02/04/8349848
この小説は、はたしてハッピーエンドなのであろうか……
ふと、このような疑問をいだく。確かに、雪子の結婚がきまったところで、この小説はおわっている。一般的に考えれば、ハッピーエンドである。だが、谷崎は、それを意図していたのだろうか。
雪子の結婚の相手は、公家華族の庶子である。特にこれといった定職もなく、しかし、遊んでいるというのでもない。建築の仕事をしたりしている。小説の最後の方では、航空機の会社に勤めるようになったとある。
また、そう財産があるという設定でもない。庶子だから、親の家からいくぶんの財産は分けてもらったことがある。だが、それは、使い果たしてしまっている。金儲けが上手というわけでは決してない。雪子と結婚するにあたって、住む家とか、いくぶんの財産をもらうという手はずではあるようである。
しかし、である。これらのことがきまったのは、昭和15年から16年にかけて。結婚がきまって、昭和16年の春に、雪子が鉄道で旅をするシーンで、この小説は終わる。つまり、ヨーロッパでは戦争(第二次大戦)がはじまっている。そして、日本は、日中戦争が泥沼化するなかで、アメリカを相手に戦争になる、その直前の時期である。
昭和16年12月、太平洋戦争がはじまってしまってからのことは、読者の想像にまかされている。そして、この小説が書かれたのは、その中でも下巻が書かれたのは、戦後になってからである。アメリカとの戦争があって、徹底的に負けてしまってから、谷崎潤一郎は、『細雪』の下巻を書いて、完成させている。
確認しておくならば、雪子と華族の庶子との結婚という結末を書いたのは、戦後になって、日本が敗戦をむかえた後のことなのである。
最悪の筋書きを考えるならば……雪子の夫の仕事は無事につづかない。軍需産業(航空機)の会社だから、たぶん、しばらくは景気がいいのかもしれないが、アメリカとの戦争に負けることになれば、明るい未来があるというわけでもなさそうである。また、雪子たちの新居として用意された家は、空襲で焼けてしまったかもしれない。芦屋の幸子たちの家はどうかわからないが、東京の渋谷の鶴子たちの本家は、空襲でやられるにちがいない。
それよりも、華族という制度がなくなってしまうのである。戦後になって、旧華族として格式だけは保ったかもしれないが、その戦後の政治・経済の荒波のなかで、消えていく運命にあることは、まさに、同時代のこととして、戦後にこの小説を完成させた谷崎が、経験したことにちがいない。
大阪の船場の旧家をもととする、芦屋の「中流」の家庭、蒔岡の家。その三女である雪子と、華族の庶子である夫との結婚という最後は、まさに、ほろびゆくもの、戦後になって決定的にほろんでしまったものを、表象していると見るべきではないだろうか。戦後になって、阪神間(芦屋)の「中流」家庭もなくなれば、華族もなくなってしまう。これこそ、まさに、失ってしまって、もはや回復不可能なものであるとしかいいようがない。
先に、『細雪』角川文庫版の解説を見た。書いているのは内田樹。そこには、この小説は、失ってしまったものへの哀惜の念がこめられているとあった。この指摘にまちがいはないと、私は同意するものである。そして、その感覚を確信するのは、作中の随所にちりばめられた描写……その典型が、有名な花見の場面であり、蛍狩の場面である……もさることながら、この小説の結末を経て、雪子のその後のことを、想像してみることによってである。
雪子の結婚がハッピーエンドであるような世の中が、もはやおとづれることはない。それこそが、戦争と敗戦によって、日本が決定的に失ってしまったものである。
『細雪』を、久しぶりに読んでみて、特にその結末……雪子の結婚……を考えてみて、このようなことを思ってみた次第である。
追記 2017-02-06
このつづきは、
やまもも書斎記 2017年2月6日
『細雪』谷崎潤一郎(その六)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/02/06/8351963
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