『ねじまき鳥クロニクル』(第2部)村上春樹2019-04-20

2019-04-20 當山日出夫(とうやまひでお)

ねじまき鳥クロニクル(2)

村上春樹.『ねじまき鳥クロニクル』(第2部 予言する鳥編)(新潮文庫).新潮社.1997(2010.改版) (新潮社.1994)
https://www.shinchosha.co.jp/book/100142/

続きである。
やまもも書斎記 2019-04-19
『ねじまき鳥クロニクル』(第1部)村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/04/19/9061574

この巻も、不可解な物語であるが、読みながらふと思わずにその物語世界のなかに没入していることに気付く。

思うことを書けば、次の二点になるだろうか。

第一は、井戸。

この第二部でも、第一部の終わりに出てきたように、井戸が出てくる。主人公の家の裏の路地を行ったところの家にある。その井戸の中に主人公は入り込む。そして時間をすごす。夢を見る。

もともと「井戸」というものが、ある意味では異界との境界、あるいは、異界そもものであるとも解釈できる。しかも、その異界に身をおいて、夢を見る。これは、何を意味しているのだろうか。

この世界と、別の世界が、井戸のなかで反転し、融合する。

第二に、自己の浮遊。

この世界において、自分として認識している自分は何であるのか。それは、別の世界にいる別の自分の影のようなものかもしれない。自分自身が、この世界と別の世界に分離していくような感覚におちいる。浮遊する自己とでもいえばいいだろうか。

以上の二点が、この『ねじまき鳥クロニクル』の第二部「予言する鳥編」を読んで感じるところである。

おそらく、村上春樹は、二〇世紀の終わりから、二一世紀にかけて……それは、日本の年号でいえば、平成という時代になる……において、文学的想像力で何が可能か、その極限を追求した作家であるといえるだろうか。ここには、もはや一九世紀的なリアリズムの感覚は通用しない。文学的感性とともに、この世界と異世界の間をただようだけの意識の感覚とでもいうべきものである。

次は、第三部になる。これも続けて読むことにしよう。

追記 2019-04-25
この続きは、
やまもも書斎記 2019年4月25日
『ねじまき鳥クロニクル』(第3部)村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/04/25/9064115

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