『西郷どん』あれこれ「薩摩のやっせんぼ」2018-01-09

2018-01-09 當山日出夫(とうやまひでお)

『西郷どん』2018年1月7日、第1回「薩摩のやっせんぼ」
https://www.nhk.or.jp/segodon/story/01/

今年のNHKの大河ドラマは西郷隆盛が主人公。『西郷どん』である。これも、去年の『おんな城主直虎』に引き続き見ることにしようと思う。

去年の『おんな城主直虎』が、資料にとぼしい人物を主人公にして……本当に直虎が女性であったのかも不明……歴史のドラマを描いていたのに対して、今年は西郷隆盛という、超有名な人物。エピソード、資料が、かなり残っている。そのなかで、どのようなドラマを描き出すか、興味深いところである。

冒頭の始まりは、上野の西郷隆盛の銅像の除幕式から。ここで、西郷の未亡人が、「西郷は、あんな人ではなかった」と発言したのは、有名な話しだと思う。ここの場面を最初にもってきたということは、今回の西郷隆盛の脚本は、かなり大胆に「歴史」にきりこんでいくのかと予感させる。

脚本は、中園ミホである。NHKでは、朝ドラ『花子とアン』の脚本を書いている(これは、今、BSで再放送している。)『花子とアン』を見ていると、史実としての村岡花子の生涯を、かなり大胆に改変している。この大胆さが、中園ミホ脚本の面白さということになるのかもしれない。(ちなみに、『花子とアン』にも、西郷役となる鈴木亮平が出ている。)

この意味では、史実かどうか史料がない、西郷隆盛の幼年の時のエピソードとして、島津斉彬との対面シーンを設定したのは、興味深い。たぶん、これからも、史料からはなれて、大胆な筋立てで、西郷隆盛という人物を描くことになるのだろう。

それにしても、第1回の最初から、島津斉彬との対面シーンがあったのには、すこし驚いた。

その島津斉彬であるが、話していることばは、江戸語であった。まあ、これは、江戸藩邸で生まれ育ったということなのだから、そうでもいいかもしれない。それに対して、父親(斉興)、弟(久光)は、薩摩ことばであった。

このあたり、江戸にいて最新の世界の情勢を見ている斉彬の開明性と、薩摩という地方にいて封建領主(大名)の立場にいる、斉興、久光の、封建的頑迷さとの対比の演出ともとれる。

登場人物にどのようなことばを話させるかは、かなり意図的に選んでいると思う。(実際に、その人物たちがどのようなことばを話していたかということとは別にして。)

興味深かったのは、菓子をつつんであった紙、世界地図に出てきた、鹿児島のローマ字綴り。私の見た記憶では、

Cangoxina

とあったように覚えている。キリシタン時代のローマ字綴りに似ている。このあたり、Facebookで書いてみたら、いろいろコメントをもらった。何によったかは、時代考証としてさだかではないにしても、このようなローマ字綴りはかつてあったらしい。

もうちょっと時代が新しくなれば(明治以降になれば)、ヘボン式でもいいのかもしれないが、まだ、江戸時代、鎖国の時代である。

そのような時代にあって、世界のなかにおける、日本、そして、鹿児島……それは、世界の片隅の小さな島の、その一地方である……という視点からドラマを始めるというのは、これはこれで、面白い着眼点である。

ところで、私は、鹿児島には、かつて、1~2回ほど行ったことがあるかと覚えている。城山にものもぼった。私学校跡にも行ってみたりした。そして、強く印象にのこっているのは、普段の日であったにかかわらず、西郷隆盛のゆかりの場所など、きれいに掃き清められて、花が供えてあったことである。たぶん、だれか有志のひとがやっているのだろう。

西郷が死んで、100年以上になる。それでもなお、西郷隆盛という人は、地元の鹿児島の人びとから、敬愛の気持ちで慕われていることが実感できた。西郷隆盛は、いまだなお、日本の歴史のなかに、人びとの心のなかに、いきつづけている人物である。

これから、ドラマを見ながら、幕末、明治維新関係の本など、読んでいきたいと思っている。今、読んでいるのは『明治天皇』(ドナルド・キーン、新潮文庫版)。

追記 2018-01-16
この続きは、
やまもも書斎記 2018年1月16日
『西郷どん』あれこれ「立派なお侍」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/01/16/8770601