『櫂』(3)「自立」2025-02-28

2025年2月28日 當山日出夫

『櫂』第三回 自立

原作の小説は、過去に二回ほど読んでいるのだが、喜和が最後にどうなったか、あまりはっきりと憶えていない。記憶に残っているのは、喜和は、その時代の価値観のなかで生きた、そうせざるを得なかった女性として、描かれていた、ということである。女性の自立ということは、むしろ、娘の綾子に引き継がれるテーマだったように思う。とはいえ、綾子が、自立することができるのは、結婚を経て、満州に渡り、艱難辛苦の末に日本に帰ってから、ということだった。そして、宮尾登美子が語るところと合わせれば、父親の残した記録を読み、その時代における人間の生き方について、自分なりの理解ができてから、と言っていいだろうか。

だが、ドラマとしては、これはこれでうまく作ってあると感じるところがある。岩伍の仕事を、ドラマにおいては、全否定はしていない。今日ではこういう評価はしないが、しかし、その時代にあって、ある種の役割を果たしていたことは確かである。

公娼制度に対しての議論は、実は、現代でも決着がついていない。制度を厳しくして取り締まれば、結局は、水面下の闇の商売が増えるだけのことにしかならない。ならば、現実的な判断として、公認したうえで、コントロールできるようにしておいた方がマシである。だが、これは、理想を掲げる人たちにとっては、容認しがたいことである。この堂々巡りの議論が、いまだに続いている。

日本で、タテマエ上、売春が否定されるのは、昭和33年のことになるが、実態としては、決して世の中から無くなったということではない。

ドラマの制作の都合なのかもしれないが、昭和の初期の農村の疲弊など、もうちょと具体的に描写があってもよかったかと思う。ただ貧乏が悪い、貧乏人を搾取しているだけ、と台詞で言うだけでなく、その生活のありさまの実態を描くことがあってもよかったのではないか。娘を身売りに出すしかないような、生活の実態がどんなものだったのか。このドラマの作られた時代なら、かろうじて記憶にとどめている人がいたかと思う。

貧乏が悪い、と岩伍は言っていたが、このドラマ背景にあったような形での貧困は、かなり後まで続いてきたことである。

日本が満州に進出して、(これも現地の人たちからすれば、侵略されて)、日本人が多く住むようになると、それに関連していろんなビジネスが移動する。そのなかに、妓楼などもふくまれていた。また、日常生活にかかわるいろんな職業の人たちが、ビジネスチャンスを見つけて、あるいは、日本から脱出して、渡っていったことになる。このあたりのことは、宮尾登美子の他の作品、『岩伍覚書』などに詳しく描かれていることになる。

ちょっと気になったこととしては、高知を舞台にしたドラマなのだが、料亭での宴席のシーンなどに、皿鉢料理が出てきていない。

それから、原作では、喜和は文字がほとんど読めない。かろうじて仮名が読める程度である。だから、「運命」とか「使命」とか漢字で書かれても、なんのことだか分からなかったはずである。このあたり、喜和のリテラシについて、はっきりと描いておくべきことだったかと思う。まあ、通知表の「甲」という漢字は分かったということ、始めて綾子に手紙を書いたということは、出てきていたけれど。

2025年2月27日記

ダークサイドミステリー「アメリカ秘史 笑顔に隠された陰謀 〜先住民オセージ族連続怪死事件〜」2025-02-28

2025年2月28日 當山日出夫

ダークサイドミステリー アメリカ秘史 笑顔に隠された陰謀 〜先住民オセージ族連続怪死事件〜

NHKで放送の番組だから、終わりのところで、人間のこころのうちにある善意の差別意識が問題なので……ということになっていたが、しかし、現実の世界では、理想的にはいかないということがある。具体的には、アフリカや南米などの先住民の人たちに対して、西欧の文明を押しつけるのはよくない、ということにはなるが、では、その人たちの教育や福祉、医療などについて、先進的なものは不要であると言いきることもできない。ざっくり言えばということになるが、文化の尊重ということと、文明の便利を手にするということは、そう簡単に両立できることではない。

アメリカ先住民の文化は、文字をもたない文化であったが、だから、その人たちが文字を学ぶことを抑制することは、正しいことなのだろうか。医療についても、同様である。近代的な医療システムを受け入れるということは、結果的には、その人びとの伝統的な人間観や死生観に影響を与えることになるはずである。

いろいろと思うことはあるが、アメリカの歴史において、白人優位の考え方があったことは確かであり、黒人や先住民の人たちが差別されてきたことも確かである。この歴史のなかで、アジア系の人びと(日系の移民とか、中国人とか)、ヨーロッパでも、アイルランド系とか、東欧系とか、さまざまな、問題があったにちがいない。それをひとくくりに、白人優位主義が悪いとするのではなく、細かに歴史の諸相を見ていく必要があるだろう。

そして、それは差別である……と指摘することは、現代では簡単なことではあるが、では、どうすればいいのか、となると具体案が難しい。女性に重たい荷物を持たせない優しさが差別というのなら、では、同じように重たい荷物を持つことがいいのか、とは簡単には言い切れないだろう。こういうことについては、さらにその一歩先のことを考えると、かなりややこしい問題がある。そのややこしい問題があることを分かった上で、その手前で、それは差別です、と言うだけにとどまるのは、私に言わせれば、きわめて悪質な偽善である。自分は差別について知っているという優越感の表明にはなるが、具体的にどのような行為や結果が求められるのか、どのような答えを出しても、それは差別です、とさらに言うだけのことになる。

2025年2月23日記

3か月でマスターする江戸時代「(8)なぜ立て続けに“改革”した?(2)松平定信〜水野忠邦」2025-02-28

2025年2月28日 當山日出夫

3か月でマスターする江戸時代 (8)なぜ立て続けに“改革”した?(2)松平定信〜水野忠邦

この回は、寛政の改革(松平定信)と天保の改革(水野忠邦)。見ていて、そういうことかなあ、と思っていたのだが、いろいろと思うこともある。

幕政の改革というと、貨幣経済の否定、贅沢禁止、農本主義……というようなことになるのだろうと思うのだが、どうして、凝りもせずに同じような失敗を繰り返したのか。おそらく、歴史学としては、こういう観点から考えるべきことのように思える。

幕府自身が、通貨を管理していたのだから(小判の製造流通は幕府の仕事であったはず)、世の中に貨幣が重要であるということは、認識していたにちがいない。また、いくら幕府の米倉にお米がたくさんあったとしても、それを換金しないと役に立たないことも分かっていたはず。(換金せずに、全部を武士が食べてしまう、ということはありえないだろう。)

では、なぜ、貨幣経済を押しとどめるような改革を考えたのだろうか。

贅沢禁止、思想統制、ということも、まあ、分からなくはないが、実効性のある社会の変革につながると、本気で思っていたのだろうか。個人的な趣味として、農村に住んで百姓仕事で自給自足的に暮らすというのなら分かるが、社会全体を昔にもどすことは、どう考えても不可能であることぐらい、理解できなかったのだろうか。

飢饉で荒廃した農村を立て直す、このことの重要性は分かる。現代的な視点かとは思うが、この場合には、年貢の減免、新田開発、新しい商品作物の開発、といったあたりが、まず思いうかぶところである。江戸に逃げてきた農民を、強制的に農村にもどしても、それでどうなるということではないはずである。

その一方で、考えることもある。

飢饉になって、地方の農村部から江戸に人口の流入があった……ということは、農村部では食べられないが、江戸に来ればなんとか食いつなぐことができた、その可能性が高かった、ということが認識されていたからだろう。それほど、江戸の食糧事情とか、職業事情は、良かったのだろうか。また、地方から江戸に来るまで、どうやって来たのだろうか。飲まず食わずで歩いて来たということなのだろうか。あるいは、この時代、土地から土地へと放浪することを可能にする、社会的な基盤があったと考えるべきなのだろうか。

飢饉になってまっさきに影響を受けるとすると、農村部よりも都市部であったかもしれないのだが、そうならなかった理由は何なのだろうか。

また、幕政の改革というが、これは、幕府の直轄地以外、各藩にまで、どのように影響することだったのだろうか。このあたりの具体的なことが分からないと、幕政の改革といっても、全国的にどうだったのか不明なままである。

思想としての農本主義ということはあっていいと思うが、一方で、商品経済のなかに生きているということも事実である。このことの認識と、幕藩体制における武士の支配層としての存在、これらを、江戸時代の人びとは……それぞれの階層や地域の違いはあるはずだが……どう思っていたのだろうか。こういうことを総合して考えないと、江戸時代のことは分からないのかなあ、という気がしている。

ところで、しばらく前、NHKで放送の「よみがえる新日本紀行」で、伊勢太神楽の旅芸人のことをあつかっていた。昭和50年ごろだったと思うが、旅に出て暮らす芸能の人びとのことであった。興味深かったのは、家の庭先で芸能を演じて、お米をもらう。そのお米が収入になる。このとき、お米をそのままあつめて故郷まで持って帰るということはなかったはずである。たぶん、どこかで換金してお金に換える、あるいは、それを郵便局とか銀行から送金する、ということがあったのだろうと思う。(残念ながら、テレビではここのところまで映していなかった)。しかし、ほんの数十年まえまでの日本で、お米を貨幣に準ずるものとしてあつかうことが可能であった社会的なシステムがあったことは、確かだろう。

米という穀物は、経済のタテマエであったと同時に、場合によっては、貨幣に準ずるあつかいをされる性格も持ち合わせていたことは、日本の歴史においてあったこととして考えなければならないかとも思う。

2025年2月27日記