よみがえる新日本紀行「アメリカ村ー和歌山県美浜町三尾ー」 ― 2025-05-10
2025年5月10日 當山日出夫
よみがえる新日本紀行「アメリカ村ー和歌山県美浜町三尾ー」
再放送である。2019年。オリジナルは、昭和49年(1974)。
昭和49年(1974)というと、私が、高校を出て大学生になったころである。
日本から多くの人びとが移民として海外にわたっていたことは知っていることであり、それが、おおくの場合、特定の地域に集中していることも、一応知ってはいたことではある。海外への移民という場合、時代によっては、満州などへ行くこともあった。
和歌山県のこの町のことは知らなかった。和歌山から多くの移民が海外にわたったことは、知っていたことではあったが。美浜町の三尾の地域から、多くの人びとがカナダに行っていた。しかし、なぜだか、バス停の名前は、アメリカ村、ということになり、それが今に続いている。
古くから、この地域の人びとは、女性は大阪に行儀見習いで奉公に行って帰ってきて、それから嫁にいく、という習慣だったらしい。このような、地方の農村部の女性が、都市部に行儀見習いの奉公に出るという習わしは、いつごろまで、どのようにおこなわれていたことなのだろうか。おそらくは、都市部の商家などの労働力の問題でもあったはずである。
なぜ、この地域からカナダに集中的に移民ということになったのか、その理由につては、語られていなかった。しかし、この地域からカナダに行くのは、大阪に行くのと同じぐらいの感覚であったことは、たしかなことである。
カナダに行って久しぶりに帰って来た人と、地元の人との会話が、言語学的には面白い。英語と日本語、入り交じった会話になっている。日本にいた人は日本語で話し、カナダにいた人は英語で話している。
また、神社に奉納する豆を数えるシーン。数字(年齢)を英語で言っていた。数をあらわすことばというのは、言語のなかでも基本的な語彙になるだろうから、容易に外国語に置き換わることはないかと思っているのだが、ここでは年齢を英語で言っていた。カナダで生活して、生活のなかの基本的なことばだから、英語の方がすぐに出てくることばということになるのだろう。
見合い結婚ということで、結婚相手のいるカナダにわたった女性。現地につくまで顔も知らなかった。こういう時代であったことになる。(写真結婚、というようなことが移民については言われることがあるが、この場合、写真もなかったことになる。)この女性の話のなかで、いんじ部屋、と言っていたが、いったい何なのだろうか。検索しても出てこない。文脈的には、おそらく娼婦、または、賭博などを意味しているとおぼしいのだが、こういうことは、どれぐらい記録や伝承として残っていることなのだろうか。
今では、かつてのように、外国に移民ということはなくなっているようである。その昔、近代になって、外国(アメリカやカナダや南米の国々など)に移民としてわたっていた人たちは、日本という祖国のことをどう思っていたのだろうか。日本という国家への帰属意識というものが、それほど確固たるものではなかったから、移民ということにふみきれたのかもしれないとは思うところである。
2025年5月8日記
よみがえる新日本紀行「アメリカ村ー和歌山県美浜町三尾ー」
再放送である。2019年。オリジナルは、昭和49年(1974)。
昭和49年(1974)というと、私が、高校を出て大学生になったころである。
日本から多くの人びとが移民として海外にわたっていたことは知っていることであり、それが、おおくの場合、特定の地域に集中していることも、一応知ってはいたことではある。海外への移民という場合、時代によっては、満州などへ行くこともあった。
和歌山県のこの町のことは知らなかった。和歌山から多くの移民が海外にわたったことは、知っていたことではあったが。美浜町の三尾の地域から、多くの人びとがカナダに行っていた。しかし、なぜだか、バス停の名前は、アメリカ村、ということになり、それが今に続いている。
古くから、この地域の人びとは、女性は大阪に行儀見習いで奉公に行って帰ってきて、それから嫁にいく、という習慣だったらしい。このような、地方の農村部の女性が、都市部に行儀見習いの奉公に出るという習わしは、いつごろまで、どのようにおこなわれていたことなのだろうか。おそらくは、都市部の商家などの労働力の問題でもあったはずである。
なぜ、この地域からカナダに集中的に移民ということになったのか、その理由につては、語られていなかった。しかし、この地域からカナダに行くのは、大阪に行くのと同じぐらいの感覚であったことは、たしかなことである。
カナダに行って久しぶりに帰って来た人と、地元の人との会話が、言語学的には面白い。英語と日本語、入り交じった会話になっている。日本にいた人は日本語で話し、カナダにいた人は英語で話している。
また、神社に奉納する豆を数えるシーン。数字(年齢)を英語で言っていた。数をあらわすことばというのは、言語のなかでも基本的な語彙になるだろうから、容易に外国語に置き換わることはないかと思っているのだが、ここでは年齢を英語で言っていた。カナダで生活して、生活のなかの基本的なことばだから、英語の方がすぐに出てくることばということになるのだろう。
見合い結婚ということで、結婚相手のいるカナダにわたった女性。現地につくまで顔も知らなかった。こういう時代であったことになる。(写真結婚、というようなことが移民については言われることがあるが、この場合、写真もなかったことになる。)この女性の話のなかで、いんじ部屋、と言っていたが、いったい何なのだろうか。検索しても出てこない。文脈的には、おそらく娼婦、または、賭博などを意味しているとおぼしいのだが、こういうことは、どれぐらい記録や伝承として残っていることなのだろうか。
今では、かつてのように、外国に移民ということはなくなっているようである。その昔、近代になって、外国(アメリカやカナダや南米の国々など)に移民としてわたっていた人たちは、日本という祖国のことをどう思っていたのだろうか。日本という国家への帰属意識というものが、それほど確固たるものではなかったから、移民ということにふみきれたのかもしれないとは思うところである。
2025年5月8日記
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