アナザーストーリーズ「吉野ヶ里が燃えた 〜邪馬台国をめぐる平成の大フィーバー〜」 ― 2025-02-13
2025年2月13日 當山日出夫
アナザーストーリーズ 吉野ヶ里が燃えた 〜邪馬台国をめぐる平成の大フィーバー〜
再放送である。最初は、2023年9月22日
吉野ヶ里遺跡が大きく世の中に報道された当時のことは、記憶にある。だが、そんなに関心をもったということはない。歴史的な意味としては、古代九州に弥生時代に大規模な環濠集落があり、まとまった統治の単位があっただろう、ということになる。そこが、邪馬台国であるという決定的証拠が出ないかぎり、基本的には、この枠組みを超えることはないと認識している。
番組として面白かったのは、この遺跡の発掘をめぐる報道各社の競争の実態。新聞記者とは、そんなふうに考えるものなのかと、ここのところは面白かった。
考古学という学問は、いくぶん政治にかかわるところがある。ただ、アカデミズムのなかにいればいいということではない部分がある。発掘された遺跡を残すとなった場合、どのような残し方がいいのか、政治との関係が重要になってくる。こういう交渉というの、まあ、広い意味での考古学研究者の仕事のうちである。それから、考古学の場合、遺跡の発掘チームを統率するという部分がある。理系でいえば、ラボのボス、ということになるかもしれない。また、誰が、どの遺跡を掘ることができるか、という一種の権利関係というか、縄張りのようなものもある。純然たる学問的関心だけで研究に打ち込める分野というわけではない……というあたりのことが、今の私としては思うことである。
今の吉野ヶ里遺跡の様子が映っていたが、昔の建物を復元することの意味は、どれぐらいあるのだろうか。学問的にまったく無意味とは思わないが、まあ、実際に木材などを当時の技術で加工して作るとするとどういうことになるか、実験してみるということは意味があるだろうが、それ以上の意味があるとは思えない。この意味では、藤原宮跡のように柱の跡に棒を立てているだけの遺跡のあり方が、私としては、もっとも好ましいと感じる。平城宮跡の大極殿の復元など、日本の学問の恥だとさえ思う。
邪馬台国がどこにあったかは、番組のなかで原武史の言っていたことが、現代のアカデミズムの立場からすれば、妥当なところだろう。結局、今の日本の姿、そして、天皇の起源、古代の王権、ということを、歴史の中に投影して考えているということである。この観点から、畿内説と、九州説は、考えられなければならない。具体的に、畿内のどこ、九州のどこ、ということには、あまり意味がない。
魏志倭人伝が出てきていたが、これがそもそも「魏志」という本の一部にすぎないということは、あまり言われることではない。おそらく、古代史学者、考古学者で、「魏志」を全部読んだという人は、少ないのではないだろうか。
現代では、中国の史書もデジタル化されてきているので、魏志倭人伝がどれぐらい信用できるものなのか、計量文献学的手法で、周辺の史書をふくめて総合的に分析して考えることになるだろう。
考古学では、吉野ヶ里から出土した人骨は、どう考えられているのだろうか。現代なら、DNA解析は普通の技術だと思うでの、予算があれば、吉野ヶ里遺跡に住んでいた人びとが、どんな人であったのか、分かることになる。無論、これは、日本の各地の遺跡の分析、朝鮮半島や中国大陸などの遺跡などの分析と、総合的に考えることになるにちがいないが。
2025年2月11日記
アナザーストーリーズ 吉野ヶ里が燃えた 〜邪馬台国をめぐる平成の大フィーバー〜
再放送である。最初は、2023年9月22日
吉野ヶ里遺跡が大きく世の中に報道された当時のことは、記憶にある。だが、そんなに関心をもったということはない。歴史的な意味としては、古代九州に弥生時代に大規模な環濠集落があり、まとまった統治の単位があっただろう、ということになる。そこが、邪馬台国であるという決定的証拠が出ないかぎり、基本的には、この枠組みを超えることはないと認識している。
番組として面白かったのは、この遺跡の発掘をめぐる報道各社の競争の実態。新聞記者とは、そんなふうに考えるものなのかと、ここのところは面白かった。
考古学という学問は、いくぶん政治にかかわるところがある。ただ、アカデミズムのなかにいればいいということではない部分がある。発掘された遺跡を残すとなった場合、どのような残し方がいいのか、政治との関係が重要になってくる。こういう交渉というの、まあ、広い意味での考古学研究者の仕事のうちである。それから、考古学の場合、遺跡の発掘チームを統率するという部分がある。理系でいえば、ラボのボス、ということになるかもしれない。また、誰が、どの遺跡を掘ることができるか、という一種の権利関係というか、縄張りのようなものもある。純然たる学問的関心だけで研究に打ち込める分野というわけではない……というあたりのことが、今の私としては思うことである。
今の吉野ヶ里遺跡の様子が映っていたが、昔の建物を復元することの意味は、どれぐらいあるのだろうか。学問的にまったく無意味とは思わないが、まあ、実際に木材などを当時の技術で加工して作るとするとどういうことになるか、実験してみるということは意味があるだろうが、それ以上の意味があるとは思えない。この意味では、藤原宮跡のように柱の跡に棒を立てているだけの遺跡のあり方が、私としては、もっとも好ましいと感じる。平城宮跡の大極殿の復元など、日本の学問の恥だとさえ思う。
邪馬台国がどこにあったかは、番組のなかで原武史の言っていたことが、現代のアカデミズムの立場からすれば、妥当なところだろう。結局、今の日本の姿、そして、天皇の起源、古代の王権、ということを、歴史の中に投影して考えているということである。この観点から、畿内説と、九州説は、考えられなければならない。具体的に、畿内のどこ、九州のどこ、ということには、あまり意味がない。
魏志倭人伝が出てきていたが、これがそもそも「魏志」という本の一部にすぎないということは、あまり言われることではない。おそらく、古代史学者、考古学者で、「魏志」を全部読んだという人は、少ないのではないだろうか。
現代では、中国の史書もデジタル化されてきているので、魏志倭人伝がどれぐらい信用できるものなのか、計量文献学的手法で、周辺の史書をふくめて総合的に分析して考えることになるだろう。
考古学では、吉野ヶ里から出土した人骨は、どう考えられているのだろうか。現代なら、DNA解析は普通の技術だと思うでの、予算があれば、吉野ヶ里遺跡に住んでいた人びとが、どんな人であったのか、分かることになる。無論、これは、日本の各地の遺跡の分析、朝鮮半島や中国大陸などの遺跡などの分析と、総合的に考えることになるにちがいないが。
2025年2月11日記
100分de名著「デュルケーム“社会分業論” (2)自律的個人はこうして生まれた」 ― 2025-02-13
2025年2月13日 當山日出夫
100分de名著 デュルケーム“社会分業論” (2)自律的個人はこうして生まれた
人間は、自立した個人であることを義務的に強いられるよりも、集合意識のなかで生きていることの方が、幸福である……私も、この歳まで生きてきて、なんとなくこのことばに共感するようになってきた、ということは確かである。何もかも自分の意志で決めて、その結果は、自分で責任を取る、ということが、かならずしも良いことばかりではないと思うようになってきている。
また、この番組では言っていないことなのだが、近年の行動科学などの知見からするならば、人間は、そう自由に自分の「自由意志」というものにしたがっているのではない、ということもいえるかと思う。切り捨てたはずの、古くからの社会的伝統などから、完全に自由であることは難しい。何度も書いていることなのだが、人間は、文化と歴史から自由ではありえない、ということである。
ところで、デュルケームの考えた、古代の人びとの生活というのは、おそらくは、アフリカなどの先住民の生活からヒントを得たものかもしれない。ヨーロッパが帝国主義の時代、世界に殖民地を作ったが、それと同時に、現地に暮らす人びとについての知見も得ることになる。そのようなことが、原始状態における人間の生活ということを考えることにつながっている、ということだろう。これは、ホッブズやルソーあたりからの西欧の啓蒙思想、社会契約論の、根底にあることでもある。
天邪鬼な考え方かもしれないが、集合意識の崩壊ということについては、今日のフェミニズムは、とんでもないと反発することになるにちがいない。古い家父長制的、男性中心的な価値観を温存してきたのは、まさに、ここでいわれている、集合意識のなかで生きてきた人間だからである。男はこうである、女はこうであるという、古くからの価値観を疑わないで生きてきた……ある意味では、このこと自体は、悪いことではないかもしれないが、しかし、今日の価値観からすると、全面的に否定的に考えなければならないことになるはずである。
古くからの価値観が崩壊したとき、世の中は分かりやすいヒーローをもとめる、ということで、今のアメリカのトランプ大統領を映していたが、どうなのだろうか。トランプ大統領の存在には、もっと複雑なアメリカ社会の事情があるように思うが。そして、強いていえば、トランプ大統領を、このように分かりやすく理解してしまおうということも、また、危険な短絡かもしれないと思うのであるが。
2025年2月11日記
100分de名著 デュルケーム“社会分業論” (2)自律的個人はこうして生まれた
人間は、自立した個人であることを義務的に強いられるよりも、集合意識のなかで生きていることの方が、幸福である……私も、この歳まで生きてきて、なんとなくこのことばに共感するようになってきた、ということは確かである。何もかも自分の意志で決めて、その結果は、自分で責任を取る、ということが、かならずしも良いことばかりではないと思うようになってきている。
また、この番組では言っていないことなのだが、近年の行動科学などの知見からするならば、人間は、そう自由に自分の「自由意志」というものにしたがっているのではない、ということもいえるかと思う。切り捨てたはずの、古くからの社会的伝統などから、完全に自由であることは難しい。何度も書いていることなのだが、人間は、文化と歴史から自由ではありえない、ということである。
ところで、デュルケームの考えた、古代の人びとの生活というのは、おそらくは、アフリカなどの先住民の生活からヒントを得たものかもしれない。ヨーロッパが帝国主義の時代、世界に殖民地を作ったが、それと同時に、現地に暮らす人びとについての知見も得ることになる。そのようなことが、原始状態における人間の生活ということを考えることにつながっている、ということだろう。これは、ホッブズやルソーあたりからの西欧の啓蒙思想、社会契約論の、根底にあることでもある。
天邪鬼な考え方かもしれないが、集合意識の崩壊ということについては、今日のフェミニズムは、とんでもないと反発することになるにちがいない。古い家父長制的、男性中心的な価値観を温存してきたのは、まさに、ここでいわれている、集合意識のなかで生きてきた人間だからである。男はこうである、女はこうであるという、古くからの価値観を疑わないで生きてきた……ある意味では、このこと自体は、悪いことではないかもしれないが、しかし、今日の価値観からすると、全面的に否定的に考えなければならないことになるはずである。
古くからの価値観が崩壊したとき、世の中は分かりやすいヒーローをもとめる、ということで、今のアメリカのトランプ大統領を映していたが、どうなのだろうか。トランプ大統領の存在には、もっと複雑なアメリカ社会の事情があるように思うが。そして、強いていえば、トランプ大統領を、このように分かりやすく理解してしまおうということも、また、危険な短絡かもしれないと思うのであるが。
2025年2月11日記
『坂の上の雲』「(22)二〇三高地(後編)」 ― 2025-02-13
2025年2月13日 當山日出夫
『坂の上の雲』 (22)二〇三高地(後編)
二〇三高地は落ちたのだが、ここまでこのドラマで描いたところを見てきて、いったい何のための旅順での戦いであったか、今一つ分からない、という気がする。
何度も書いているが、海軍の立場からすれば、旅順港にいる艦隊が攻撃目標であって、それを砲撃するための観測点として必要だったのが二〇三高地であった、ということになる。その他の要塞は、どうでもいいことになる。
一方、陸軍の立場からすれば、ロシアの極東における軍事拠点である旅順を陥落させ、その後、第三軍を満州の戦線に投入する、という筋書きを描いていたことになる。この場合には、ステッセルを降伏させねばならない。
戦争の大局、日露戦争、特に旅順攻撃の戦略が、このドラマから、あまり見えてこないのである。
それにしても、二〇三高地の攻撃が、最後は突撃して白兵戦というのは……まあ、実際はそうだったのかもしれないが……その後、太平洋戦争での日本軍の戦いかたを思うと、これから先、日本の軍隊はどれぐらい進歩していたのかと思いたくなる。おそらく、軍事の専門家は、その後の第一世界大戦の塹壕戦や各種の新兵器(戦車、飛行機、潜水艦など)を使った戦術や作戦について、研究していたにはちがいないが、実際にどれぐらい役だったのだろうかとも思いたくなる。(軍事史の専門家は、また違う見方をするかとも思うけれど。)
少なくとも、二〇三高地確保の意味として、旅順湾の敵艦隊砲撃のため、そこを観測点として具体的に利用するところまでは、描いておくべきだったかと思う。二八サンチ榴弾砲の本来の使い方は、その射的距離と破壊力で、旅順港の艦船を攻撃することにあったはずだと思っている。これを、いつ、どのように準備したのかということも、出てきていなかった。二八サンチ砲を戦線に投入することの困難さについては、説明があったのだが。
日露戦争を通じて、日本軍は、圧倒的な砲弾の不足に困ることなっていた、ということもあった。十分な準備ができていなかったし、国内での生産能力もなかった。(もし、輸入することが可能だったとしても、どこの国からどう運んでくればいいのかという、大きな問題がある。アメリカは、中立的立場であったから、日本に軍備の供与はできなかったはずである。)
私はこれまで軍の司令官は、何よりも技術者であると思ってきたのだが、ここ数年、なんとなく考え方が変わってきた。軍を統率するものとして、いかに部下の兵卒の信頼を得ることができるか、人格的な側面が重要だと思うようになってきている。
この意味で、乃木希典、児玉源太郎、あるいは、東郷平八郎という人物をどのように描くかということは、いろいろと考えるところがある。
2025年2月12日記
『坂の上の雲』 (22)二〇三高地(後編)
二〇三高地は落ちたのだが、ここまでこのドラマで描いたところを見てきて、いったい何のための旅順での戦いであったか、今一つ分からない、という気がする。
何度も書いているが、海軍の立場からすれば、旅順港にいる艦隊が攻撃目標であって、それを砲撃するための観測点として必要だったのが二〇三高地であった、ということになる。その他の要塞は、どうでもいいことになる。
一方、陸軍の立場からすれば、ロシアの極東における軍事拠点である旅順を陥落させ、その後、第三軍を満州の戦線に投入する、という筋書きを描いていたことになる。この場合には、ステッセルを降伏させねばならない。
戦争の大局、日露戦争、特に旅順攻撃の戦略が、このドラマから、あまり見えてこないのである。
それにしても、二〇三高地の攻撃が、最後は突撃して白兵戦というのは……まあ、実際はそうだったのかもしれないが……その後、太平洋戦争での日本軍の戦いかたを思うと、これから先、日本の軍隊はどれぐらい進歩していたのかと思いたくなる。おそらく、軍事の専門家は、その後の第一世界大戦の塹壕戦や各種の新兵器(戦車、飛行機、潜水艦など)を使った戦術や作戦について、研究していたにはちがいないが、実際にどれぐらい役だったのだろうかとも思いたくなる。(軍事史の専門家は、また違う見方をするかとも思うけれど。)
少なくとも、二〇三高地確保の意味として、旅順湾の敵艦隊砲撃のため、そこを観測点として具体的に利用するところまでは、描いておくべきだったかと思う。二八サンチ榴弾砲の本来の使い方は、その射的距離と破壊力で、旅順港の艦船を攻撃することにあったはずだと思っている。これを、いつ、どのように準備したのかということも、出てきていなかった。二八サンチ砲を戦線に投入することの困難さについては、説明があったのだが。
日露戦争を通じて、日本軍は、圧倒的な砲弾の不足に困ることなっていた、ということもあった。十分な準備ができていなかったし、国内での生産能力もなかった。(もし、輸入することが可能だったとしても、どこの国からどう運んでくればいいのかという、大きな問題がある。アメリカは、中立的立場であったから、日本に軍備の供与はできなかったはずである。)
私はこれまで軍の司令官は、何よりも技術者であると思ってきたのだが、ここ数年、なんとなく考え方が変わってきた。軍を統率するものとして、いかに部下の兵卒の信頼を得ることができるか、人格的な側面が重要だと思うようになってきている。
この意味で、乃木希典、児玉源太郎、あるいは、東郷平八郎という人物をどのように描くかということは、いろいろと考えるところがある。
2025年2月12日記
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