『西郷どん』あれこれ「立派なお侍」2018-01-16

2018-01-16 當山日出夫(とうやまひでお)

『西郷どん』2018年1月14日、第2回「立派なお侍」
https://www.nhk.or.jp/segodon/story/02/

前回は、
やまもも書斎記 2018年1月9日
『西郷どん』あれこれ「薩摩のやっせんぼ」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/01/09/8765996

この週のタイトルは「立派なお侍」である。これは、この後の歴史の展開を考えると、かなり意味があるように思える。

明治維新になって、廃藩置県を断行できたのは西郷隆盛がいたから、というのが、まあ常識的な日本史の知識。つまり、西郷隆盛は、侍の時代……徳川封建制……を、終わらせた男なのである。

その西郷隆盛が、若い時には、「武士」であることに自覚的である。武士とはいかなる存在か、また、領民に対してどのように接するべきか、自分の仕事のなかで思い、なやみ、苦闘するというのが、この週の話し。

また、回想場面でも出ていたが、島津斉彬が、新しい時代の武士の姿を予見していた。はたして、島津斉彬は、武士の時代が終わりになることまで考えていたのだろうか。

このドラマ、おそらくは、武士とは何であるのかを問いかける展開でいくのかもしれないと思って見ていた。もし、最後、西南戦争まで描くとすると、西郷隆盛は、武士として死ぬことになるのかもしれない。

言われることであるが、西郷隆盛は、近代と反近代を、矛盾することでありながら、その一身のうちにふくんでいた人物である。その反近代を言い換えるならば、武士としてのあり方ということになるのだろう。

ところで、このドラマを見ていると(まだ二回目であるが)、薩摩の国に対するパトリオティズム(愛郷心)が、非常に強く描かれている。桜島の風景がじつに印象的である。また、薩摩の郷中の暮らしも、どこかしら牧歌的でもある。

そのなかにあって、ただひとり、島津斉彬だけが、日本の危機を見ている。西欧列強諸国が日本にせまりつつあることを、実感している。ここにあるのは、おそらくは、新しい感覚としてのナショナリズムといっていいだろう。私は、ここでナショナリズムを否定的な意味で使おうとは思わない。19世紀半ば、幕末の日本にあって、日本という国と諸外国を広く見渡す視野をもって、日本の国のゆくすえを考えているという程度の意味である。

薩摩の土地に対するパトリオティズム(愛郷心)、主君・島津斉彬に対する忠誠心、それから、明治維新をなしとげ、近代国家を目指し確立する軸としてのナショナリズム……これらの要素をこのドラマは、これからどのように描くことになるのか、考えながら見ていきたいと思っている。

ただ、ちょっと気になったこととしては、このドラマにおいても、農民=米作という図式であった。近世期における百姓とは、もっと多様性のある存在であったというのが、今日の歴史学の知見だろうと思うのだが、このドラマでは、かなりステレオタイプの農民が描かれていた。

農民の描き方もステレオタイプであるならば、武士の描き方も、ある意味でステレオタイプである。これはこれとして、このドラマの作り方なのであると思う。だが、武士の時代を終わらせた西郷隆盛を描くならば、ここは、もっと深く武士とは何であるのか、問いかけるような展開があってもいいように思っている。

追記 2018-01-23
この続きは、
やまもも書斎記 2018年1月23日
『西郷どん』あれこれ「子どもは国の宝」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/01/23/8774998

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