3か月でマスターする江戸時代「(8)なぜ立て続けに“改革”した?(2)松平定信〜水野忠邦」 ― 2025-02-28
2025年2月28日 當山日出夫
3か月でマスターする江戸時代 (8)なぜ立て続けに“改革”した?(2)松平定信〜水野忠邦
この回は、寛政の改革(松平定信)と天保の改革(水野忠邦)。見ていて、そういうことかなあ、と思っていたのだが、いろいろと思うこともある。
幕政の改革というと、貨幣経済の否定、贅沢禁止、農本主義……というようなことになるのだろうと思うのだが、どうして、凝りもせずに同じような失敗を繰り返したのか。おそらく、歴史学としては、こういう観点から考えるべきことのように思える。
幕府自身が、通貨を管理していたのだから(小判の製造流通は幕府の仕事であったはず)、世の中に貨幣が重要であるということは、認識していたにちがいない。また、いくら幕府の米倉にお米がたくさんあったとしても、それを換金しないと役に立たないことも分かっていたはず。(換金せずに、全部を武士が食べてしまう、ということはありえないだろう。)
では、なぜ、貨幣経済を押しとどめるような改革を考えたのだろうか。
贅沢禁止、思想統制、ということも、まあ、分からなくはないが、実効性のある社会の変革につながると、本気で思っていたのだろうか。個人的な趣味として、農村に住んで百姓仕事で自給自足的に暮らすというのなら分かるが、社会全体を昔にもどすことは、どう考えても不可能であることぐらい、理解できなかったのだろうか。
飢饉で荒廃した農村を立て直す、このことの重要性は分かる。現代的な視点かとは思うが、この場合には、年貢の減免、新田開発、新しい商品作物の開発、といったあたりが、まず思いうかぶところである。江戸に逃げてきた農民を、強制的に農村にもどしても、それでどうなるということではないはずである。
その一方で、考えることもある。
飢饉になって、地方の農村部から江戸に人口の流入があった……ということは、農村部では食べられないが、江戸に来ればなんとか食いつなぐことができた、その可能性が高かった、ということが認識されていたからだろう。それほど、江戸の食糧事情とか、職業事情は、良かったのだろうか。また、地方から江戸に来るまで、どうやって来たのだろうか。飲まず食わずで歩いて来たということなのだろうか。あるいは、この時代、土地から土地へと放浪することを可能にする、社会的な基盤があったと考えるべきなのだろうか。
飢饉になってまっさきに影響を受けるとすると、農村部よりも都市部であったかもしれないのだが、そうならなかった理由は何なのだろうか。
また、幕政の改革というが、これは、幕府の直轄地以外、各藩にまで、どのように影響することだったのだろうか。このあたりの具体的なことが分からないと、幕政の改革といっても、全国的にどうだったのか不明なままである。
思想としての農本主義ということはあっていいと思うが、一方で、商品経済のなかに生きているということも事実である。このことの認識と、幕藩体制における武士の支配層としての存在、これらを、江戸時代の人びとは……それぞれの階層や地域の違いはあるはずだが……どう思っていたのだろうか。こういうことを総合して考えないと、江戸時代のことは分からないのかなあ、という気がしている。
ところで、しばらく前、NHKで放送の「よみがえる新日本紀行」で、伊勢太神楽の旅芸人のことをあつかっていた。昭和50年ごろだったと思うが、旅に出て暮らす芸能の人びとのことであった。興味深かったのは、家の庭先で芸能を演じて、お米をもらう。そのお米が収入になる。このとき、お米をそのままあつめて故郷まで持って帰るということはなかったはずである。たぶん、どこかで換金してお金に換える、あるいは、それを郵便局とか銀行から送金する、ということがあったのだろうと思う。(残念ながら、テレビではここのところまで映していなかった)。しかし、ほんの数十年まえまでの日本で、お米を貨幣に準ずるものとしてあつかうことが可能であった社会的なシステムがあったことは、確かだろう。
米という穀物は、経済のタテマエであったと同時に、場合によっては、貨幣に準ずるあつかいをされる性格も持ち合わせていたことは、日本の歴史においてあったこととして考えなければならないかとも思う。
2025年2月27日記
3か月でマスターする江戸時代 (8)なぜ立て続けに“改革”した?(2)松平定信〜水野忠邦
この回は、寛政の改革(松平定信)と天保の改革(水野忠邦)。見ていて、そういうことかなあ、と思っていたのだが、いろいろと思うこともある。
幕政の改革というと、貨幣経済の否定、贅沢禁止、農本主義……というようなことになるのだろうと思うのだが、どうして、凝りもせずに同じような失敗を繰り返したのか。おそらく、歴史学としては、こういう観点から考えるべきことのように思える。
幕府自身が、通貨を管理していたのだから(小判の製造流通は幕府の仕事であったはず)、世の中に貨幣が重要であるということは、認識していたにちがいない。また、いくら幕府の米倉にお米がたくさんあったとしても、それを換金しないと役に立たないことも分かっていたはず。(換金せずに、全部を武士が食べてしまう、ということはありえないだろう。)
では、なぜ、貨幣経済を押しとどめるような改革を考えたのだろうか。
贅沢禁止、思想統制、ということも、まあ、分からなくはないが、実効性のある社会の変革につながると、本気で思っていたのだろうか。個人的な趣味として、農村に住んで百姓仕事で自給自足的に暮らすというのなら分かるが、社会全体を昔にもどすことは、どう考えても不可能であることぐらい、理解できなかったのだろうか。
飢饉で荒廃した農村を立て直す、このことの重要性は分かる。現代的な視点かとは思うが、この場合には、年貢の減免、新田開発、新しい商品作物の開発、といったあたりが、まず思いうかぶところである。江戸に逃げてきた農民を、強制的に農村にもどしても、それでどうなるということではないはずである。
その一方で、考えることもある。
飢饉になって、地方の農村部から江戸に人口の流入があった……ということは、農村部では食べられないが、江戸に来ればなんとか食いつなぐことができた、その可能性が高かった、ということが認識されていたからだろう。それほど、江戸の食糧事情とか、職業事情は、良かったのだろうか。また、地方から江戸に来るまで、どうやって来たのだろうか。飲まず食わずで歩いて来たということなのだろうか。あるいは、この時代、土地から土地へと放浪することを可能にする、社会的な基盤があったと考えるべきなのだろうか。
飢饉になってまっさきに影響を受けるとすると、農村部よりも都市部であったかもしれないのだが、そうならなかった理由は何なのだろうか。
また、幕政の改革というが、これは、幕府の直轄地以外、各藩にまで、どのように影響することだったのだろうか。このあたりの具体的なことが分からないと、幕政の改革といっても、全国的にどうだったのか不明なままである。
思想としての農本主義ということはあっていいと思うが、一方で、商品経済のなかに生きているということも事実である。このことの認識と、幕藩体制における武士の支配層としての存在、これらを、江戸時代の人びとは……それぞれの階層や地域の違いはあるはずだが……どう思っていたのだろうか。こういうことを総合して考えないと、江戸時代のことは分からないのかなあ、という気がしている。
ところで、しばらく前、NHKで放送の「よみがえる新日本紀行」で、伊勢太神楽の旅芸人のことをあつかっていた。昭和50年ごろだったと思うが、旅に出て暮らす芸能の人びとのことであった。興味深かったのは、家の庭先で芸能を演じて、お米をもらう。そのお米が収入になる。このとき、お米をそのままあつめて故郷まで持って帰るということはなかったはずである。たぶん、どこかで換金してお金に換える、あるいは、それを郵便局とか銀行から送金する、ということがあったのだろうと思う。(残念ながら、テレビではここのところまで映していなかった)。しかし、ほんの数十年まえまでの日本で、お米を貨幣に準ずるものとしてあつかうことが可能であった社会的なシステムがあったことは、確かだろう。
米という穀物は、経済のタテマエであったと同時に、場合によっては、貨幣に準ずるあつかいをされる性格も持ち合わせていたことは、日本の歴史においてあったこととして考えなければならないかとも思う。
2025年2月27日記
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