『なつぞら』あれこれ「なつよ、これが青春だ」2019-04-21

2019-04-21 當山日出夫(とうやまひでお)

『なつぞら』第3週「なつよ、これが青春だ」
https://www.nhk.or.jp/natsuzora/story/03/

前回は、
やまもも書斎記 2019年4月14日
『なつぞら』あれこれ「なつよ、夢の扉を開け」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/04/14/9059453

もうこのままで、十勝酪農物語で話しが進行してもいいような気がしてきている。

農業高校に通うなつ、その友達、それから家族。なつは柴田家のなかで、家族の一員として生活している。はじめ、なつが柴田家にやってきたころ、「あかの他人」と言われていたことを思い出してしまう。

この週で興味深かったのは、やはり、じいさん(泰樹)であろう。農協への協力を拒否する。これは、開拓者の一世としてこの十勝の土地で牧場を切り拓いてきた矜恃の結果である。

実際のところは、天陽君の家の苦労の事情もよくわかっている。だが、なかなか素直にそう言えないというのが、この頑固じいさんの人間味とでもいえるだろうか。一人で饅頭をたべながら、お茶が欲しいと言っていたシーンは印象的であった。

なつの高校での生活は充実しているようだ。いろいろあってのことだが、演劇部で活躍するようになるらしい。いったいどんなふうになるのか、これも楽しみである。

十勝での暮らしが、将来のなつの仕事にとってどのような意味をもってくることになるのであろうか。牧場の暮らしと、東京でのアニメーションの仕事は、すぐに結びつくものもではないようである。だが、開拓者として、常に新しいことにチャレンジしていく精神は受け継がれているのだろうと思う。この意味では、演劇に向かおうとしているなつを励ます泰樹じいさんは、頼もしくも感じられる。

次週のなつの十勝での奮闘を楽しみに見ることにしよう。

追記 2019-04-28
この続きは、
やまもも書斎記 2019年4月28日
『なつぞら』あれこれ「なつよ、女優になれ」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/04/28/9065372

『おしん』あれこれ(その二)2019-04-22

2019-04-22 當山日出夫(とうやまひでお)

続きである。
やまもも書斎記 2019年4月8日
『おしん』あれこれ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/04/08/9056995

NHKの朝ドラ再放送(BS)で『おしん』を見ている。そんなに熱心に見ているということもないのであるが、何年か前の再放送の時のことを思い出しながら見ている。

第3週は、俊作(中村雅俊)が登場していた。たしか、この週のみの登場で終わってしまっているかと記憶している。

この『おしん』というドラマ、別に、この俊作の週がなくても、十分にドラマとして成立するとは思うのだが、脚本(橋田壽賀子)がここに俊作の週を持ってきた意図はどこにあるのだろうか。

第一には、幼いおしんにとって、心安らぐひとときの時間としてであろう。過酷な労働の材木問屋から逃げたおしんにとって、すぐに家に帰るのではなく、山の中での一冬、隠れ里のようなところで、人の人情にふれて過ごすことは、心が安心する時間でもあった。

第二には、やはり俊作の反戦思想であろう。『おしん』というドラマでは、この後、戦争のことが出てくる。それは、おしんにとって人生のつらい時期でもあり、その結果は、おしんの生涯にとって不幸な出来事をもたらすことになる。このような将来の戦争への描き方の伏線として、俊作の反戦思想は、意味のあるものになっていると感じる。

与謝野晶子の『君死にたまふことなかれ』を読む幼いおしん(小林綾子)。この時は、まだ、その後に戦争(太平洋戦争)が起こることなど、まったく予期していない。そして、それに重なるように、年老いたおしん(乙羽信子)が、同じ詩を暗唱する。その時のおしんには、かつての自分の生涯で、戦争というものがあったこと、そして、その戦争に対する考え方を教えてくれた俊作のことが思い起こされていたのであろう。

以上の二点が、この俊作の登場する冬の山小屋の週で思うことなどである。

『おしん』には、印象的ないくつかのシーンがある。その中でも、俊作が、「おしん」という名前の意味について、おしんに語って聞かせるシーンは、ことさら印象に残る場面である。「おしん」という名前をもった一人の人間の生き方、そのすべてを凝縮したような感じがする。

追記 2019-05-17
この続きは、
やまもも書斎記 2019年5月17日
『おしん』あれこれ(その三)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/05/17/9073429

『いだてん』あれこれ「あゝ結婚」2019-04-23

2019-04-23 當山日出夫(とうやまひでお)

『いだてん』2019年4月21日、第15回「あゝ結婚」
https://www.nhk.or.jp/idaten/r/story/015/

前回は、
やまもも書斎記 2019年4月16日
『いだてん』あれこれ「新世界」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/04/16/9060306

たかがオリンピックごとき……と言ってのけたのは、大竹しのぶであった。

故郷に帰った四三は、スヤと結婚することになる。しかし、四年後のベルリン……だが、歴史的には、そのオリンピックは第一次世界大戦のために開かれないことになるはずだが……この大会への出場をめざして、練習にはげむ。結婚早々、東京にもどってしまう。

この四三の行動について、理解のあるような、ないような、やはりないような、実に微妙な雰囲気を、大竹しのぶがうまく演じていたように思える。地方の旧家にとってみれば、その家の跡継ぎのことの方が、オリンピックより重要ということであろう。だが、それを振り切って東京にもどることになる四三を、妻のスヤは容認している。結果的には、その後の、四三の活動は、故郷の家とその資産があってのことになるのかもしれない。

東京にもどり、高等師範学校を卒業することになる四三は、教師になることを拒否する。ここで、ひともんちゃくあるのだが、その結果、嘉納治五郎の言ったことばが意味深い。プロフェッショナルになるのだ、と言っていた。

元来、オリンピックは、アマチュアリズムが基本であった。特に、後の1964年、東京オリンピックの時には、アマチュアリズムの精神が高らかに語られていたように記憶している。それが、今はどうであろうか、スポーツにおけるプロというのが、普通の存在になってきた。プロの競技者、あるいは、プロスポーツの選手がオリンピックに出場することが当然の時代になってきている。

このような昨今の流れを見るとき、嘉納治五郎の言った「プロフェッショナル」は、今日のオリンピックのあり方への痛烈な皮肉にもとれる。スポーツをささえる社会的、経済的、政治的基盤はいったい何であるのか、これから、このドラマは描いていくことになるのだろう。

この週においても、四三は、大真面目である。四年後のベルリンをめざして、夏の炎天下で大真面目に練習に励んでいる。だが、大真面目になればなるほど、はたから見れば滑稽でもある。四三の熊本の故郷への意識、それから、競技にとりくむ大真面目な様子、これが、ナショナリズムへと傾きかねないオリンピックというものを、かろやかに描くことにつながっていると感じる。

次回は、大正時代、そして、第一次世界大戦の前夜ということになるのだろう。オリンピックと国際的な政治状況、これをどう描くか楽しみに見ることにしよう。

ところで、志ん生は浜松でなんとかやっているようだ。この志ん生も、これから、どのようにして落語の世界で生きていくことになるのか、ここも見どころになるのかと思う。

追記 2019-04-30
この続きは、
やまもも書斎記 2019年4月30日
『いだてん』あれこれ「ベルリンの壁」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/04/30/9066216

八重桜2019-04-24

2019-04-24 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日は花の写真。八重桜である。

前回は、
やまもも書斎記 2019年4月17日
スノーフレーク
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/04/17/9060713

我が家から少し歩いたところに、いくつかの八重桜の木がある。この木は、遅くに花をさかせる。それが、ちょうど満開の時期をむかえている。

この花、去年、写真に撮ろうと思いながら逸してしまった花である。毎日の散歩道に咲いている。今年からカメラを二台にした(D500とD7500)。このうち、D7500を散歩用にしようかと思っている。

この他にも、遅咲きの桜の木がいくつか我が家の周囲にある。この週のうちは、まだ桜の花の咲いているのを見ながらの散歩になるかと思っている。

八重桜

八重桜

八重桜

八重桜

Nikon D7500
AF-S DX NIKKOR 16-80mm f/2.8-4E ED VR

追記 2019-05-01
この続きは、
やまもも書斎記 2019年5月1日
ヤマブキ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/05/01/9066698

『ねじまき鳥クロニクル』(第3部)村上春樹2019-04-25

2019-04-25 當山日出夫(とうやまひでお)

ねじまき鳥クロニクル(3)

村上春樹.『ねじまき鳥クロニクル』(第3部 鳥刺し男編)(新潮文庫).新潮社.1997(2010.改版) (新潮社.19954)
https://www.shinchosha.co.jp/book/100143/

続きである。
やまもも書斎記 2019年4月20日
『ねじまき鳥クロニクル』(第2部)村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/04/20/9061932

第三部まで読んで思うことは次の二点だろうか。

第一に、やはりこの第三部になっても登場することになる井戸。井戸は、この世とあの世、この世界と別の世界、異界との境界である。であると同時に、また、胎内のイメージもある。この井戸の中に入ることが、この第三部でも、重要なモチーフになっている。

この今自分のいる世界とは別の世界が、日常のすぐ傍らにある、このことの文学的イメージを象徴しているのが井戸ということになるのだろう。

第二に、この世界が解体していくような不思議な感覚である。この小説は、あまり脈絡のないようないくつかの物語からなっている。それらの物語の相互の関係がどうなのか、最後まで不明のままである。これはこれでいいのだと思う。そうではなく、この世界というものが、実は、様々な物語に解体できてしまうものであること、このことの文学的表現として理解すべきであろう。

以上の二点が、『ねじまき鳥クロニクル』を読んで思うことである。

前にも書いたが、村上春樹という小説家は、現代において、芸術としての文学を書ける希有な作家であると思う。『ねじまき鳥クロニクル』全編をとおして、ひとつの芸術的世界を構築している。それは、現実と思われているこの世界を、分解して解体していく、バラバラにしていく、そして、それぞれの世界から再度、この世界をプリズムを通すようににして見る視線。それは、ある場合には、時空が歪んでいるかのごとくであるが、それは、村上春樹の書いた物語のプリズムを通して見ているからである。

次は、『ノルウェイの森』を読むことにしよう。

追記 2019-04-26
この続きは、
やまもも書斎記 2019年4月26日
『ノルウェイの森』(上)村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/04/26/9064561

『ノルウェイの森』(上)村上春樹2019-04-26

2019-04-26 當山日出夫(とうやまひでお)

ノルウェイの森(上)

『ねじまき鳥クロニクル』に続けて読んだ。

やまもも書斎記 2019年4月25日
『ねじまき鳥クロニクル』(第3部)村上春樹
村上春樹.『ノルウェイの森』(上)(講談社文庫).講談社.2004 (講談社.1987)
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000203588

この小説の書かれたのは、1987年。1989年のベルリンの壁の崩壊の直前になる。その時代において、小説の時代は、1969年になっている。「1968」の年の翌年である。だが、この小説には、表面的には、政治的なことばはまったくといっていいほど見られない。時折、時代的背景としてちょっと出てくるにすぎない。

この時代に、この時代の物語として、ここまで非政治的な小説を書いていることに、まずおどろいてしまうというのが、今の時代になってからの感想でもある。

この小説は、主人公「僕」の意識の流れを追っている。主人公の意識によって、世界が転変する。主人公の意識に投影したものとしての世界がある。そして、その世界は、どこか歪んでいるようでもある。あるいは、意識のフィルター、あるいは、プリズムを通して変換したような、また、反転したような、奇妙な世界像といっていいだろうか。

すくなくとも、リアリズムの小説ではない。そのように思って読むと、退屈な話に終始している。そうではなく、あくまでも主人公の意識に反映した世界の像が、次から次へと転換していくと理解して読むべきなのだと感じる。

その描き出す世界像は、文学的である。なるほどこの小説が今の時代にいたるまで読み継がれてきているベストセラーである理由が納得される。

追記 2019-04-27
この続きは、
やまもも書斎記 2019年4月27日
『ノルウェイの森』(下)村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/04/27/9065024

『ノルウェイの森』(下)村上春樹2019-04-27

2019-04-27 當山日出夫(とうやまひでお)

ノルウェイの森(下)

村上春樹.『ノルウェイの森』(下)(講談社文庫).講談社.2004 (講談社.1987)
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000203589

続きである。
やまもも書斎記
『ノルウェイの森』(上)村上春樹 2019年4月26日
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/04/26/9064561

上巻に続いてすぐに読み終わった。読み終えて感じるところを書けば、次の二点になるだろうか。

第一に、この小説から感じるのは、なんともいえないような喪失感である。下巻を読み終わってから、上巻の始めを確認してみた。この小説は、主人公「僕」が三十七歳の時からの回想としてはじまっている。その「僕」が、1969年から1970年にかけてのできごとを思い返しているということで始まっている。

ここで物語られるのは、二十歳を迎えた「僕」の、十七歳のころの喪失の物語であり、また、二十において、直子という女性を失ってしまう物語でもある。あるいは、さらに、綠をも失ってしまうことにもなる。

一般的に言ってしまえばであるが、喪失感というのは、普遍的に共有できる心情である。この『ノルウェイの森』が、多くの人びとに読まれる小説であるというのは、全編にただよう喪失感にあるのだろうと思う。

第二に、この小説のここかしこに出てくる、なんともいえないような抒情的な場面の数々である。東京の街角の一コマ、あるいは、山の中の療養所の一コマ、それぞれが、くっきりとした抒情的なイメージで浮かび上がってくる。

この小説の叙情性というものが、読み終えた後の残る印象として強くある。

以上の二点が、『ノルウェイの森』の上下巻を読んで感じるところである。

そして、最後のシーン。この世界のすべてが、自己の中の一点にむかって凝縮していくような場面。これが強く印象的である。

追記 2019-05-02
この続きは、
やまもも書斎記 2019年5月2日
『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』(上)村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/05/02/9067225

『なつぞら』あれこれ「なつよ、女優になれ」2019-04-28

2019-04-28 當山日出夫(とうやまひでお)

『なつぞら』第4週「なつよ、女優になれ」
https://www.nhk.or.jp/natsuzora/story/04/

前回は、
やまもも書斎記 2019年4月21日
『なつぞら』あれこれ「なつよ、これが青春だ」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/04/21/9062344

この週で描いていたのは、なつの演劇。そして、表現するということの自覚であろう。

なつは、農業高校の演劇部に入る。そして、女優として舞台にたつことになる。ここで、なつの、女優としての演技がためされる。それは、上手なような、それでいて、いかにも素人であるような、その微妙な雰囲気を、広瀬すずはうまく演じていたように思える。

一方、じいさん(泰樹)であるが、天陽君のところの牛乳が、安くメーカーに買われていることに気付く。結局のところは、農協に協力する、酪農にたずさわる農家が団結しなければならないと決意することになる。

これには、なつの舞台もいくぶんの影響を与えていたようである。自分のことだけを考えるのではない、村人全体のことを考えなければならないという、舞台のメッセージである。

舞台は、やはり、泰樹の考えを変えさせるきっかけになったのだろうと感じる。が、その背景には、やはり開拓者として、十勝の地で酪農を切り拓いてきた自分の歩みがあってのことにちがいない。開拓者の苦労を一番よく知っているのが泰樹にほかならない。

そして、この週で描いてみせたのは、表現するということを自覚するなつの姿であった。これは、将来、なつがアニメーションの世界で活躍することへの伏線になってくるにちがいない。アニメーションの世界で、なつは、何を表現することになるのだろうか。

次週は、東京のことが出てくるようだ。なつの家族の消息も分かるらしい。これも、期待して見ることにしよう。

追記 2019-05-05
この続きは、
やまもも書斎記 2019年5月5日
『なつぞら』あれこれ「なつよ、お兄ちゃんはどこに?」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/05/05/9068496

国語語彙史研究会(第121回)に行ってきた2019-04-29

2019-04-29 當山日出夫(とうやまひでお)

2019年4月27日は、第121回の国語語彙史研究会が関西大学であったので行ってきた。

朝の一〇時ごろに家を出た。近鉄で日本橋まで。そこから地下鉄にのりかえ。さらに淡路でのりかえて、関大前まで。お昼ご飯をたべて、大学まで歩く。だいたい、はじまる三〇分前ぐらいについただろうか。

今回の研究会も発表はいろいろ。文字・表記についてのもの、文法についてのもの、語彙についてのもの、多彩な方面からの、国語史についての発表であった。

私が気になったのは、最初の発表。明治の漢字辞書についてのものだが、レジュメを見ると「Unicodeにない字」ということが言ってある。これは、私としては、ちょっと気になることであったので、質疑応答の時に、少し話しておいた。

Unicodeとは、確かに世界標準の規格といっていいだろう。だが、そのどのバージョンについて、どの範囲の文字を、フォントとしてコンピュータに実装するかは、また別の問題である。また、Unicodeとは、文字のいったい何を決めたものなのか……字体なのか、字種なのか、文字概念なのか……このあたりも、まだ議論のあるところだろうと思う。

とはいえ、明治のはじめごろの、漢字の世界の一端を明らかにしたいい発表だったと思う。

懇親会は、学内の学食で二時間ほど。終わって、これも、だいたいいつものようなメンバーで、二次会。大学の近くのお店に。このお店、以前にも行ったことがあるかと憶えている。

いつもは、夜は早く寝る、そのかわり朝は早く起きる、という生活をしているのだが、家にかえったら一二時近くになっていたので、少し疲れた感じがする。少し朝寝して、だいたいいつものように、ブログをアップロードして、外に出て花の写真を写してということになった。

連休中は、村上春樹を読んですごそうとおもっている。いよいよ『騎士団長殺し』である。

次回は、9月に神戸の三宮で開催とのことである。

『いだてん』あれこれ「ベルリンの壁」2019-04-30

2019-04-30 當山日出夫(とうやまひでお)

『いだてん~東京オリムピック噺~』2019年4月28日、第16回「ベルリンの壁」
https://www.nhk.or.jp/idaten/r/story/016/

前回は、
やまもも書斎記 2019年4月23日
『いだてん』あれこれ「あゝ結婚」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/04/23/9063288

四三はベルリンのオリンピックに参加することができなかった。第一次世界大戦のために、大会そのものが開かれることがなかった。

だが、これは歴史上の事実として既に分かっていたことでもある。その後の再度のベルリンの大会が、まさに「民族の祭典」としてナチスのもとに開催されることになるはずである。

結果的にベルリンに行けなかった四三であるが、とにかくオリンピックを目指して頑張っている。故郷からやってきた妻のスヤも、追い返してしまう。一途にオリンピックをめざす。

だが、そこには、ナショナリズムの悲壮感のようなものはない。これは、描き方として、あまりに純粋に生真面目にオリンピックを目指す姿だからなのだろう。大真面目になればなるほど、逆にはたから見れば、ある意味での滑稽さを感じるものである。ここのところを、うまくこのドラマでは描いていたように思える。

また、ベルリンへの出場がかなわなかった四三は、たしかにみじめであったかもしれない。が、そのみじめさを相対化してしまっているのが、大竹しのぶ(スヤの義母)。たかがオリンピックと思っている。その発想が、逆に、四三をすくっている。

オリンピックは、嘉納治五郎の言うような理想だけでは、実際に運営されない。第一次世界大戦のために中止になったベルリンもそうだが、その後の「民族の祭典」、また、幻の東京オリンピック(昭和15年)も、国際情勢のなかで考えるべきものになってくるにちがいない。昭和39年の東京オリンピックも、ある意味できわめて政治的な色彩をおびている。

国際情勢の荒波のなかで、ひたむきにスポーツにはげむ若者の姿を、これからこのドラマは描いていくことになるのであろうか。

ところで、一方の志ん生の方であるが、浜松で師匠の死を知る。そこで一念発起して、芸の道に精進しようとするのだが……このあたりの描写、確かに、そのひたむきさはなんとなく伝わってくるものの、はっきりいって、今一つ面白くは感じられない(私には)。このあたり、志ん生師匠の若き日の姿としては、どうなんだろうか。落語に造詣のある人がみれば、これはこれで面白い描き方になっているのかもしれないとは思ってみるのだが。

次回は、オリンピック出場が適わなかった四三のその後のことのようである。楽しみに見ることにしよう。

追記 2019-05-07
この続きは、
やまもも書斎記 2019年5月7日
『いだてん』あれこれ「いつも2人で」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/05/07/9069425