BSスペシャル「HumanAnimals 見えない“隣人”」 ― 2025-05-19
2025年5月19日 當山日出夫
BSスペシャル 「HumanAnimals 見えない“隣人”」
2023年のハマスによるイスラエル攻撃のとき、ニュース番組だっただろうか、誰かが解説で、これはパレスチナの側が自分たちのことを忘れないでほしいという国際社会に対するメッセージである、という意味のことを言っていて、そういうこともあるかと思って見ていた記憶がある。この意味では、十分に目的は達成できた、いや、必要以上にその効力があったというべきかもしれない。
日本にいてニュースなどを見るかぎりの情報で思うことだが、これが、もし人質と同じ数の人を殺害しただけであったならば、イスラエルによる報復攻撃はこれほどまで大規模で長期間にわたるものにはならなかっただろうと思う。やられたらやりかえす、ということで、そこそこの報復攻撃はあっただろうが、一定以上にエスカレートすることは、避けられたと思う。人質をとるということの意味、強いていえば、効果ともいえるが、これは非常に大きなものがあったとすべきだろう。
NHKは、パレスチナ問題もそうだが、利害関係が対立する国際問題については、憎悪の連鎖という面を、あまり描かないでいる。しかし、この番組では、イスラエルの人びとの、パレスチナの人びとへの憎悪を、かなりあからさまに映し出していた。一方、パレスチナのガザの人びとについては、その被害の様子と嘆きかなしむ様子を伝えはするが、イスラエルへの憎悪については、触れることがなかった。取材していないだけで、イスラエルへの憎悪の感情をたかぶらせている人たちは、たくさんいるにちがいない。しかし、反イスラエルという気持ちを伝えると、それは、解釈のしようによっては、いわゆる反ユダヤ論ということにつながりかねない。ここは、慎重に判断して、このような番組の構成になったのだろう。イスラエルという国家を滅ぼし、ユダヤ人はこの世界からいなくなればいいと思っている人だって、絶対にいると思うのではあるが。
イスラエルの市民が、パレスチナの人たちに対して、憎悪の感情をいだくということは、たしかに、常識的な平和主義からすれば容認できるものではないだろう。しかし、このような過激ともとれる発言を、あえてテレビの取材の場面で語るということは、これが必ずしもそんなに特殊な考え方ではない、という了解……イスラエル国内においても、また、敵対するパレスチナにとっても……がある、ということを意味するものだろう。
なんらかの形で、戦闘を終わらせることは可能ではあるだろうが、しかし、双方の人びとの心の中にある憎悪の感情が簡単に消えるということはないであろう。
2025年5月12日記
BSスペシャル 「HumanAnimals 見えない“隣人”」
2023年のハマスによるイスラエル攻撃のとき、ニュース番組だっただろうか、誰かが解説で、これはパレスチナの側が自分たちのことを忘れないでほしいという国際社会に対するメッセージである、という意味のことを言っていて、そういうこともあるかと思って見ていた記憶がある。この意味では、十分に目的は達成できた、いや、必要以上にその効力があったというべきかもしれない。
日本にいてニュースなどを見るかぎりの情報で思うことだが、これが、もし人質と同じ数の人を殺害しただけであったならば、イスラエルによる報復攻撃はこれほどまで大規模で長期間にわたるものにはならなかっただろうと思う。やられたらやりかえす、ということで、そこそこの報復攻撃はあっただろうが、一定以上にエスカレートすることは、避けられたと思う。人質をとるということの意味、強いていえば、効果ともいえるが、これは非常に大きなものがあったとすべきだろう。
NHKは、パレスチナ問題もそうだが、利害関係が対立する国際問題については、憎悪の連鎖という面を、あまり描かないでいる。しかし、この番組では、イスラエルの人びとの、パレスチナの人びとへの憎悪を、かなりあからさまに映し出していた。一方、パレスチナのガザの人びとについては、その被害の様子と嘆きかなしむ様子を伝えはするが、イスラエルへの憎悪については、触れることがなかった。取材していないだけで、イスラエルへの憎悪の感情をたかぶらせている人たちは、たくさんいるにちがいない。しかし、反イスラエルという気持ちを伝えると、それは、解釈のしようによっては、いわゆる反ユダヤ論ということにつながりかねない。ここは、慎重に判断して、このような番組の構成になったのだろう。イスラエルという国家を滅ぼし、ユダヤ人はこの世界からいなくなればいいと思っている人だって、絶対にいると思うのではあるが。
イスラエルの市民が、パレスチナの人たちに対して、憎悪の感情をいだくということは、たしかに、常識的な平和主義からすれば容認できるものではないだろう。しかし、このような過激ともとれる発言を、あえてテレビの取材の場面で語るということは、これが必ずしもそんなに特殊な考え方ではない、という了解……イスラエル国内においても、また、敵対するパレスチナにとっても……がある、ということを意味するものだろう。
なんらかの形で、戦闘を終わらせることは可能ではあるだろうが、しかし、双方の人びとの心の中にある憎悪の感情が簡単に消えるということはないであろう。
2025年5月12日記
『八重の桜』「将軍の首」 ― 2025-05-19
2025年5月19日 當山日出夫
『八重の桜』「将軍の首」
ドラマなどで、天皇が登場することはあまりないだろうと思っている。ざっくばらんにいえば、おそれおおい、ということもあるだろうし、また、変な描き方をして、天皇至上主義者(そういうような人がいるとして)から、クレームがきてもこまる。
これまで、天皇を印象的に描いたドラマというと、どうしてもこの『八重の桜』の孝明天皇が思いうかぶ。それから、『坂の上の雲』の明治天皇がある。
江戸時代までの天皇というのは、京都の公家社会にささえられて生きてきたはずで、非常に女性的な(最近では、このような表現を使うこと自体がとがめられかねないけれど)性格のものであった。それが、明治時代になって、近代的な君主として、天皇が男性的で武断的なイメージに変わってきた、ということがある。まあ、これは、明治になってからの政府の方針としてそうなったということになるだろうが。
『八重の桜』の孝明天皇は、はっきりいって、非常にたよりない、弱々しい存在である。そして、孤独である。公家たちは、西国の雄藩と組んで、権謀術数にあけくれている。信頼できる臣下はいない。そこに現れて京の都の治安を立て直してくれたのが、会津の松平容保であった……ということになる。(史実として、どうだっただろうかということはあるけれど、ドラマとしては、この筋書きはよくできている。)
容保からすると、その忠誠心の向かうさきが、ゆらぐことになりかねない。徳川の譜代として、徳川幕府を支える、将軍に忠誠を誓う。その一方で、京で孝明天皇に臣下として、忠義をはたさなければならない。普通なら、ここで、まっぷたつに別れてしまうところなのだが、そこを、もともとが公武合体論者であったという設定で、うまく調和して破綻がないように作ってある。このあたりの脚本は、たくみだと思う。
しかし、会津の家臣たちは、藩主の容保に対して(だけ)忠誠心をもっている。このあたりの行き違いが、戊辰戦争、会津戦争ということにつながっていく。
2025年5月18日記
『八重の桜』「将軍の首」
ドラマなどで、天皇が登場することはあまりないだろうと思っている。ざっくばらんにいえば、おそれおおい、ということもあるだろうし、また、変な描き方をして、天皇至上主義者(そういうような人がいるとして)から、クレームがきてもこまる。
これまで、天皇を印象的に描いたドラマというと、どうしてもこの『八重の桜』の孝明天皇が思いうかぶ。それから、『坂の上の雲』の明治天皇がある。
江戸時代までの天皇というのは、京都の公家社会にささえられて生きてきたはずで、非常に女性的な(最近では、このような表現を使うこと自体がとがめられかねないけれど)性格のものであった。それが、明治時代になって、近代的な君主として、天皇が男性的で武断的なイメージに変わってきた、ということがある。まあ、これは、明治になってからの政府の方針としてそうなったということになるだろうが。
『八重の桜』の孝明天皇は、はっきりいって、非常にたよりない、弱々しい存在である。そして、孤独である。公家たちは、西国の雄藩と組んで、権謀術数にあけくれている。信頼できる臣下はいない。そこに現れて京の都の治安を立て直してくれたのが、会津の松平容保であった……ということになる。(史実として、どうだっただろうかということはあるけれど、ドラマとしては、この筋書きはよくできている。)
容保からすると、その忠誠心の向かうさきが、ゆらぐことになりかねない。徳川の譜代として、徳川幕府を支える、将軍に忠誠を誓う。その一方で、京で孝明天皇に臣下として、忠義をはたさなければならない。普通なら、ここで、まっぷたつに別れてしまうところなのだが、そこを、もともとが公武合体論者であったという設定で、うまく調和して破綻がないように作ってある。このあたりの脚本は、たくみだと思う。
しかし、会津の家臣たちは、藩主の容保に対して(だけ)忠誠心をもっている。このあたりの行き違いが、戊辰戦争、会津戦争ということにつながっていく。
2025年5月18日記
『べらぼう』「鱗の置き土産」 ― 2025-05-19
2025年5月19日 當山日出夫
『べらぼう』「鱗の置き土産」
去年の『光る君へ』のときは、ドラマに関連して『源氏物語』関係の本がかなり出た。しかし、今年の『べらぼう』では、江戸の戯作(黄表紙など)が、現代風に新しくして読まれる、ということはあまりないようである。蔦屋重三郎関係の本は、かなり出版されている。これについては、すでにかなり研究の蓄積があるところなので、本を企画するのにむずかしいということはない。
現代、恋川春町を読んでみようという人はどれぐらいいるだろうか。大学で日本文学専攻で、近世文学を選んで勉強してみようという学生ぐらいだろうかと思う。ちくま学芸文庫の『江戸の戯作絵本』はあるが、どれぐら売れているだろうか。私は持っている本だが、はっきり言って字が小さすぎて、この年になると、この本を読むのがつらい(ので、読んでいない。)
江戸の戯作がつまらないとは思わない。いや、きちんと読むならば、非常に面白い内容であるはずである。だが、これを面白いと思うためには、当時の時代背景(政治的社会的)や、江戸の人たちの文化的素養が理解できていないと、その面白みが分からない。
近世の江戸の文学の研究というと、非常に広範な知識がないとできない……と思っている。
何度も書いていることだが、そして、ドラマでは意図的にだろうが省いていることだと思うけれど、江戸の出版として、青本などだけで、その全体像を語るのは無理がある。また、吉原だけで、江戸の文化を描こうとするのも、これはむずかしいことである。
この週の最後のところで、大田南畝が出てきていた。昔、岩波から『蜀山人全集』が出たのは学生のときだったが、これは買った本である。今も書庫の中にある。江戸の戯作や狂歌などを理解しようとするならば、この時代の教養や知識の全体がわからないとむずかしい。蜀山人などは、とてつもない教養人だったと思う。
以上のようなことを思うのだが、ドラマとして見た場合、蔦重が恋川春町をまきこんで、鱗形屋や市中の本屋たちとあらそい、いよいよ本格的に出版に乗り出していく過程として、これはこれで面白い展開になっている。歌麿はまだその才能を開花させたということではないが、絵から考える、絵を見てもらおうということで、出版にむすびつける方向性を出してきている。
本屋(出版、編集)が、作家にアイデアを提供して、これで書いてもらえませんか、というのは、今でもあることかと思う。特にエンタメ系コンテンツの場合であれば、全体のプロデューサーがいて、アイデアを出す人がいて、それを制作する人がいて、ということになっているかと思う。
恋川春町の考えていることは、今日の職業作家の近い雰囲気がある。しかし、この時代の戯作者というのは、本業がまずあって(武士であるが)、書くのは道楽、が悪ければ、趣味の領域のことだったろとおもっていたのだが、はたしてどうだったろうか。この点では、浮世絵の絵師が、絵だけで生きていこうとしていたことと、対照的かもしれない。戯作が職業、あるいは、専門的な職業意識の持ち主としてなりたつのは、蔦重の時代としては無理ではないだろうか。
近代的な小説家を描くとき、机にむかって呻吟しながら、原稿用紙を丸めてくしゃくしゃにして投げ捨てる、というイメージであるが、江戸時代の作家というと、どういうイメージで描くことになるのだろうか。
花魁の誰袖は、もうドラマからは退場した瀬川とはちがった魅力がある。
2025年5月18日記
『べらぼう』「鱗の置き土産」
去年の『光る君へ』のときは、ドラマに関連して『源氏物語』関係の本がかなり出た。しかし、今年の『べらぼう』では、江戸の戯作(黄表紙など)が、現代風に新しくして読まれる、ということはあまりないようである。蔦屋重三郎関係の本は、かなり出版されている。これについては、すでにかなり研究の蓄積があるところなので、本を企画するのにむずかしいということはない。
現代、恋川春町を読んでみようという人はどれぐらいいるだろうか。大学で日本文学専攻で、近世文学を選んで勉強してみようという学生ぐらいだろうかと思う。ちくま学芸文庫の『江戸の戯作絵本』はあるが、どれぐら売れているだろうか。私は持っている本だが、はっきり言って字が小さすぎて、この年になると、この本を読むのがつらい(ので、読んでいない。)
江戸の戯作がつまらないとは思わない。いや、きちんと読むならば、非常に面白い内容であるはずである。だが、これを面白いと思うためには、当時の時代背景(政治的社会的)や、江戸の人たちの文化的素養が理解できていないと、その面白みが分からない。
近世の江戸の文学の研究というと、非常に広範な知識がないとできない……と思っている。
何度も書いていることだが、そして、ドラマでは意図的にだろうが省いていることだと思うけれど、江戸の出版として、青本などだけで、その全体像を語るのは無理がある。また、吉原だけで、江戸の文化を描こうとするのも、これはむずかしいことである。
この週の最後のところで、大田南畝が出てきていた。昔、岩波から『蜀山人全集』が出たのは学生のときだったが、これは買った本である。今も書庫の中にある。江戸の戯作や狂歌などを理解しようとするならば、この時代の教養や知識の全体がわからないとむずかしい。蜀山人などは、とてつもない教養人だったと思う。
以上のようなことを思うのだが、ドラマとして見た場合、蔦重が恋川春町をまきこんで、鱗形屋や市中の本屋たちとあらそい、いよいよ本格的に出版に乗り出していく過程として、これはこれで面白い展開になっている。歌麿はまだその才能を開花させたということではないが、絵から考える、絵を見てもらおうということで、出版にむすびつける方向性を出してきている。
本屋(出版、編集)が、作家にアイデアを提供して、これで書いてもらえませんか、というのは、今でもあることかと思う。特にエンタメ系コンテンツの場合であれば、全体のプロデューサーがいて、アイデアを出す人がいて、それを制作する人がいて、ということになっているかと思う。
恋川春町の考えていることは、今日の職業作家の近い雰囲気がある。しかし、この時代の戯作者というのは、本業がまずあって(武士であるが)、書くのは道楽、が悪ければ、趣味の領域のことだったろとおもっていたのだが、はたしてどうだったろうか。この点では、浮世絵の絵師が、絵だけで生きていこうとしていたことと、対照的かもしれない。戯作が職業、あるいは、専門的な職業意識の持ち主としてなりたつのは、蔦重の時代としては無理ではないだろうか。
近代的な小説家を描くとき、机にむかって呻吟しながら、原稿用紙を丸めてくしゃくしゃにして投げ捨てる、というイメージであるが、江戸時代の作家というと、どういうイメージで描くことになるのだろうか。
花魁の誰袖は、もうドラマからは退場した瀬川とはちがった魅力がある。
2025年5月18日記
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