「「学校の怪談」子どもがささやく怪異の闇」 ― 2024-11-13
2024年11月13日 當山日出夫
ダークサイドミステリー 「学校の怪談」子どもがささやく怪異の闇
再放送である。二〇二三年四月の放送。
見終わってから、Amazonで「学校の怪談」を検索してみた。たしかに今でも本やビデオを売っている。そのなかに、常光徹の『学校の怪談: 口承文芸の研究1』が、角川ソフィア文庫で出ていることを見つけた。まさに「学校の怪談」ブームを始めた(というのもおかしいが)研究者が、きちんとした研究書(だろうと思う)を出している。
私自身の経験でいうと、学校の怪談というのは見聞した体験はない。小学校は近所の公立の学校だった。昭和三〇年代後半のころのことになる。この時代は、怪談はたしかにあった。それを象徴するのは、やはり「ゲゲゲの鬼太郎」ということになる。これが、「少年マガジン」に連載されたとき、「墓場の鬼太郎」だったのを記憶している。水木しげるが貸本漫画で描いていた鬼太郎を、少年漫画の世界に持ってきたものだっということになる。今の視点から「墓場の鬼太郎」「ゲゲゲの鬼太郎」を見てみると、怪異漫画といっていいだろう。
大学生のときは、慶應の国文で勉強したので、民俗学とは馴染みがある。折口信夫や柳田国男の主な著作は、学生のときに読んだ。ただ、そのなかで『遠野物語』だけは最後まで読めずにいた。理由は読むと怖いからである。『遠野物語』の文章は、近代の日本の文章のなかで傑出して恐ろしい文章である。いまだに『遠野物語』を読み通したことがない。
番組に登場した、吉岡一志、大島万由子、という人については、今の時代である、Googleで検索してみると、学校の怪談を専門に民俗学の立場から研究している人であることがわかる。
近代になってから、学校という新しい場所が出来て、そこで子供たちが多くの時間を仲間とすごすようになり、そこで怪談が生まれてくる、それは、旧来の民俗学で語られてきた怪談をなぞるものであった。そして、時代の経過とともに、その学校独自の怪談も生まれ、より洗練された(といっていいのだろうか)ものになっていく。寄宿生などがそれを通過儀礼として後輩に伝えていく。学校が子供たちのアイデンティティの場になるということは、その仲間意識を強調するための役割として、学校独自の学校の怪談が、伝承されて発展していく。こういう一連の流れについては、なるほどと同意するところである。
学校の怪談が、一九九〇年ごろにはじまった。講談社とポプラ社の本による。それが、二〇〇〇年をすぎると終息していく、これは何故なのかということについては、あまり納得のいく説明はなかった。学校という場所の変化、子どもをとりまく社会的環境の変化、ということに起因するのだろうと思う。
そのなかにあって、トイレの花子さんだけは、根強く人気があった。それも、映画化され、テレビアニメ化されるということがあって、下火になっていく。(これは、最初は怪異漫画としてスタートした「ゲゲゲの鬼太郎」がテレビアニメになって、正義のヒーローに変化したのと共通するところがあるかと思う。)
そして、今は、学校にもICTが導入され、新しい機械を媒介とした、新しい怪談が生まれているという。オンライン授業のメンバーのなかに死んだはずの人がいる、などは、現代ならではの怪談と言っていいだろう。
インターネットの時代になっても、人びとの心性がそう大きく変わることはない。古くからの心性を継承したうえで、新しい機器によって新しい怪談が生まれてくるという現象は、これはこれで非常に面白いことだと思う。ネット怪談の時代をむかえている。学校という子供たちにとって日常の場所だからこそ、そのどこかに異界への道が通じているという感覚は、時代が変わっても受け継がれていくものなのだろう。
学校の怪談というのは、民俗学の立場からも、また、学校というものを考える立場からも、非常に興味深い研究テーマであるということはいえる。
2024年11月3日記
ダークサイドミステリー 「学校の怪談」子どもがささやく怪異の闇
再放送である。二〇二三年四月の放送。
見終わってから、Amazonで「学校の怪談」を検索してみた。たしかに今でも本やビデオを売っている。そのなかに、常光徹の『学校の怪談: 口承文芸の研究1』が、角川ソフィア文庫で出ていることを見つけた。まさに「学校の怪談」ブームを始めた(というのもおかしいが)研究者が、きちんとした研究書(だろうと思う)を出している。
私自身の経験でいうと、学校の怪談というのは見聞した体験はない。小学校は近所の公立の学校だった。昭和三〇年代後半のころのことになる。この時代は、怪談はたしかにあった。それを象徴するのは、やはり「ゲゲゲの鬼太郎」ということになる。これが、「少年マガジン」に連載されたとき、「墓場の鬼太郎」だったのを記憶している。水木しげるが貸本漫画で描いていた鬼太郎を、少年漫画の世界に持ってきたものだっということになる。今の視点から「墓場の鬼太郎」「ゲゲゲの鬼太郎」を見てみると、怪異漫画といっていいだろう。
大学生のときは、慶應の国文で勉強したので、民俗学とは馴染みがある。折口信夫や柳田国男の主な著作は、学生のときに読んだ。ただ、そのなかで『遠野物語』だけは最後まで読めずにいた。理由は読むと怖いからである。『遠野物語』の文章は、近代の日本の文章のなかで傑出して恐ろしい文章である。いまだに『遠野物語』を読み通したことがない。
番組に登場した、吉岡一志、大島万由子、という人については、今の時代である、Googleで検索してみると、学校の怪談を専門に民俗学の立場から研究している人であることがわかる。
近代になってから、学校という新しい場所が出来て、そこで子供たちが多くの時間を仲間とすごすようになり、そこで怪談が生まれてくる、それは、旧来の民俗学で語られてきた怪談をなぞるものであった。そして、時代の経過とともに、その学校独自の怪談も生まれ、より洗練された(といっていいのだろうか)ものになっていく。寄宿生などがそれを通過儀礼として後輩に伝えていく。学校が子供たちのアイデンティティの場になるということは、その仲間意識を強調するための役割として、学校独自の学校の怪談が、伝承されて発展していく。こういう一連の流れについては、なるほどと同意するところである。
学校の怪談が、一九九〇年ごろにはじまった。講談社とポプラ社の本による。それが、二〇〇〇年をすぎると終息していく、これは何故なのかということについては、あまり納得のいく説明はなかった。学校という場所の変化、子どもをとりまく社会的環境の変化、ということに起因するのだろうと思う。
そのなかにあって、トイレの花子さんだけは、根強く人気があった。それも、映画化され、テレビアニメ化されるということがあって、下火になっていく。(これは、最初は怪異漫画としてスタートした「ゲゲゲの鬼太郎」がテレビアニメになって、正義のヒーローに変化したのと共通するところがあるかと思う。)
そして、今は、学校にもICTが導入され、新しい機械を媒介とした、新しい怪談が生まれているという。オンライン授業のメンバーのなかに死んだはずの人がいる、などは、現代ならではの怪談と言っていいだろう。
インターネットの時代になっても、人びとの心性がそう大きく変わることはない。古くからの心性を継承したうえで、新しい機器によって新しい怪談が生まれてくるという現象は、これはこれで非常に面白いことだと思う。ネット怪談の時代をむかえている。学校という子供たちにとって日常の場所だからこそ、そのどこかに異界への道が通じているという感覚は、時代が変わっても受け継がれていくものなのだろう。
学校の怪談というのは、民俗学の立場からも、また、学校というものを考える立場からも、非常に興味深い研究テーマであるということはいえる。
2024年11月3日記
コメント
トラックバック
このエントリのトラックバックURL: http://yamamomo.asablo.jp/blog/2024/11/13/9731172/tb
※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。
コメントをどうぞ
※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。
※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。
※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。