ドキュメント72時間「愛媛・今治 昭和から続くサウナにて」 ― 2024-02-13
2024/02/13 當山日出夫
ドキュメント72時間 愛媛・今治 昭和から続くサウナにて
そこにいけばいつもとかわらない毎日がある、これがとても重要なことである。今の時代、変わらなければいけない、時代の変化に取りのこされてはいけない、という意識が非常に強い。特に都市部ではそうかもしれない。
今治という街は、(私の認識では、ということであるが)時代から取りのこされつつある街かもしれない。最近、話題になったことといえば、加計学園の獣医学部が出来たことぐらいであろうか。それもその後どうなっているのか、ニュースには登場することがない。
造船の街、タオルの街である。
昔、今治には、百貨店が二つあった。大丸と高島屋である。県庁所在地でもないのに百貨店があったのは、かつて造船業で栄えた歴史があるからだろう。
今では、通過するだけの街かもしれない。瀬戸大橋の尾道今治ルートを使えば簡単に行けるのだが、今治で降りるという人は少ないかもしれない。
以前、ある事情があって、今治にはかなり行った。というよりも、通ったという方がいいかもしれない。今治の街の盛衰を、なんとなく肌で感じてきたところがある。
久しぶりに今治の方言を耳にした。こんなことばだったなあ、と思いながら見ていた。
変わらないでいることの価値を再認識した回であった。
2024年2月10日記
ドキュメント72時間 愛媛・今治 昭和から続くサウナにて
そこにいけばいつもとかわらない毎日がある、これがとても重要なことである。今の時代、変わらなければいけない、時代の変化に取りのこされてはいけない、という意識が非常に強い。特に都市部ではそうかもしれない。
今治という街は、(私の認識では、ということであるが)時代から取りのこされつつある街かもしれない。最近、話題になったことといえば、加計学園の獣医学部が出来たことぐらいであろうか。それもその後どうなっているのか、ニュースには登場することがない。
造船の街、タオルの街である。
昔、今治には、百貨店が二つあった。大丸と高島屋である。県庁所在地でもないのに百貨店があったのは、かつて造船業で栄えた歴史があるからだろう。
今では、通過するだけの街かもしれない。瀬戸大橋の尾道今治ルートを使えば簡単に行けるのだが、今治で降りるという人は少ないかもしれない。
以前、ある事情があって、今治にはかなり行った。というよりも、通ったという方がいいかもしれない。今治の街の盛衰を、なんとなく肌で感じてきたところがある。
久しぶりに今治の方言を耳にした。こんなことばだったなあ、と思いながら見ていた。
変わらないでいることの価値を再認識した回であった。
2024年2月10日記
「シリーズ 歎異抄にであう 無宗教からの扉 (4)「他力をえらぶ」」 ― 2024-02-13
2024年2月13日 當山日出夫
こころの時代 シリーズ 歎異抄にであう 無宗教からの扉 (4)「他力をえらぶ」
この回で柳田国男の名前は出てきていなかったのだが、自然宗教としての先祖供養ということを、近代になってから明らかにしたのは、柳田国男の仕事といっていいと思っている。
重要なことは、創唱宗教も自然宗教の影響を受ける、ということ。これは、浄土教にかぎらず、日本の仏教全般について言えることであろう。これを肯定的にとらえるか、否定的にとらえるかの違いはあるかもしれない。
だが、すくなくとも、日本の人びと、日本の文化、宗教的感覚のなかに息づいているものとしての、自然宗教というものの存在を考えてみることは、必要なことである。
そして、これからの社会、従来の自然宗教をなりたたせてきた共同体の基盤が崩壊していくなかで、どのような宗教観が求められるのか、ということになる。ここで、創唱宗教の再検討というところに話しが進んでいた。
また、宗教というものは、人間を幸福にするだけのものではなく、不幸にも気づくものであるという指摘は重要かと思う。人間の不幸、あるいは、罪と言ってもいいかもしれないが、それを自覚するところからスタートするということになる。
念仏は手段ではない、これは重要なことであろう。
そして、父母の供養のために念仏するのではない……これも重要なポイントである。宗教は、あくまでも生きている人間のためにある。生きている人間がどのようであるかを考えるとき、死者ということを視野に入れることが必要になる。この順序を間違えてはいけないだろう。
霊的な宗教指導者の言うことに教団が従う、ギブアンドテイクで幸福を得ようとする……この放送は、二〇二二年が最初だから、まだ、統一教会とかカルトとかのことが、そう社会で大きく取りあげられる前のことになる。だが、あるべき宗教の姿とカルトの違いを端的に指摘していると思う。
2024年1月24日記
こころの時代 シリーズ 歎異抄にであう 無宗教からの扉 (4)「他力をえらぶ」
この回で柳田国男の名前は出てきていなかったのだが、自然宗教としての先祖供養ということを、近代になってから明らかにしたのは、柳田国男の仕事といっていいと思っている。
重要なことは、創唱宗教も自然宗教の影響を受ける、ということ。これは、浄土教にかぎらず、日本の仏教全般について言えることであろう。これを肯定的にとらえるか、否定的にとらえるかの違いはあるかもしれない。
だが、すくなくとも、日本の人びと、日本の文化、宗教的感覚のなかに息づいているものとしての、自然宗教というものの存在を考えてみることは、必要なことである。
そして、これからの社会、従来の自然宗教をなりたたせてきた共同体の基盤が崩壊していくなかで、どのような宗教観が求められるのか、ということになる。ここで、創唱宗教の再検討というところに話しが進んでいた。
また、宗教というものは、人間を幸福にするだけのものではなく、不幸にも気づくものであるという指摘は重要かと思う。人間の不幸、あるいは、罪と言ってもいいかもしれないが、それを自覚するところからスタートするということになる。
念仏は手段ではない、これは重要なことであろう。
そして、父母の供養のために念仏するのではない……これも重要なポイントである。宗教は、あくまでも生きている人間のためにある。生きている人間がどのようであるかを考えるとき、死者ということを視野に入れることが必要になる。この順序を間違えてはいけないだろう。
霊的な宗教指導者の言うことに教団が従う、ギブアンドテイクで幸福を得ようとする……この放送は、二〇二二年が最初だから、まだ、統一教会とかカルトとかのことが、そう社会で大きく取りあげられる前のことになる。だが、あるべき宗教の姿とカルトの違いを端的に指摘していると思う。
2024年1月24日記
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