心おどるあの人の本棚 (5)鈴木敏夫(映画プロデューサー) ― 2025-05-17
2025年5月17日 2025年5月16日 當山日出夫
心おどるあの人の本棚 (5)鈴木敏夫(映画プロデューサー)
録画してあったのをようやく見た。
鈴木敏夫の名前は知っている。しかし、どんな人物であるかは、あまり気にしたことがなかった。
私より少し上の年代になる。ちょうど、学生運動(70年安保)の時代に学生だったことになるだろう。この時代に学生時代を過ごしているとすると、読む人は、かなりたくさんの本を読んでいたはずである。なにせ、ろくに大学の授業などはなかった時代である。その数年後に、私は、同じ慶應義塾大学の文学部で勉強したことになるが、その時代でも、あまり授業に拘束されることなく本を読むことのできた時代である。(今は、どうだろうか。)
出てきていたのは、マンションの部屋を、それぞれに書庫にしてあるという非常に贅沢な本の所有のしかた。これだけ本があれば、東京都内なら、普通は、可動式書庫などを作ることが多いと思う。しかし、この場合は、本をすべて背表紙の見える状態で並べてある。これは、とても贅沢なことである。無論、各部屋のインテリアとかも贅沢だと感じるところがあるが、それよりも何より、本の背表紙が一覧できる状態というのは、本を持っている人間にとってのあこがれである。
出てきた本について思うことはいくつかある。
『大菩薩峠』(中里介山)は、たしか日本で最も長い小説だったはずである。ただし、未完である。この作品、大学の一年のとき(日吉の教養のとき)、読んでみようと挑戦したことがある。この時代の大学の図書館は、まだ、貸出カード式だったのだ、誰が借りたか、カードを見ると分かるようになっていた。日吉の図書館にあった、『大菩薩峠』は、誰かが全巻読破していたことが、そのカードに記された名前から分かった。ただ、私の場合、全巻読もうとこころみたが、途中で挫折してしまったのであるが。これを、今からもう一度読みなおしてみようとは思わない。だが、『大菩薩峠』は、特にその文体の特徴も重要だし、机竜之介という主人公の造形についても、日本文学史としては、研究しなければならない作品であると思っている。まだ、私の世代だと、盲目の剣士としての机竜之介ということは、その作品を読んでいなくても知っていることになるかと思う。
加藤周一は、あまり読んでいない。『日本文学史序説』『羊の歌』ぐらいは、読んだ本であるが。明晰な知性は感じるのだが、いや、それだけに、いまひとつ読む本のなかにふくめないできた。
『忘れられた日本人』は、私の学生のころ、つまり、鈴木敏夫より少しあとのころになるが、これは、学生なら普通に読んでいて当たり前の本だった。これを読んでいなくて、宮崎駿に馬鹿にされたというエピソードは、この時代ならではのものである。この本で描かれた、前近代の日本の心性、生活の感覚、ということは、加藤周一に代表されるような、近代的な知性と並行して、つい最近まで、日本の社会のなかにあったことである。(余計なことではあるが、『遠野物語』は、前近代の日本人の心性をたどるための最高の作品であると思っている。)
本棚にある本で目についたのが、本多勝一。やはり鈴木敏夫ぐらいの世代だと……その延長に近いところに私もいることになるが……本多勝一は、読んでおくべき人の一人であった。(もう、今では、あまり読まれない人になってしまったかと思うけれど。)
堀田善衛は、できれば読みなおしてみた作品がいくつかある。特に『方丈記私記』は、若いときに読んだ本であるが、今になって読むとどう感じるだろうか。
2025年5月15日記
心おどるあの人の本棚 (5)鈴木敏夫(映画プロデューサー)
録画してあったのをようやく見た。
鈴木敏夫の名前は知っている。しかし、どんな人物であるかは、あまり気にしたことがなかった。
私より少し上の年代になる。ちょうど、学生運動(70年安保)の時代に学生だったことになるだろう。この時代に学生時代を過ごしているとすると、読む人は、かなりたくさんの本を読んでいたはずである。なにせ、ろくに大学の授業などはなかった時代である。その数年後に、私は、同じ慶應義塾大学の文学部で勉強したことになるが、その時代でも、あまり授業に拘束されることなく本を読むことのできた時代である。(今は、どうだろうか。)
出てきていたのは、マンションの部屋を、それぞれに書庫にしてあるという非常に贅沢な本の所有のしかた。これだけ本があれば、東京都内なら、普通は、可動式書庫などを作ることが多いと思う。しかし、この場合は、本をすべて背表紙の見える状態で並べてある。これは、とても贅沢なことである。無論、各部屋のインテリアとかも贅沢だと感じるところがあるが、それよりも何より、本の背表紙が一覧できる状態というのは、本を持っている人間にとってのあこがれである。
出てきた本について思うことはいくつかある。
『大菩薩峠』(中里介山)は、たしか日本で最も長い小説だったはずである。ただし、未完である。この作品、大学の一年のとき(日吉の教養のとき)、読んでみようと挑戦したことがある。この時代の大学の図書館は、まだ、貸出カード式だったのだ、誰が借りたか、カードを見ると分かるようになっていた。日吉の図書館にあった、『大菩薩峠』は、誰かが全巻読破していたことが、そのカードに記された名前から分かった。ただ、私の場合、全巻読もうとこころみたが、途中で挫折してしまったのであるが。これを、今からもう一度読みなおしてみようとは思わない。だが、『大菩薩峠』は、特にその文体の特徴も重要だし、机竜之介という主人公の造形についても、日本文学史としては、研究しなければならない作品であると思っている。まだ、私の世代だと、盲目の剣士としての机竜之介ということは、その作品を読んでいなくても知っていることになるかと思う。
加藤周一は、あまり読んでいない。『日本文学史序説』『羊の歌』ぐらいは、読んだ本であるが。明晰な知性は感じるのだが、いや、それだけに、いまひとつ読む本のなかにふくめないできた。
『忘れられた日本人』は、私の学生のころ、つまり、鈴木敏夫より少しあとのころになるが、これは、学生なら普通に読んでいて当たり前の本だった。これを読んでいなくて、宮崎駿に馬鹿にされたというエピソードは、この時代ならではのものである。この本で描かれた、前近代の日本の心性、生活の感覚、ということは、加藤周一に代表されるような、近代的な知性と並行して、つい最近まで、日本の社会のなかにあったことである。(余計なことではあるが、『遠野物語』は、前近代の日本人の心性をたどるための最高の作品であると思っている。)
本棚にある本で目についたのが、本多勝一。やはり鈴木敏夫ぐらいの世代だと……その延長に近いところに私もいることになるが……本多勝一は、読んでおくべき人の一人であった。(もう、今では、あまり読まれない人になってしまったかと思うけれど。)
堀田善衛は、できれば読みなおしてみた作品がいくつかある。特に『方丈記私記』は、若いときに読んだ本であるが、今になって読むとどう感じるだろうか。
2025年5月15日記
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