『背教者ユリアヌス』(三)辻邦生2018-04-16

2018-04-16 當山日出夫(とうやまひでお)

背教者ユリアヌス(三)

辻邦生.『背教者ユリアヌス』(三)(中公文庫).中央公論新社.2018
http://www.chuko.co.jp/bunko/2018/02/206541.html

続きである。
やまもも書斎記 2018年4月14日
『背教者ユリアヌス』(二)辻邦生
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/04/14/8826026

第三巻では、ユリアヌスが副帝としてガリア地方に赴く。その統治に成功するのだが、その勢いで、ガリアの反乱をまねくことになる。結果的に、ユリアヌスは、ガリア地方をひきいて、皇帝に対して反乱を起こすことになる。

この第三巻まで読んだ印象は、まさに古代ローマの物語世界にひたることのできる作品であるということ……それも、波瀾万丈の活劇でありながら、それを叙述する筆致は、あくまでも静謐で冷静である。理性的な文章である。

ユリアヌスにとって、ローマは理想である。ユリアヌスは、次のように思う。

「「人間は永遠に未完成のものかも知れぬ。永遠に完成に向って走りつづけるものかも知れぬ。だが、それは走っているのだ。そのことが肝心なのだ。」/ひょっとしたらローマは光ではなく、光であろうとする意思であり、こうして北風に吹かれて行軍していること自体、そうした光であることへ向っての疾走であるかも知れぬ。おそらくそうした意思を放棄しない以上、ローマは光となるのかも知れぬ――ユリアヌスは口を強く結ぶと、視線をもう一度河向うの黒々とつづく森へむけた。」(p.309)

辻邦生の作品の登場人物は、芸術至上主義的である。理想主義といってもいいだろう。だが、辻邦生が描く人物たちが、魅力的なのは、ただ、理想の実在を信じているというのではなく、その理想に向かっていく強靱な意志の力を見せているところにある。ただ、目標としてあるものとしての理想ではなく、その理想に向かってつきすすむ意思の力こそが重要なのである。

私は、このようなところに辻邦生の作品の本質があると思っている。実在するものとしての理想ではなく、それに向かっていく人間の意思の方に、重きをおいている。いや、その意思こそが、理想を理想たらしめている原動力なのである。

理想に向かって進む人間の意思の文学……辻邦生の作品は、このようにとらえることができようか。

次は、最終巻(四冊目)である。楽しみに読むことにしよう。

以前に、この作品を読んだのは、四十年以上も前のことになる。高校生のころだった。もう、何が書いて会ったか忘れている。しかし、今、ここで読み返してみて感じることは、この作品が、理想に向かってく意思を描いた作品であるということ。若い日の私が、この作品に読みとっていたのは、これであったと思い出す。それが、この小説のラストのシーンに重なって思い出される。

追記 2018-04-20
この続きは、
やまもも書斎記 2018年4月20日
『背教者ユリアヌス』(四)辻邦生
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/04/20/8829727