ドラマ人間模様『國語元年』(5)2025-06-03

2025年6月3日 當山日出夫

ドラマ人間模様 『國語元年』(5)

『國語元年』は、文庫本で二種類がある。中公文庫版、これはドラマの脚本をもとにしたものである。新潮文庫版、これは舞台をもとにしたものである。両方とも読んでいる。そして、その結末は、南郷清之輔は、哀れな末路となる。

山口仲美先生の『日本語の歴史』(岩波新書)を読むと、この作品のことに触れてある。特に言及してあるのが、元・会津藩士で強盗であった若林虎三郎からの手紙である。全国統一話し言葉を、個人のちからで作りあげることはできない。国民の一人一人が、よりよい言葉を求めて努力する結果として出来上がるものである。このような趣旨のことを語っている。

その後、実際の歴史としては、日本語において「国語」の制定という方向になる。

このプロセスは、必ずしも全国民の意志によってなしとげられたというものではなく、かなりの部分は、国家の影響力……学校教育であったり、軍隊であったり……があり、また、新聞などのちからもあってのこと、ということになる。このことについて、現代では、かなり否定的に見る考え方がある。方言の否定であり、さらには、台湾や朝鮮といった外地(殖民地)の人びとにも、「国語」を押しつけることになったということがある。(帝国主義の時代、宗主国の言語が使われるようになるということは、いたしかたのないことだとは思うのだが。)

とはいえ、現代の日本において、全国のどこに行っても、ことばが通じなくて困る、ということはなくなっている。(これはこれとして、功罪としては、良かったことと認めざるをえないと私は思っている。)

また、現代では、絶滅が危惧される方言ということがある。

生活が変わればことばは変わる。地域の生活のなかに根ざした方言は、そのことばの地域社会が一定規模で維持できなくなれば、ほろびるのはいたしかたのないことである……残念であり、残酷ではあるかもしれないが、こう思うこともある。

以上のようなことを思いはするのだが、『國語元年』についていえば、印象に残るのは、登場人物それぞれのその後の人生である。おそらく最も幸せな人生だったかと思えるのは、ドラマの語り手であった、女中のふみぐらいかもしれない。それぞれ、明治の時代なら、こんなふうに生きたかもしれない、という人生である。南郷清之輔は、かわいそうであるが、しかし、そのままことばの仕事を続けるよりは、ある意味でよかったのかもしれない。そして、誰一人、歴史に名の残るような事跡を残してはいないということもある。それぞれに、近代の日本語が形成されるなかで、ごく平凡に生きた人生といっていいだろう。このような平凡な人生の積み重ねのおかげで、今の日本語の姿がある、ということなのであろう。

もちろん、現代でも日本語は変化している。それがどういう方向にむかっていくかは、日本語をつかう人びとそれぞれの生活にかかわっていると理解しておきたい。

2025年6月2日記

NHKスペシャル「未完のバトン 第3回 “均等法の母”に続く長い列」2025-06-03

2025年6月3日 當山日出夫

NHKスペシャル 未完のバトン 第3回 “均等法の母”に続く長い列

かなり考えてバランスを考慮して作った番組だなとは思うのだが、少し気になったところがあることもたしかである。

デンマークの事例があって、女性の首相であったことは言っていた。しかし、デンマークは、国会議員の数についてクオータ制をとっていないかと思う。ちょっとWEBで調べてみただけなのだが、はっきりとそう明言できないようである。見ていて、番組の流れとしては、ここのところで、すこし断絶があるなと感じるところがあったので、気になった。(強いていえば、すこしごまかして作ったな、という印象を持ってしまうことになる。)

デンマークについていうならば、最近のニュースで話題になったこととしては、女性も徴兵制の対象としたことがある。男女平等ということをいうならば、このようなことを避けてとおるということは、もはやできない時代になっているということを、まず理解しておくべきだろう。

完全な非武装論というのはあってもいいが、この議論とはまた別のことである。女性は平和を好むから兵士になるべきではない、というような方向の議論になったりすると、それなら、男性と女性と役割があってもよい、ということになる。

私は、アファーマティブアクション(このことばは、番組の中ではつかっていなかったが)を必ずしも否定はしない。状況によっては必要な場合もあると思う。だが、この結果として、逆に自分たちが疎外されていると感じる人たちを生み出しては、うまく機能しないものである、ということも考えられるべきだろう。

クオータ制は、単に男女だけの問題であるならばいいが、今の時代としては、いわゆるアイデンティティ・ポリティックスにおいて、さまざまな人のことを考えなければならなくなる。性の違いだけではなく、いわゆる人種や民族、宗教、言語、その他、いろんな要素がある。無論、人間を男性と女性とだけに二分して考えることは、現在のいわゆるリベラルな立場からは、もっとも否定されるべき価値観である。

男女の平等を政策的に推進した結果、かえって男女間の対立を生むということにもなりかねない。ある意味では、現代の韓国社会の問題かもしれない。ジェンダーの問題については、普通は欧米先進国という国のことが参照されることが多いのだが、アジアの近隣の韓国や台湾などのことも、考えてみるべきことだと思う。欧米=進んでいる、アジア=遅れている、という価値観がどこかにあると感じることになる。

このようなことを分かったうえで、では、これからの日本はどうすべきか……となると、常識的な考え方をこえるものではなかった。社会の人びとの意識の変化、制度の拡充、それを段階的に進めていくということぐらのところしか、おとしどころはないだろう。

男女の平等ということについては、現代の社会において共通の理解になっていることは確かである。問題は、その理想がどのような状態であれば実現したことになるのか、その具体像について、考え方の一致を見ることがむずかしいことである。それでもなお女性は差別されていると感じる女性はかならずいるだろうし、同時に、これでは逆に自分たちが差別されていると感じることになってしまう、特に社会的に弱い立場におかれた男性という存在のことも考えなければならない。

おそらくは、ロールズの言った正義についての考え方を、さらに深めていくということが必要だろうと思う。

2025年6月1日記

映像の世紀バタフライエフェクト「シリーズ 核の80年(1)核拡散 恐怖と不信の連鎖」2025-06-03

2025年6月3日 當山日出夫

映像の世紀バタフライエフェクト「シリーズ 核の80年(1)核拡散 恐怖と不信の連鎖」

アメリカ
ソ連
イギリス
フランス
中国
インド
パキスタン
北朝鮮

番組のなかで、現在、核兵器を所有している国は、9か国である言っていた。しかし、具体的に名前が出てきたのは、上記の国であり、8か国になる。常識的に考えると、持っている可能性があるが、それと表明していない国として、イスラエルをふくめることになるはずである。

こういう番組をつくる以上、しかたのないことだろうと思うが、どうしてもアメリカのことに内容がかたよりがちである。無論、アメリカの核開発の歴史ということは重要なのだが、核の拡散という視点としては、それ以外の国々が、どういう経緯で核開発にいたったのか、その国家の意思決定、それから、その技術をどのように手に入れたのかということ、これらを総合的に見ることが必要だろう。

ロシアがウクライナ侵攻を始めたとき、ウクライナが核兵器を手放したことの是非について語られたことがあったが、このごろは、あまり言われないようである。

アメリカの核実験に参加した、アトミック・ソルジャーの兵士たちの記録は、その後の追跡調査をふくめて、詳しく調べられているのかもしれない。だが、これも、非常に重要な軍事情報である。一般にオープンになっているものとしては、広島と長崎の被爆者についての資料になるはずである。もし、実戦で使うことを考えるとするならば、かつての実験のときのデータ、兵士たちの、その後の状況(精神的、肉体的)がどうであったか、調べることになるにちがいない。(たぶん、その資料はあるのだろうが、機密扱いにされていると思うのは、かんぐりすぎだろうか。)

敵が持っているから、自分たちも持つことにする……基本的には、この論理で、核兵器の拡散がすすんでいったことになる。

将来的には、そして、(決して理想的ではないことかもしれないが)現実的な路線としては、核兵器使用のためのハードルを少しでも高くするように、国際的な世論をもっていく、という方向しかないのかもしれないとは思う。

軍産学の複合体の問題がある。これは、これからの時代は、AIなどのコンピュータ技術がメインになっていくのだろうが、ただ、国家の枠組みで統制できる範囲を超えたところで、開発競争が進む時代になっていくだろう。技術開発を国家が統制できる時代は、もはや終わったと考えるべきかと思う。

2025年5月30日記