『女の一生』モーパッサン2017-09-11

2017-09-11 當山日出夫(とうやまひでお)

モーパッサン.新庄嘉章(訳).『女の一生』(新潮文庫).新潮社.1951(2012.改版)
http://www.shinchosha.co.jp/book/201401/

世界の古典文学の再読。『女の一生』である。

なんとも愚かな女性の一生であることよ、これが偽らざる率直な読後感である。その哀れな一人の女性の一生が、19世紀フランス自然主義文学として描かれている。

読んで感じたことを書けば、次の二点になるだろうか。

第一は、自然描写のうまさである。主人公(ジャンヌ)によりそいながら、この小説は語られるのであるが、随所に、自然、風景の描写がさしはさんである。これが、読んでいると実に効果的である。そのときの登場人物の心情のうごきを、風景描写でもしめしている。

近代の小説における「風景」の発見というのは、これはこれで面白い課題だと思う。(たぶん、これについて論じたものはあるのだろうと思う。私が知らないだけで。)

たぶん、近代文学……世界の……のなかで、風景描写を作中に効果的に用いた、かなり典型的な事例になるのだろうと思って読んでみた。

第二は、やはり最後の一文であろう。若い時に読んだ印象では、こんなものかと思った。しかし、この年……もう還暦をすぎた……になって、この小説を読んでみると、まあ、こんな人生もあるんだろうなあ、という気持ちになる、そして、最後の一文に、なるほどそうだよな、と同感してしまう。

おそらく、この本を何歳ぐらいで読むかによって、最後の一文に共感する、しない、の違いがでてくるにちがいない。

読後感としては、ざっと以上の二点になる。

この本、半世紀以上も前の訳文であるが、古さを感じさせない。これは、おそらくは、原文のもっている、近代的な文章、フランス語文によるところが、大きいのではないだろうか。非常に明晰な、輪郭のはっきりした、そして、平易な文章である。

若い時にはそれなりの、また、年取ってからはそれなりの、読み方、印象のある作品だと思う。

『おんな城主直虎』あれこれ「井伊最後の日」2017-09-12

2017-09-12 當山日出夫

『おんな城主直虎』第36回、「井伊最後の日」
http://www.nhk.or.jp/naotora/story/story36/

前回は、
やまもも書斎記 2017年9月5日
『おんな城主直虎』あれこれ「蘇えりし者たち」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/09/05/8670592

ここにきて、井伊のイエはどうなるのだろう……ただ、今の我々は歴史の結果を知っているのではある。井伊のイエは残る。

直虎は、井伊のイエの再興を断念した。そして、もはや、故郷である井伊谷の土地に対するパトリオティズム(愛郷心)は、微塵も出てきていなかった。このドラマのはじままったこと、牧歌的でのどかな山間の村々として、井伊谷の村落や、そこに生活している人びとのことが描かれていたのが、嘘のようである。

そして、直虎は、この週の最後のシーンでは、還俗して、龍雲丸と新しく生活をはじめるということになっていた。これは、予想外の展開である。であるならば、今後の井伊のイエは、どうなるのか。まだ、幼い虎松にかかているということなのであろうか。

ところで、この週まで見てきて、思ったことであるが……龍譚寺という寺、そこにいるネコ和尚や僧侶たち……これらの存在が、このドラマにとってきわめて重要な意味をもっていることを感じる。

寺であるから、武家ではない。しかし、井伊のイエの菩提寺であり、いわば井伊のイエの一族を構成するひとつといってもよい。武家ではないが、井伊の一族であるというネコ和尚たちの存在、このような、武家でも農民でない、また、放浪の民、自由民でもない、このようなネコ和尚がいたからこそ、おとわは次郎になり、直虎になった。そして、また、その立場から降りるときも、ネコ和尚が手をかしていた。

純然たる僧侶(出家)でもないし、武家でもないし、商人でもないし、百姓でもない……このような立場にあるネコ和尚が、実は井伊の一族を、とりまとめてきたのである。これは、従来の戦国、中世を舞台としたドラマとしては、きわめて特殊な事例といえるかもしれない。(そういえば、前作『真田丸』では、大蔵卿局という存在が大きかった。)

しかし、還俗した直虎(おとわ)の社会的立場は何なのであろうか。武家ではもはやない。龍雲丸と一緒にいるといっても自由の民でもないようだ。農業に従事するということは、どこかの領主のもとにあるということなのだろうか。

このあたり、戦国、忠誠における、武家でも百姓でもない自由の民という視点を、今後、どのように描いていくか気になるところである。そして、井伊のイエのゆくすえは、虎松にかかっていることになる。また、徳川とどのような関係をこれから築いていくかも重要なポイントになるのだろう。

井伊のイエをまもる、再興するというエトスは、おそらく虎松が受け継いでいくことになるのであろう。

追記 2017-09-19
この続きは、
やまもも書斎記 2017年9月19日
『おんな城主直虎』あれこれ「武田が来たりて火を放つ」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/09/19/8679581

庭のキノコ2017-09-13

2017-09-13 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日は花の写真の日であるが、今日はキノコ。

ここしばらくの間に、庭でいくつかのキノコをみつけた。写真にはとってみたのだが、どの種類と名前がわかるわけではない。キノコの図鑑が、無いわけではないのだが、その特定は難しい。

見ていると、寿命は短い。数日のうちに、枯れてしぼんでしまう。というかなくなってしまう。はかないものである。

名前がわかれば、そして、その生態についての知識があれば、見ていてももっと楽しめるのだろうが、残念ながらその知識がない。かといって、今から勉強して、キノコの分類にまで手を出そうという気にもならない。せいぜい、目にとまったものを写真に撮るぐらいである。

だが、身の周りの草花を写真に撮るようになってから、このようなキノコにも目がいくようになった。名前は分からないとしても、写真には撮って、それなりに楽しめる。

キノコ


キノコ


キノコ

Nikon D7500
AF-S DX NIKKOR 16-80mm f/2.8-4E ED VR
AF-S DX Micro NIKKOR 85mm f/3.5G ED VR

『モーパッサン短篇選』岩波文庫2017-09-14

2017-09-14 當山日出夫(とうやまひでお)

モーパッサン.高山鉄男(編訳).『モーパッサン短篇選』(岩波文庫).岩波書店.2002
https://www.iwanami.co.jp/book/b248032.html

モーパッサンの短篇は、若い時にいくつか読んだ記憶があるのだが……きちんと読み直してみたくなって買ってみた。『女の一生』を読んだ次に読む本として。

まさに短篇の名手である。どの作品も、とにかくうまい。

冒頭の作品『水の上』などは、読んだ最後に怖くなる。おそらく、世界の文学のなかから怖い作品を選ぶならば、必ずはいるのではないか。

それから、『女の一生』でも感じたことだが、自然描写がいい。『山の宿』の冬山の自然描写など、素晴らしい。モーパッサンの作品は、自然描写とストーリーが密接にからまっている。うまくとけこんでいる。

また、いうまでもなく、するどい人間観察の目。それに、ストーリーの展開。見事な結末。語りのうまさ。どの作品ももうしぶんない。文学を読む楽しみがあるとすれば、このような作品を読む時間こそが価するといっていいだろう。

今になってこういう作品を読むと、これはもっと若い時に読んでもよかったかな、という気持ちになる。若い頃、19世紀フランス自然主義文学……というだけで、通り過ぎてしまっていたところがある。

ともあれ、人生のこの時期……還暦をすぎた……になって、このような本を読んですごす時間があるというのは、幸せなことなのであろうと思う。仕事、締切におわれるわけでもない。まあ、学校の授業の準備などもあるが、それもさしせまったものでもない。ここしばらくは、若い時に読みそびれていた本、昔読んだ本の再読……ドストエフスキーの作品をまとめて読み返そうと思っている……ということで時間をつかいたいと思う。

追記 2017-09-15
この続きは、
やまもも書斎記 2017年9月15日
『モーパッサン短篇選』(岩波文庫)(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/09/15/8677096

『モーパッサン短篇選』(岩波文庫)(その二)2017-09-15

2017-09-15 當山日出夫(とうやまひでお)

つづきである。
やまもも書斎記 2017年9月14日
『モーパッサン短篇選』(岩波文庫)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/09/14/8676530

岩波文庫版の解説(高山鉄男)を読んで、これは重要かなと思った点についていささか。

第一は、モーパッサンの短篇小説は、日刊新聞に発表されたものであるとのこと。これは、メディアと文学の関係を見るうえで重要だろう。

引用しておくと、

「モーパッサンの短篇は、おおむね日刊新聞に発表された。(中略)モーパッサンは、これらの新聞にほとんど毎週のように短編小説や、いわゆる時評(クロニック)を発表した。当時の新聞は、現在と異なり、第一面に有名な文学者の短篇や時評を載せたもので、どの新聞も、魅力的な短文の書ける文学者を何人もかかえていた。モーパッサンもそういう有能なジャーナリストの一人だったのである。」(pp.281-282)

今の我々は、編集された書物(短編小説集)として読んでいるが、もとは日刊の新聞に掲載されたものであった。これは、重要なポイントだろう。だからこそ、個々の作品において、小説のうまさが必要とされる。

第二は、岩波文庫版を読みながら気付いた点だが、語り手がいることの指摘。

「モーパッサンの短篇のもう一つの特色は、しばしば語り手がいて、この語り手の存在や、物語がなされた場所が、小説の雰囲気づくりに役だっていることである。」(p.282)

そういわれてみると、絵の額縁のように、語り手が登場して語りはじめる、というスタイルの作品が多い。そして、その語り手の存在が効果的に用いられている。

以上の二点が、モーパッサンの短篇について、岩波文庫版の解説で、留意しておくべき点かと思ったところである。

モーパッサンの短篇集は、翻訳では、岩波文庫版の他に、新潮文庫版(三冊)が出ている。これも、読もうかと思っている。いや、読んでおきたい。が、とりあえず、今は、ドストエフスキーの長編小説を、まとめて読み直しているところ。『罪と罰』は読んだ。今は『白痴』を読んでいる。後期の授業が始まるまでに、『悪霊』とか『カラマーゾフの兄弟』とか、再読しておきたい。

自分の日常のなかで、文学を読む時間がようやく取れるようになったかな、と思うこのごろである。書いておきたい論文のテーマなどもあるのだが、いそぐことではないので、今のところは、じっくりと本を読む時間をすごしたい。

文学を読む時間を持てる生活というのは、現代においては、ある意味で贅沢な環境かもしれない。強いて忙しくすることもない。時間のとれるかぎりは、ゆっくりと読書に時間をつかいたいものである。

読書の時間があってこその人文学だとも思う次第である。

『脂肪のかたまり』モーパッサン2017-09-16

2017-09-16 當山日出夫(とうやまひでお)

モーパッサン.高山鉄男(訳).『脂肪のかたまり』(岩波文庫).岩波書店.2004
https://www.iwanami.co.jp/book/b248022.html

モーパッサンの小説を読んでいる。今回は『脂肪のかたまり』。これも、いろいろ訳が出ているようだが、岩波文庫版の新しいので読むことにした。

この作品、若いころに読んだかどうか、記憶がさだかではない。手当たり次第に乱読していった中にあったような気もする。が、まあ、憶えていないので、新しい本ではじめて読むと思って読んでみた。

時代背景……普仏戦争……を理解するためには、解説から読んでおいた方がいい。私のこのあたりの知識は、高校の時に習った世界史の授業の範囲をでるものではないので、このあたりについて、詳しく解説してあるのはありがたい。

『女の一生』や、短編小説集を読んでも感じたとであるが、風景、自然の描写と、その中でおこる人間ドラマが、実に興味深い。というよりも、風景、自然が、そのドラマの背景として、効果的に、印象的に描かれている。

そして、人間の観察のするどさ。人間のエゴイズム。だが、それを、なんとなくユーモアのある筆致でえがく見事さ。解説によると、モーパッサンは、この作品で世に出たということらしいが、それもうなづける。

小説という形式でもって人間を描く……このことに、最も成功している作家のひとりにちがいない。そして、小説という文学の形式がこれからも読まれ続けていくならば、モーパッサンの作品も、傑作として読まれ続けていくにちがいないと思う。

『ひよっこ』あれこれ「真っ赤なハートを君に」2017-09-17

2017-09-17 當山日出夫(とうやまひでお)

ひよっこ
http://www.nhk.or.jp/hiyokko/index.html

第24週「真っ赤なハートを君に」
http://www.nhk.or.jp/hiyokko/story/24/

今週は、時子の週だったといってよい。前回で、このドラマは「教養小説」である、という意味のことを書いた。地方から東京に出てきて働いている「普通」の女の子の成長の物語である。

時子も、みね子と一緒に奥茨城から出てきた。同じトランジスタラジオの工場(向島電機)で働いた。だが、時子には、東京に出るときから、夢があった。女優になる、という夢が。

その夢をかなえるため、ツイッギーのコンテストに出場する。それを、すずふり亭、あかね荘のみんなで応援している。コンテストの前日には、裏庭でリハーサルをやっていた。そして、時子は、無事にコンテストに優勝して、芸能界へと歩み出していく。

まさに、自分の夢をかなえる女性……朝ドラの一般的な話し、その王道をいっている感じがする。みね子には、特に何をかなえるという夢があるというわけでもない、「普通」の女の子として描いているのと、きわめて対照的である。

そして、別に、みね子と時子はライバルというわけではない。同じ奥茨城から出てきた親友である。(悪い人、敵役の出てこないこのドラマとしては、こういう描き方になるのであろう。)

この時子の描き方を見ていても、このドラマは、「教養小説」なのだな、という印象を強くもつ。女優にむかって成長していく若い女性の物語である。

その一方で、みね子の方も、ヒデとどうやらうまくいきそうである。

この週、特にみね子の背負っている不条理……父親の記憶喪失ということ……については、進展はなかった。このまま、父親の記憶がもどらないままで、奥茨城で生活していく、という道も選択肢としてはあるのかもしれない。

だが、最後にどうなるかわからない。ここは期待をもって見ることにしよう。

ところで、ドラマも終盤になって、これまでに登場した幾人かが、出てきていた。土曜日には、向島電機の社員だった松下が、電機工事の仕事で登場していた。また、時子のリハーサルの時には、豊子や澄子なども集まっていた。

さて、気になるのは、早苗の月時計での話しの行方である。みね子と世津子が一緒の部屋でくらすことの提案。そして、自分の恋の話しをはじめる……ここも、うまくおさめるかたちで、このドラマは終わることになるのだろうとは思う。

この早苗という、ちょっと距離をおいて周囲を眺める視点の存在を取り込むことによって、すずふり亭やあかね荘の人間関係を、俯瞰的に描き出している。この早苗という人物の視点の設定が、このドラマの脚本のうまいところでもあると思ってみている。ナレーションの視点でもなく、ドラマ作者の神の視点でもなく、登場人物の中のひとりでありながら、全体から距離をおいて見てみる。

脚本作者の視点、ナレーションの語りの視点、登場人物の視点、これらではない、さらに別の視点を、このドラマに設定していることになる。そう思ってみると、あかね荘を舞台にしては、早苗の視点からの発言で、ドラマが動く、新しい局面へと展開していく、ということがあったように思い出す。

大家さんも、さすが妖怪である。なかなか死にそうもない。たぶん、最後まで元気でいるにちがいない。

国語語彙史研究会に行ってきた2017-09-18

2017-09-18 當山日出夫(とうやまひでお)

16日は、関西大学で、国語語彙史研究会。台風の影響で雨が降っていたが、行ってきた。

総じて感想をのべれば、レベルの高い研究会であると思う。まあ、発表した人たちは、それなりに研究者としてのキャリアのある人であるから、それも当然であるが。

ともあれ、私として関心を持ってきいていたのは……ことばを学問的にあつかう方法論について。いろんな研究分野、研究対象、また、それに応じて研究方法がある。だが、どのような研究をするにしても、基本的に守らなければならない、ふまえておかねばならない、基本的手続きというものがある。

今回の発表(三件)は、部分的には問題がないわけではないだろうが、おおむね基本的な方法論にしたがっていたと思う。私としては、結果としてその発表で何が言われているかもあるが、それよりも、そのことをいうために、どのような学問的な手続きをふまえているか、ということが勉強になったと思っている。

懇親会に出て、だいたい毎回同じようなメンバーとすごす。で、時間が早かったので……それから、翌日(17日)の表記研究会が中止ということだったので……二次会に。

大学の近くの、ちょっとおしゃれな感じのお店。関大の先生の知っている店とのことで、悪くはなかった。(このあたりも、お店の栄枯盛衰ははげしいらしい。行った店も、新しく出来たところとのこと。)

いろいろ雑談して、帰った。帰って、メールを確認してみると、17日の表記研究会は中止にする旨の連絡がはいっていた。賢明な判断だったと思う。大阪に暴風警報がでているような状態になったから、開催は無理ということになったであろう。

私の専門としては、あまり語彙には関係ないのであるけれども、主に、文献資料をつかって、ことば(日本語)を歴史的に研究するということで、この研究会は、いろいろ勉強になるところがある。次回は、12月である。たぶん、これも出席することになるかと思っている。

『おんな城主直虎』あれこれ「武田が来たりて火を放つ」2017-09-19

2017-09-19 當山日出夫(とうやまひでお)

『おんな城主直虎』2017年9月18日、第37回「武田が来たりて火を放つ」
http://www.nhk.or.jp/naotora/story/story37/

前回は、
やまもも書斎記 2017年9月12日
『おんな城主直虎』あれこれ「井伊最後の日」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/09/12/8675259

今の我々は、この歴史の結果を知っている。井伊のイエは、徳川のもとにつくことになる。だが、そこにいたる経緯は、そう単純ではないようだ。

気になったのは、直虎(おとわ)の身分。武家として、井伊の領主であったものが、一般の領民とすぐに同じになれるものだろうか。領民と同じということは、井伊谷において、そこの支配者(このドラマの時点では、近藤ということになるが)の、支配下に入ることになるのだろうか。

いや、そうではなく、龍雲丸と一緒に自由に生活しているように見える。年貢とかは、納める必要はないのであろうか。

そこで、やはり気にかかるのは、百姓=農耕民(この場合は、綿の生産などもふくむことになるが)、として描かれていることだろう。百姓たちの、領主への抵抗の手段として、逃散ということがあった。

だが、ここは、浜名湖の近くなのであるから、漁業とか、商業でくらすタイプの「百姓」がもっと登場してきていてもいいのではないかと思う。せっかく、百姓=農民というステレオタイプから脱した新鮮な、中世、戦国の人びとを描くことができたのにと思う。

興味深かったのは、高瀬の存在。いったい何者なのであろうか。直親の忘れ形見というのは、本当のことなのだろうか。

それから、龍譚寺という存在は、いったい何なのであろうか。ただの寺ではない。井伊の一族の菩提寺ということであるが、それにとどまらず、武家としての井伊をささえる一翼を担っているような感じがある。中世、戦国における、寺社の位置づけという意味で、この寺の存在は、何かしら不気味ですらある。

今回は、虎松が登場してきていなかった。また、ネコも。

次週、直虎(おとわ)は、堺に行くことになるのだろうか。行けば行ったで、これは、面白い展開になるにちがいない。直虎(おとわ)の生き方と、井伊の家のゆくえ、これがこれからの見どころになるのであろう。

追記 2017-09-26
この続きは、
やまもも書斎記 2017年9月26日
『おんな城主直虎』あれこれ「井伊を共に去りぬ」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/09/26/8684051

雨の光景2017-09-20

2017-09-20 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日なので、花の写真。といっても、今回は、葉っぱと雨のしずくである。

夏が終わって、秋雨のシーズンである。雨が降った日は、外に出て写真を撮ることはない。が、雨のやんだ後とか、やみまをみて、庭の木々を見てみる。

雨の日には、雨の日ならではの光景がみられる。庭の木の葉っぱや実についた水滴など、接写で撮ってみると、普段とはちがった印象がある。雨の日には、雨の日なりの写真の楽しみがあるとすべきなのであろう。

カエデ


ジンチョウゲ


マンリョウ

Nikon D7500
AF-S DX Micro NIKKOR 85mm f/3.5G ED VR