100分de名著「福沢諭吉“福翁自伝” (1)カラリと晴れた独立精神」 ― 2025-09-06
2025年9月6日 當山日出夫
100分de名著 福沢諭吉“福翁自伝” (1)カラリと晴れた独立精神
『福翁自伝』は、これまで2~3回ぐらいは読みかえしている本である。大学生になってから……慶應義塾大学文学部であるが……すぐに読んだということではないと憶えている。これは、同じような経験があると思うことだが、慶應の学生になって、何かことあるごとに、福澤先生(言うまでもないことだが、慶應義塾において、「先生」とつけることが出来るのは、福澤先生だけである、その他の塾員塾生は、公式にはすべて、君、である)、と目にしたり、耳にしたりすると、かえって敬遠するものである。
いつ読んだかはもう忘れてしまったことになるが、とにかく、慶應義塾大学の学生のうちに読んだ。岩波文庫版だったと思う。
とにかく面白い本であることは確かである。やはり面白いのは、大坂の適塾で勉強しているあたりのことだろう。枕を忘れてしまったエピソードは、あまりに有名かと思う。
『福翁自伝』は、福澤諭吉が、かなり手を入れている。加筆訂正した原稿が残っているはずである。どこをどう手をいれたのか、調べてみる機会がなくななかったのだが、それにはまったく手をつけずに過ぎてしまった。
福澤諭吉については、その近代的な合理主義を肯定的にとらえることになることが多い。だが、その一方では、精神的な深み、宗教的な感覚、ということには、まったく無頓着なところがある。こういうところについて、福澤諭吉を好きになれないという人はいるだろう。逆に、徹底的に合理的な主張をとおしているところが、まさに、福澤の福澤たるゆえんと評価することもできる。
国語学、日本語学の立場から見て、福澤諭吉の書き残したものは、いろんな研究の宝庫である。だが、もう、今から福澤研究に手を出そうという気はまったくない。これは、塾の後輩たちが頑張ってくれればいいことだと思っている。
2025年9月4日記
100分de名著 福沢諭吉“福翁自伝” (1)カラリと晴れた独立精神
『福翁自伝』は、これまで2~3回ぐらいは読みかえしている本である。大学生になってから……慶應義塾大学文学部であるが……すぐに読んだということではないと憶えている。これは、同じような経験があると思うことだが、慶應の学生になって、何かことあるごとに、福澤先生(言うまでもないことだが、慶應義塾において、「先生」とつけることが出来るのは、福澤先生だけである、その他の塾員塾生は、公式にはすべて、君、である)、と目にしたり、耳にしたりすると、かえって敬遠するものである。
いつ読んだかはもう忘れてしまったことになるが、とにかく、慶應義塾大学の学生のうちに読んだ。岩波文庫版だったと思う。
とにかく面白い本であることは確かである。やはり面白いのは、大坂の適塾で勉強しているあたりのことだろう。枕を忘れてしまったエピソードは、あまりに有名かと思う。
『福翁自伝』は、福澤諭吉が、かなり手を入れている。加筆訂正した原稿が残っているはずである。どこをどう手をいれたのか、調べてみる機会がなくななかったのだが、それにはまったく手をつけずに過ぎてしまった。
福澤諭吉については、その近代的な合理主義を肯定的にとらえることになることが多い。だが、その一方では、精神的な深み、宗教的な感覚、ということには、まったく無頓着なところがある。こういうところについて、福澤諭吉を好きになれないという人はいるだろう。逆に、徹底的に合理的な主張をとおしているところが、まさに、福澤の福澤たるゆえんと評価することもできる。
国語学、日本語学の立場から見て、福澤諭吉の書き残したものは、いろんな研究の宝庫である。だが、もう、今から福澤研究に手を出そうという気はまったくない。これは、塾の後輩たちが頑張ってくれればいいことだと思っている。
2025年9月4日記
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