『太平記』岩波文庫(四)2020-02-10

2020-02-10 當山日出夫(とうやまひでお)

太平記(4)

兵藤裕己(校注).『太平記』(四)(岩波文庫).岩波書店.2015
https://www.iwanami.co.jp/book/b245755.html

続きである。
やまもも書斎記 2020年2月3日
『太平記』岩波文庫(三)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/02/03/9209750

岩波文庫版で四冊目である。巻二十二が欠巻で、二十三から二十九までをおさめる。

歴史的には、吉野の炎上から、高師直の死までを描くことになる。が、この四冊目を読んで、私にとって興味深いのは、怪異とでもいうべき部分である。楠正成の亡霊が登場する。また、天狗も出てくる。さらには、「未来記」についての記述もある。

おそらく、狭義の「歴史学」という分野においては、切って棄てる部分になるにちがいない。しかし、私は、これこそ、中世の人々の世界だと感じる。『太平記』という書物が、「歴史学」に意味のあるものなのかどうか、これは明治以降において議論のあるところであることは承知しているつもりでいる。この意味において、無意味と捨て去られるような部分においてこそ、私は、『太平記』という「物語」の成立の意味を感じとる。

これは、私の勉強してきたことが、歴史学の周辺にはあっても、狭義の歴史学ではなかったことによるものかと思う。学生のころに、折口信夫や柳田国男を読んだ。いわゆる民俗学につらなる国文学の系譜である。このような視点をおいて見るならば、歴史学から排除されるような部分にこそ、まさに、このような精神世界に中世の人々が生きていた、その息づかいのようなものを感じるのである。

また、国語学、日本語学の分野から見ても興味深い。各種のことばの意味、用法、語法などにおいて、これを用例をあつめて考えてみれば、面白い研究ができるだろう、というところがいくつも目につく。だが、残念ながら、この岩波文庫本は、古本系統の「西源院本」をつかっているのだが、その表記などについては、かなり改めた校訂になっている。そうはいっても、この文庫の本文を見るだけでも、いろいろ興味の種はつきない。

もう私自身としても、国語学、日本語学という研究の分野から引退しようかと思う。これを追求して論文を書いてみたりしようという気にはならないでいる。だが、国語学、日本語学的に見て興味深いものであることは、読みながら思うところである。

ようやく後期の講義も、後は試験を残すのみとなった。つづけて、五冊目を読むことにしたい。

2020年1月28日記

追記 2020-02-17
この続きは、
やまもも書斎記 2020年2月17日
『太平記』岩波文庫(五)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/02/17/9214770