文献日本語研究会2022-08-01

2022年8月1日 當山日出夫

2022年7月30日、オンラインで第一回の文献日本語研究会があった。いまどき、学会、研究会は、ほとんどオンラインである。これも、ZOOMを使っての開催であった。

文献日本語研究会、ということなので思ったことを少し書いておきたい。二つぐらいある。

第一には、普通にいう日本語史、国語史とどう違うのか、今一つはっきりとわからなかった。概ね、過去の日本語の研究には、文献資料を使う。これまでの研究における文献のあつかいと、どこか根本的に変わるところ、方法論的な問題ということでもあるのだろうかと思うのだが、どうだろうか。

第二には、では現代日本語の研究における文献とは何であるのかという、問いが生まれてくることになる。現代日本語の研究においては、文献によらない、音声データを用いた研究もさかんである。このような研究と、文献に依拠する研究とでは、日本語という言語に対するアプローチにどのような、違いがあるのだろうか。そこから見えてくる、言語の現象にはどのような相違があるのだろうか。

ざっと、以上の二つのことを思った。

だが、このような問題意識はあるのだが、ともかく普通の日本語の歴史的研究、その資料論としては、いろいろと面白いところのある研究会であった。この研究会は次回以降どうなるかまだはっきりとはしないようなのだが、ともかく続いていきそうである。

もう自分では、学会発表とかしようとは思わないでいる。夏の暑い一日、オンラインで、最新の研究動向に触れることで、時間を使ったことになる。次回以降の開催を楽しみにして待っていよう。

2022年7月31日記

『鎌倉殿の13人』あれこれ「ままならぬ玉」2022-08-02

2022年8月2日 當山日出夫(とうやまひでお)

『鎌倉殿の13人』第29回「ままならぬ玉」
https://www.nhk.or.jp/kamakura13/story/29.html

前回は、
やまもも書斎記 2022年7月26日
『鎌倉殿の13人』あれこれ「名刀の主」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/07/26/9512145

この回で描いていたのは、頼家の孤独といっていいだろうか。

二代目の鎌倉殿になった頼家は、横暴、専制というほどではないが、あまり臣下のいうことに耳を傾けることはない。そして、頼家は、蹴鞠に熱心である。鎌倉殿の孤独から逃げるために、蹴鞠にうちこんでいる。このあたりの、権力の座にあるものの孤独感ということが、丁寧に描かれていたと思う。

面白かったのは、終わりの方で井戸の中に落ちるシーン。このあたり、やはり、先の見えないドラマの展開、まさに三谷幸喜の脚本の真骨頂という気がする。

最終的には、頼家は鎌倉殿としての責務をはたし、また、鎌倉殿に対する呪詛も終わったというところで、一件落着かと思ったところで、最後に、呪詛の人形が一つ残っていた。さて、これが、これからのドラマの展開にとってどのような伏線になるのだろうか。頼家の最期ということを、どう描くことになるのか。また、実朝暗殺は、どのようになるのだろうか。

ところで見ていて面白かったのは、全成の呪詛のシーン。たぶん、時代考証を踏まえてのものだろうとは思うが、古代、中世における、呪術とはあのようなものであったのかと、これは興味深かった。まあ、結局、あまり効果は無かったようではあるが。

それから、善児の跡を継ぐことになった、トウ。これから、どのような場面で、どのような役割を果たすことになるのか。このトウが、義時の支配下にあるということが、歴史の動きの局面で、どんな働きをすることになるのか、今後の展開が楽しみである。

次週以降、いよいよ、北条と比企の対立ということになるようだ。楽しみに見ることにしよう。

2022年8月1日記

追記 2022年8月9日
この続きは、
やまもも書斎記 2022年8月9日
『鎌倉殿の13人』あれこれ「全成の確率」
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/08/09/9516214

ヘビイチゴ2022-08-03

2022年8月3日 當山日出夫

水曜日は写真の日。今日はヘビイチゴである。

前回は、
やまもも書斎記 2022年7月27日
小手毬
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/07/27/9512433

我が家の駐車場の空き地に咲く。咲くといっても、地面近く、かなり目をこらさないと探せない。これは、五月に撮った写真のストックからである。春から初夏というころになると、黄色い花を咲かせる。それが赤い実ができる。

このごろまた急に暑くなってきた。外にカメラを持って出ようという気にならない。朝、新聞をとりに出ると、露草の花が咲いているのを目にするようになった。百日紅の赤い花、白い花も咲いている。この暑さ、数日はつづくらしい。ちょっとマシになったら、外にカメラを持って出てみようかと思っている。

ヘビイチゴ

ヘビイチゴ

ヘビイチゴ

ヘビイチゴ

ヘビイチゴ

ヘビイチゴ

Nikon D500
SIGMA APO MACRO 150mm F2.8 EX DG OS HSM

2022年8月2日記

追記 2022年8月10日
この続きは、
やまもも書斎記 2022年8月10日
クローバー
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/08/10/9516508

「イワン・イリイチの死」トルストイ/望月哲男(訳)2022-08-04

2022年8月4日 當山日出夫

イワン・イリイチの死

トルストイ.望月哲男(訳).『イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ』(光文社古典新訳文庫).光文社.2006
https://www.kotensinyaku.jp/books/book09/

歳をとってきたこともあるか、自分の死ぬときのことを思うことが多くなった。はたして、自分はどんなふうに死ぬことになるのだろうか、まったく他人事ではないと、常々感じるところがある。

「イワン・イリイチの死」は、名前は知っていたが、読むのは初めてになる。読んでなるほど、トルストイとは、人の死というものを、このように文学に書いているのかと、強く感銘をうける。

文学とは芸術なのである。この当たり前のことが、今では忘れられているように思えてならない。(だから、芸術とは何かを考えることはないのであるが。まあ、このあたりは、常識的に考えておくことにしたい。)

トルストイを読むと、芸術としての文学ということを強く感じる。それは、人間とは何か、生きているとはどういうことなのか、人生とは何であるのか……というようなことについて、深く心のうちに問いかけるところがある、ということである。

そこに同意するかどうかということは別にしても、読んで、深くこころをうたれるということはある。「イワン・イリイチの死」は、人間の生きていること、あるいは、その果てにある死というものについて、こころのうちに問いかけるものがある。

2022年6月18日記

映像の世紀バタフライエフェクト「難民 命を救う闘い」2022-08-05

2022年8月5日 當山日出夫

これは再放送の録画で見た。

取り上げていたのは、難民、避難民。(「難民」と言ってしまうと、その定義が問題になる。日本の難民問題へのとりくみの問題も、一つにはこの定義のことがある。ここは、広く、難民、避難民を考えておくべきであろう。)

登場していたのは、ナンセン、キャパ、澤田教一、緒方貞子など。

これまでの「映像の世紀」シリーズでも、難民のことはいくどか取り上げられてきている。その流れのなかでみるならば、今回の番組で注目しておきたいのは、次の二点。

第一には、ウクライナ難民。ロシアのウクライナ侵略によって多くの難民が生まれている。時事的な課題になるが、しかし、このシリーズとしては、ウクライナ難民ことを取り上げてあることには、意味があると思う。

第二には、緒方貞子。これまでの「映像の世紀」シリーズでは、大きく取り上げられることはなかったかと思うが、この回では、緒方貞子のことが、重要な意味をもつものとして取り上げられていた。まさに、「難民」とは何であるかという、国際社会の定義との戦いであったとも言えるのではないだろうか。

以上の二点が、見ていて思ったことなどである。

ともあれ、難民、避難民というのは、おそらくは人類の歴史とともにあるのだろうと思う。それが国際社会の問題になるのは、まさに「映像の世紀」、近代になってからのことでもあるだろうか。近代の国際社会の成立とともに、難民の問題も、大きな問題となってきたといえるかもしれない。

ところで、難民といって思うのが、太平洋戦争、大東亜戦争の終結時における、満州や中国、朝鮮といった地域にいた日本人のことがある。これも、難民という範疇で考えるべき問題の一つであるように思える。たとえば、宮尾登美子の書いた『朱夏』では、満州で終戦をむかえた日本人の姿が描かれている。これを難民と言わずして何と言えばいいのだろうか。

2022年8月4日記

「クロイツェル・ソナタ」トルストイ/望月哲男(訳)2022-08-06

2022年8月6日 當山日出夫

イワン・イリイチの死

トルストイ.望月哲男(訳).『イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ』(光文社古典新訳文庫).光文社.2006
https://www.kotensinyaku.jp/books/book09/

「クロイツェル・ソナタ」も名前は昔から知っていたのだが、なんとなく手にとることなく過ぎてしまった作品である。「イワン・イリイチの死」に続けて読んだ。

文学は芸術であり、そして、狂言綺語である。端的に言い切ってしまうなら、こんなふうな感想になる。これは、最大に褒めているのである。

ここには、晩年のトルストイの人生観、特に、結婚や女性についての思想が語られる、まあ、通俗的に読むならこう言っていいのだろう。だが、これは小説である。小説の中の登場人物の語りとして述べられていることである。どこまで作者であるトルストイの考えを反映しているものなのか、ここは距離を置いて考えるべきだろう。

無論、この作品に対して、今日のフェミニズムの観点から論評を加えることは簡単なことかもしれない。だが、それがあったからといってどういうことがあるのだろうか。この作品の持つ、小説としての面白さ……それを、芸術と言ってみることになるのだが……は、いささかもゆるぐことはないだろう。

そして、この小説は、鉄道小説であり、犯罪小説でもある。そういえば、『アンナ・カレーニナ』においても、鉄道は重要な意味を持っていた。『クロイツェル・ソナタ』は、まさに鉄道というものの登場があってこそ書かれた小説というべきである。そして、この小説全体を通じて語られるのは、ある犯罪である。犯罪と文学ということでは、いろいろと考えるべきことがあるかと思うが、ここは、一九世紀ロシア文学において、犯罪について語るということが、一つの文学的潮流であったと思っておけばいいのかもしれない。

ともあれ、そう長くない作品である。一気に読んでしまった。文学を読む楽しみというものがあるならば、このような作品を読むときに感じるものなのだろう。鉄道に乗り合わせた乗客という舞台設定があり、その中の語り手の物語である。どこまで信じていいものなのか疑念に思いながらも、その語りのなかに入りこんでいく。まさに、近代小説の極致と言っていいだろう。

2022年6月19日記

『ちむどんどん』あれこれ「あのとき食べたラフテーの」2022-08-07

2022年8月7日 當山日出夫

『ちむどんどん』第17週「あのとき食べたラフテーの」
https://www.nhk.or.jp/chimudondon/story/week_17.html

前回は、
やまもも書斎記 2022年7月31日
『ちむどんどん』あれこれ「御三味に愛を込めて」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/07/31/9513599

このドラマ、世評はさほど高いとは言えないようなのだが、それほどの駄作であるとも思っていない。なるほど、何か事件があっても、金曜日にはうまくおさまっている。しかし、これはこのような作りである。金曜日に無事に一件落着という方式で展開していた朝ドラも、以前にはあった。

この週で描いていたこととしては、三郎と房子の過去のことがある。そのようなことがあったのかとなればそれまでであるが、これがどうも今一つ説得力に欠ける。今の三郎の生き方、房子の生き方、それぞれに影を落とす過去であったことになるのだが、だからこの二人の今の生き方に影響を与えるほどのことかと言えば、そうも思えないような気がする。

また、暢子は、和彦の母に認めてもらおうと料理で頑張るのだが、これもどうだろうか。ここは、作った料理の工夫とか説明とか、重子の思い出の料理とか、出てきてもいいように思える。沖縄料理の作り方の講釈がはいっていてもよかったようにも思う。

それから、沖縄から出てきた良子。いったい沖縄の家はどうしたのだろうか。夫と娘がいるはずなのだが、それはどうすることになったのだろうか。

フォンターナの一件についていえば、やはりまず警察に相談すべきことであったように思える。

ともあれ、事件は、三郎の活躍で一件落着ということになった。そして、次週は、フォンターナで結婚の披露宴ということになるようだ。さて、どうなるか、続きを楽しみに見ることにしよう。

2022年8月6日記

追記 2022年8月14日
この続きは、
やまもも書斎記 2022年8月14日
『ちむどんどん』あれこれ「しあわせのアンダンスー」
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/08/14/9517490

世界サブカルチャー史 欲望の系譜 「アメリカ 分断の2010s」2022-08-08

2022年8月8日 當山日出夫

世界サブカルチャー史 欲望の系譜 アメリカ 分断の2020s

土曜日の夜の放送。録画しておいて、日曜日の早朝にゆっくりと見た。

これまで、この番組でアメリカを中心に「サブカルチャー史」を論じてきた。扱ってきたのは、主に映画である。

アメリカ編の最後、二〇一〇年代、現代という時代を描いたこの回を見て思うこととしては、次の二点ぐらいだろうか。

第一に、カウンターカルチャーの末路。

思い起こせば、五〇年代、六〇年代、それから、七〇年代ぐらい……私の子供のころから若いときということになるが、このころのサブカルチャーは、まさに、カウンターカルチャーであった。それが、資本主義に飲み込まれて消費されるアイテムとなってしまうのが、現代という時代なのだろう。

現代のSNSも、その登場のころは、カウンターカルチャーであった。私は、Twitterは、一〇年以上使ってきているが、その当初のころは、インターネットの片隅で、つまらなことを呟いている、ちょっと変わった人びとの集まるところだった。それが、今では、大きく変貌してしまっている。懐古的に思ってみるならば、その始めのころの、牧歌的な雰囲気はまったく無くなってしまった。

第二は、資本主義。

あるいは、現代においては、新自由主義と言った方がいいのかもしれない。(ただ、番組の中では、私の気づいた限りでは、新自由主義という用語は出てこなかったように思うが。)この時代の大きな流れのなかでは、サブカルチャーもまた、商品の一つの形態にすぎないことになる。

それに抗うことも不可能ではないかもしれない。しかし、歴史的に、少なくとも二〇世紀の歴史を考えてみるならば、現代のサブカルチャーは、資本主義のなかで生きてきたその最後の姿と言ってもいいだろう。もはや、「サブ」カルチャーと言うことさえ、ためらわれる。

以上の二つのことを思って見る。

ふとした興味で、NHKのこの番組を見始めて、続けて見てきた。アメリカ編が終わって思うこととしては、やはり、資本主義の流れのなかにあった歴史ということになる。

さて、次回は、フランスの五月革命のことになるらしい。これは、楽しみに見ようと思う。

2022年8月7日記

『鎌倉殿の13人』あれこれ「全成の確率」2022-08-09

2022年8月9日 當山日出夫

『鎌倉殿の13人』第30回「全成の確率」
https://www.nhk.or.jp/kamakura13/story/30.html

前回は、
やまもも書斎記 2022年8月2日
『鎌倉殿の13人』あれこれ「ままならぬ玉」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/08/02/9514224

この回で全成が死ぬことになる。このこと自体は史実であるとして、その背景に鎌倉殿をめぐる権力闘争と呪詛のことをからめてきたのが、このドラマの脚本の巧さと言っていいだろう。

ドラマにおいては、義時が主人公という位置づけだから、そう悪く描くことはない。その対比で、悪役になっているのが、比企。鎌倉殿の権力を奪おうとしているかのごとくである。

だからといって、義時の方がまったく善であるかというとそうでもないようだ。御家人たちの権力闘争のなかにあて、なんとか北条を生きのびさせようと、これはこれで、いろいろと深謀遠慮をめぐらすことになる。ひょっとすると、このドラマで一番の悪人は、義時であるのかもしれない。

ところで、この回でよかったのは、実衣(宮澤エマ)。全成は死んでしまうことになったが、これから先、ドラマで出番があるだろうか。

そして、ちょっとだけ出てきていたが、善児のことが興味深い。義時のもとに仕えることになったのだが、この善児を義時は、これからの時代の動乱のなかでどのように使っていくことになるのだろうか。(この回には登場していなかったが、前回出てきていたトウのことも気になる。)

さて、次回以降、北条と比企の対立の続きとなるようだ。歴史の結果としては分かっていることだが、ドラマとしては、この続きがどうなるか気になる。楽しみに見ることにしよう。

2022年8月8日記

追記 2022年8月16日
この続きは、
やまもも書斎記 2022年8月16日
『鎌倉殿の13人』あれこれ「諦めの悪い男」
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/08/16/9518010

クローバー2022-08-10

2022年8月10日 當山日出夫

水曜日なので写真の日。今日はクローバーである。

前回は、
やまもも書斎記 2022年8月3日
ヘビイチゴ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/08/03/9514517

我が家の駐車場の空き地に咲く。シロツメクサともいうが、クローバーの名称で子どものころから親しんできている。どうも、空き地に咲く花というイメージがある。小さいころは、四つ葉のものを探したりもしたものだが、このごろになってはそんな元気は全くない。ただ、白い花が咲いているのを眺めるだけである。

ここ数日、とにかく暑い。朝の八時前の天気予報の時間に、すでに気温は三〇度ちかくになっている。日中は、三五度ちかくになる。あるいは、それを超える。

外に出て写真を撮るのは、早朝である。朝起きて、空が明るくなったころに、カメラを持って出る。露草の花が、朝ごとに見られるようになっている。それから、ギボウシの紫色の花が咲いている。百日紅の花も咲いているが、そろそろ終わりかけといっていいだろうか。

クローバー

クローバー

クローバー

クローバー

Nikon D500
SIGMA APO MACRO 150mm F2.8 EX DG OS HSM

2022年8月9日記

追記 2022年8月17日
この続きは、
やまもも書斎記 2022年8月17日
夕化粧
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/08/17/9518307