『坂の上の雲』「(9)留学生(前編)」 ― 2024-11-16
2024年11月16日 當山日出夫
『坂の上の雲』「(9)留学生(前編)」
録画しておいたのをようやく見た。見ながら思ったことを書いてみる。
秋山真之、それから、秋山好古、この二人については、可能な限り軍服で登場させようとしているようだ。無論、軍人なのだから軍服を着ているのは当たり前であるが、その登場する場面は、なるべくそれを着用していることが不自然ではないところを選んで作ってある。
この回で、真之が軍服以外の服装だったのは、アメリカに渡る船の上。ここは、軍人とはいっても、一般の客船に乗るのだから、普通の服装ということだったのだろう。それから、米西戦争の新聞を手にした街角。しかし、マハンのもとを訪問したときは、軍服であった。ここは、軍人同士としての礼節と理解することになる。
好古が自分の家に帰って、くつろいでいるときは着物姿に着替えていた。さすがに、家の中でも軍服ではないだろう。
真之にしても、好古にしても、それぞれその役割をはたした人物として、このドラマでは描かれている。ドラマは、原作の司馬遼太郎の『坂の上の雲』もそうだが、その後の日露戦争後のことはほとんで描かれない。日露戦争をピークとして、あっけなく終わる。軍人としての役割を終えてしまったのちのことは、もう描く必要がないかのようである。言いかえると、ドラマのなかに登場しているかぎりは、軍人としての役割……戦争を勝利にみちびくため……をはたすだけの存在である。
これは、司馬遼太郎の作品に多く見られることでもある。歴史上の人物を、その時代がもとめた役割をはたす存在として、いわば技術者のように描く。古くは、源義経もそうだし、『国盗り物語』の斎藤道三、織田信長、豊臣秀吉、これらの武将はみな、それぞれの役割をはたして、それがなしとげられたのちは退場する(=死ぬ)ことになる。幕末をあつかったものでも、竜馬もそうであるし、大村益次郎もそうであるし、松本良順もそうである。西郷隆盛も、その役割をおえて最期をむかえる。
このドラマにおいても、真之と好古は、日露戦争の勝利という役割のためだけに、歴史上に存在したということになっている。これはこれで、一つの歴史小説の描き方である。
今から一〇年ほど前のドラマである。今、もし作るとしたら、どうだろうか。ロシアの帝国主義、東アジアにおける侵略主義、という側面をもっと露骨に描くことになるかもしれない。このドラマのことを批判的に見るならば、朝鮮の視点がはいっていないということが指摘できるだろう。閔妃暗殺事件のことが出てきていたが、これは親露政策をとってもらっては困るという、日本の思惑からそうなったということであった。なぜ、朝鮮の閔妃が親露的であったのかというあたりの事情にはふみこんで語ることがなかった。さらには、なぜ、朝鮮が日本のように近代化できなかったのか、という問いかけにつながる問題がある。だが、このような視点をもちこむには、このドラマの枠では無理かもしれないが。
真之はアメリカに渡るとき、どの航路をとったのだろうか。ニューヨークの自由の女神を船から見ているので、大西洋を渡ったことになるのだろう。昔に書いたことだが、ペリーが幕末に日本にやってきたときは、大西洋からインド洋を経て太平洋にはいって日本に来ている。これは、メルヴィルの『白鯨』の航路と重なる。
この時代、太平洋横断の航路でアメリカに行くということは、一般的ではなかったのだろうか。西海岸まで行ったとしても、東の方まで行くには大変だったかもしれない。ただ、この時代には、アメリカの大陸横断鉄道は開通はしている。
臥薪嘗胆というのは、子どものときに学校の教科書に出てきたので憶えている。今の時代の価値観からするならば、日本が帝国主義、軍国主義であった時代として、批判的に見ることになるのだが、明治という時代を肯定的に見るという、司馬遼太郎の発想にしたがうならば、国家予算のかなりを軍事費に使うことは、否定されるべきことではないことになる。この時代、国民もまたそれを理解していた、という描き方である。
『アメリカにおける秋山真之』と『ロシヤにおける広瀬武夫』は、買って持っている本なのだが、しまったままである。これらの本が出たのは、私が学生のころだったろうか。
2024年11月15日記
『坂の上の雲』「(9)留学生(前編)」
録画しておいたのをようやく見た。見ながら思ったことを書いてみる。
秋山真之、それから、秋山好古、この二人については、可能な限り軍服で登場させようとしているようだ。無論、軍人なのだから軍服を着ているのは当たり前であるが、その登場する場面は、なるべくそれを着用していることが不自然ではないところを選んで作ってある。
この回で、真之が軍服以外の服装だったのは、アメリカに渡る船の上。ここは、軍人とはいっても、一般の客船に乗るのだから、普通の服装ということだったのだろう。それから、米西戦争の新聞を手にした街角。しかし、マハンのもとを訪問したときは、軍服であった。ここは、軍人同士としての礼節と理解することになる。
好古が自分の家に帰って、くつろいでいるときは着物姿に着替えていた。さすがに、家の中でも軍服ではないだろう。
真之にしても、好古にしても、それぞれその役割をはたした人物として、このドラマでは描かれている。ドラマは、原作の司馬遼太郎の『坂の上の雲』もそうだが、その後の日露戦争後のことはほとんで描かれない。日露戦争をピークとして、あっけなく終わる。軍人としての役割を終えてしまったのちのことは、もう描く必要がないかのようである。言いかえると、ドラマのなかに登場しているかぎりは、軍人としての役割……戦争を勝利にみちびくため……をはたすだけの存在である。
これは、司馬遼太郎の作品に多く見られることでもある。歴史上の人物を、その時代がもとめた役割をはたす存在として、いわば技術者のように描く。古くは、源義経もそうだし、『国盗り物語』の斎藤道三、織田信長、豊臣秀吉、これらの武将はみな、それぞれの役割をはたして、それがなしとげられたのちは退場する(=死ぬ)ことになる。幕末をあつかったものでも、竜馬もそうであるし、大村益次郎もそうであるし、松本良順もそうである。西郷隆盛も、その役割をおえて最期をむかえる。
このドラマにおいても、真之と好古は、日露戦争の勝利という役割のためだけに、歴史上に存在したということになっている。これはこれで、一つの歴史小説の描き方である。
今から一〇年ほど前のドラマである。今、もし作るとしたら、どうだろうか。ロシアの帝国主義、東アジアにおける侵略主義、という側面をもっと露骨に描くことになるかもしれない。このドラマのことを批判的に見るならば、朝鮮の視点がはいっていないということが指摘できるだろう。閔妃暗殺事件のことが出てきていたが、これは親露政策をとってもらっては困るという、日本の思惑からそうなったということであった。なぜ、朝鮮の閔妃が親露的であったのかというあたりの事情にはふみこんで語ることがなかった。さらには、なぜ、朝鮮が日本のように近代化できなかったのか、という問いかけにつながる問題がある。だが、このような視点をもちこむには、このドラマの枠では無理かもしれないが。
真之はアメリカに渡るとき、どの航路をとったのだろうか。ニューヨークの自由の女神を船から見ているので、大西洋を渡ったことになるのだろう。昔に書いたことだが、ペリーが幕末に日本にやってきたときは、大西洋からインド洋を経て太平洋にはいって日本に来ている。これは、メルヴィルの『白鯨』の航路と重なる。
この時代、太平洋横断の航路でアメリカに行くということは、一般的ではなかったのだろうか。西海岸まで行ったとしても、東の方まで行くには大変だったかもしれない。ただ、この時代には、アメリカの大陸横断鉄道は開通はしている。
臥薪嘗胆というのは、子どものときに学校の教科書に出てきたので憶えている。今の時代の価値観からするならば、日本が帝国主義、軍国主義であった時代として、批判的に見ることになるのだが、明治という時代を肯定的に見るという、司馬遼太郎の発想にしたがうならば、国家予算のかなりを軍事費に使うことは、否定されるべきことではないことになる。この時代、国民もまたそれを理解していた、という描き方である。
『アメリカにおける秋山真之』と『ロシヤにおける広瀬武夫』は、買って持っている本なのだが、しまったままである。これらの本が出たのは、私が学生のころだったろうか。
2024年11月15日記
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