「ウィローブルック 世界を救った非人道的医学研究」 ― 2024-12-10
2024年12月10日 當山日出夫
フランケンシュタインの誘惑 ウィローブルック 世界を救った非人道的医学研究
人間の世の中において倫理的な正しさというのは、時代によって変化する。これは認めなければならないことである。現在の倫理観で問題があることをさかのぼって考えることは、たしかに意味のあることである。だが、それよりも重要だと思うのは、どのような経緯で倫理観が変化してきたのか、その過程を研究の歴史とともに深く考察することである。そして、今の倫理観もまた、歴史のなかにあることを自覚することである。(つまり、将来において変わる可能性を考えておかなければならない。)
クルーグマンが研究していた時代、その手法は、特に倫理的に問題になることではなかった。彼は、正しく研究していたことになる。このことをまず確認しておくことが重要である。
それが、時代の価値観の変化とともに、いくつかの問題点が指摘されるようになる。
基本となる考え方としては、全体の利益や福祉のためであっても、個々の人間の尊厳は尊重されなければならないということ、さらには、全体の幸福よりも、(それがどのような人間であれ)個人の人権が優先するということ……このようになる。(現代の価値観としては、非常にリベラルなものの考え方ということになる。だから悪いという気はまったくないのだが。)
クルーグマンの実験については、精神障害の子どもというかなり特殊な被験者であったが、一般化して、どのような人間についてもということに拡張して、その人権の価値を最大限に求めることになる。このような価値観の背景にあるのは、人間社会にとっての正義とはなんであるか、という議論である。生命倫理、医学倫理の問題であると同時に、正義論の大きな問題でもある。
もし、肝炎に二つの種類があるかもしれないという仮説を考え、それを実験で証明するには、その当時、どのような方法があり得たのだろうか。もし、それが立証できた場合の利益……肝炎の詳細な解明と治療法の確立……これと、実験の手法の妥当性が考慮されなければならないことになる。これが、現代であるならば、どのような(倫理的に妥当な)実験手法が考えられるのだろうか。(このことについての、現代の医学研究者の見解を知りたいところでもある。)
クルーグマンの場合、精神障害者の子どもということが、問題点の一つであることは確かである。そこにまったくの偏見が無かったのか、ということも問われることの一つにはちがいない。だが、それよりも、番組を見ていて気になったのは、その当時のアメリカにおける、精神障害の子供たちについての対応である。これが、現代の基準からは考えられないほどに劣悪なものであったことが、個人的な感想になるが、この事件を考えるときの後味の悪さということにつながるように感じる。
ところで、この番組を見て感じることだが、生命倫理学とか、医学倫理学、というような分野において、日本ではどれぐらいの専門家がいて、どのような議論がなされているのだろうか。また、研究倫理一般の問題として、大学などでどのような教育がなされているのだろうか。
人文学の分野でも、『予言がはずれるとき』(フェスティンガー)の問題点は指摘されることだが、私の経験では、特に研究倫理の問題として論じられてきたということはないと思っている。
研究倫理、生命倫理の問題であるが、広くは、正義論の問題でもあるということを考えてみなければならないと思う次第である。
なお、番組のなかで言っていたこととして、研究の世界では、何が分からないかさえ分からない……これは、そのとおりである。何が分からないのか、ということが特定できれば、それは偉大な成果である(サイエンスであれ、人文学であれ)。
2024年12月5日記
フランケンシュタインの誘惑 ウィローブルック 世界を救った非人道的医学研究
人間の世の中において倫理的な正しさというのは、時代によって変化する。これは認めなければならないことである。現在の倫理観で問題があることをさかのぼって考えることは、たしかに意味のあることである。だが、それよりも重要だと思うのは、どのような経緯で倫理観が変化してきたのか、その過程を研究の歴史とともに深く考察することである。そして、今の倫理観もまた、歴史のなかにあることを自覚することである。(つまり、将来において変わる可能性を考えておかなければならない。)
クルーグマンが研究していた時代、その手法は、特に倫理的に問題になることではなかった。彼は、正しく研究していたことになる。このことをまず確認しておくことが重要である。
それが、時代の価値観の変化とともに、いくつかの問題点が指摘されるようになる。
基本となる考え方としては、全体の利益や福祉のためであっても、個々の人間の尊厳は尊重されなければならないということ、さらには、全体の幸福よりも、(それがどのような人間であれ)個人の人権が優先するということ……このようになる。(現代の価値観としては、非常にリベラルなものの考え方ということになる。だから悪いという気はまったくないのだが。)
クルーグマンの実験については、精神障害の子どもというかなり特殊な被験者であったが、一般化して、どのような人間についてもということに拡張して、その人権の価値を最大限に求めることになる。このような価値観の背景にあるのは、人間社会にとっての正義とはなんであるか、という議論である。生命倫理、医学倫理の問題であると同時に、正義論の大きな問題でもある。
もし、肝炎に二つの種類があるかもしれないという仮説を考え、それを実験で証明するには、その当時、どのような方法があり得たのだろうか。もし、それが立証できた場合の利益……肝炎の詳細な解明と治療法の確立……これと、実験の手法の妥当性が考慮されなければならないことになる。これが、現代であるならば、どのような(倫理的に妥当な)実験手法が考えられるのだろうか。(このことについての、現代の医学研究者の見解を知りたいところでもある。)
クルーグマンの場合、精神障害者の子どもということが、問題点の一つであることは確かである。そこにまったくの偏見が無かったのか、ということも問われることの一つにはちがいない。だが、それよりも、番組を見ていて気になったのは、その当時のアメリカにおける、精神障害の子供たちについての対応である。これが、現代の基準からは考えられないほどに劣悪なものであったことが、個人的な感想になるが、この事件を考えるときの後味の悪さということにつながるように感じる。
ところで、この番組を見て感じることだが、生命倫理学とか、医学倫理学、というような分野において、日本ではどれぐらいの専門家がいて、どのような議論がなされているのだろうか。また、研究倫理一般の問題として、大学などでどのような教育がなされているのだろうか。
人文学の分野でも、『予言がはずれるとき』(フェスティンガー)の問題点は指摘されることだが、私の経験では、特に研究倫理の問題として論じられてきたということはないと思っている。
研究倫理、生命倫理の問題であるが、広くは、正義論の問題でもあるということを考えてみなければならないと思う次第である。
なお、番組のなかで言っていたこととして、研究の世界では、何が分からないかさえ分からない……これは、そのとおりである。何が分からないのか、ということが特定できれば、それは偉大な成果である(サイエンスであれ、人文学であれ)。
2024年12月5日記
コメント
トラックバック
このエントリのトラックバックURL: http://yamamomo.asablo.jp/blog/2024/12/10/9738636/tb
※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。
コメントをどうぞ
※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。
※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。
※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。