今年読みたい本のことなど(二〇二〇)2020-01-01

2020-01-01 當山日出夫(とうやまひでお)

元日は、今年の気持ち、特に読んでみたい本のことなど書くことにしている。

昨年の暮れから読んでいるのが、宮尾登美子。ふとWEBを見ていて、Facebookだったか、Twitterだったか……誰かが宮尾登美子の『櫂』について書いているのが目にとまった。『櫂』は、若いときに読んでいる。もう一回読んでみようかと思って読んだのだが、面白い。続けて、自伝的な作品である『春燈』『朱夏』『仁淀川』と読んだ。宮尾登美子の作品のいくつかは、若いときに読んでいる。好きな作家であった。が、最近は遠ざかってしまっていた。亡くなっていることも知らなかった。

宮尾登美子は、市井の人間の情感を描いている。それも、老いとか、病とか、死とか……素朴な人間の情感をきめ細やかに描いている。ここは、宮尾登美子の作品を読んでおきたくなった。再読の作品もあれば、未読であったものを新たに読むものもある。

日本の古典文学を読んでおきたい。これまで、勉強……国語学……ということで、主な日本の古典文学は手にしてきたのだが、それをはなれて、純然たる読書のたのしみとして、ページを繰ることをしてみたくなった。昨年は、『源氏物語』『平家物語』『今昔物語集』など読んだ。

『源氏物語』の岩波文庫版が、今年は完結するだろうか。昨年は、新潮日本古典集成版で二回読んだのだが、新しい岩波文庫版の校注で全巻を読んでおきたいと思う。

昨年末からよみはじめているのが、『太平記』。岩波文庫版で六冊になる。新しい校訂である。これは新潮日本古典集成版もあるし、また古い日本古典文学大系もある。『太平記』は、近年になって、再評価がなされているかと思う。「アナホリッシュ国文学」が『太平記』を特集している。これなど手引きとして、『太平記』を読んでおきたいと思う。

これは、「古典は本当に必要なのか」ともかかわる。近世まで、あるいは、昭和戦前まで、『太平記』は「古典」であった。だが、私が国文学、国語学という勉強をしていたころ、日本の「古典」の中心的な存在ではなくなってしまっていたと思う。「古典」とは、常に読まれつづけることによって、新しく読みを加えることによって、再発見、再生産されていくものであると思っている。ただ、自明なものとして「古典」があるのではない。

この「古典」とは何かということについても、これから考えていきたいと思っている。

村上春樹の作品については、その小説(長編、短篇)を読んで、エッセイとか翻訳とかを読んでいる。村上春樹の翻訳は、中央公論新社で、村上春樹翻訳ライブラリーというかたちでまとまって刊行されている。これを順次読んでいきたい。昨年のうちに、レイモンド・カーヴァーなどだいたい読み終えた。のこる作品についても、順番に読んでみようと思っている。

『失われた時を求めて』の岩波文庫版、全一四冊が、昨年完結した。この作品については、一昨年に、岩波文庫版の既刊分(一二冊)を読んで、残りを集英社文庫版で読んだ。『失われた時を求めて』は、他に、光文社古典新訳文庫版でも刊行されている。まだ途中までしか出ていないが、これも、既刊分については読んでみたい。また、読まなかった岩波文庫本の残り二冊についても、読んでおきたい。

さらに思うことは、ミシェル・フーコーを読んでおきたいと思う。名前は知っている。どんな仕事をしたひとなのかも、いろんなところで目にする。だが、これまで、ミシェル・フーコーそのものを、じっくりと読むことがなかった。「近代」というもの、あるいは、「人文学」というものを考えるとき、やはりミシェル・フーコーは必須だろう。これも今年の読書の希望の一つである。

漱石も読み返しておきたい。若いときに買った、一七巻本の古い全集がまだどこかにあるはずである。今度読むときは、これを取り出して読むことにしようかと思う。活版の時代の本である。

その他いろいろとあるが、「古典」「文学」を読むことで時間をつかいたいと思っている。そして、残りの時間で、身近な草花の写真など撮ってすごしたいと思う次第である。

ところで、大晦日の日、たまたまテレビをつけたら、映画『風と共に去りぬ』を放送していた。『風と共に去りぬ』は、これまで三回読んでいる。新潮文庫の旧訳、新訳、それから、岩波文庫である。この作品も、再度読んでみたくなった。

2020年1月1日記

NHK『牡丹燈籠 異聞 「お露と新三郎」』2020-01-02

2020-01-02 當山日出夫(とうやまひでお)

NHK BSプレミアム 牡丹燈籠 異聞 「お露と新三郎」
https://www4.nhk.or.jp/P5858/x/2019-12-28/10/303/2609555/

暮れの28日の放送であったのを、録画しておいて、大晦日の日に見た。

NHKの制作の『怪談牡丹燈籠』は、その放送のときに見ている。

やまもも書斎記 2019年10月10日
NHK『怪談牡丹燈籠』巻の壱「発端」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/10/10/9163196

やまもも書斎記 2019年10月17日
NHK『怪談牡丹燈籠』巻の弐「殺意」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/10/17/9165794

やまもも書斎記 2019年10月24日
NHK『怪談牡丹燈籠』巻の参「因縁」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/10/24/9168365

やまもも書斎記 2019年10月31日
NHK『怪談牡丹燈籠』巻の四「復讐」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/10/31/9171127

今回のこのドラマは、『怪談牡丹燈籠』から、お露と信三郎の話の部分だけを抜き出して、再構成したもの。これはこれとして、独立したドラマとなるように作ってある。

「牡丹燈籠」といえば、「カランコロン」の下駄の音。お露の幽霊の話しがメインのイメージがある。しかし、原作というか、円朝の語った「牡丹燈籠」の話しは、これは、むしろ脇役的で、お国(ドラマでは尾野真千子)の話しの方が本筋ということになる。そして、因果応報の物語である。

もとの『怪談牡丹燈籠』をうまく使って、新しい物語を作ったという印象である。これは、見ていて、やはり、その映像美と音楽の良さに引き込まれるようなところがあった。

だが、強いていえば、特殊メイクや、アクションシンーン、特撮技術など……これらの最新の技術は無くてもよかったような気もしてならない。幽霊となったお露の声など、特殊効果を出さなくても、役者の演技だけで十分に表現することができただろう。また、それができる役者であったと思う。最新の特殊映像技術に凝って作ったのはいいのだが、ある意味では、それがマイナスにはたらいてしまった感じがどうしてもある。

そうはいっても、このドラマ(録画であるが)、一気に引き込まれるように見てしまった。ストーリーの行く末は分かってはいるのだが、そこをどう表現して見せてくれることになるのか、興味深かった。そして、見ながら思ったことは、一〇月の放送(四回)を作った時点で、この「異聞」編のことも考えてあったのだろうか、ということである。それほどまでにこのドラマの完成度は高いと感じるところがある。

二〇一九年のうちに放送があって、録画してあるドラマというと、「ストレンジャー」がある。これについても、追って書くことにしたい。これは、お正月にでも見ることにしよう。

2019年12月31日記

NHK『ストレンジャー~上海の芥川龍之介~』2020-01-03

2020-01-03 當山日出夫(とうやまひでお)

NHK 『ストレンジャー~上海の芥川龍之介~』
https://www.nhk.or.jp/dramatopics-blog/20000/412648.html

昨年末の放送であったものを録画しておいて、正月になってから見た。

見て思ったことを書けば次の二点。

第一に、映像の美しさ。

このドラマ、4K、8Kでも放送することになっている。NHKの映像の美しさを見せたかったのだろう。この観点からは、確かに成功している。映像的な美しさという点では、抜きん出たものがあったといっていいだろう。一〇〇年前の上海の街の映像化ということでは、実に見事であったといえる。

第二に、政治的な配慮。

映像的には美しいのだが、では、このドラマで何を語りたかったのか、そこのところが今ひとつはっきりしなかった。強いていえば、芥川龍之介を題材にして、今からおよそ一〇〇年前の上海を映像化してみせた、それ以上のものを感じるところがなかった。

たぶん、このドラマをつくったことでNHKが失ってしまったものがある。中国側の全面的な協力がなければ、作れない。このドラマを見ながら、どうしても、今の香港のことが頭のなかにあった。NHKは、これから香港の情勢をどう伝えていくことになるのだろうか。

あえていうならば、こうも考えることができようか。あの混迷した中国において、革命をなしとげることができたのなら、これから先の将来、新たな未来……それは民主化といっていいだろう……これを、なしとげることもできるにちがいない。このようなメッセージを、なんとなく感じとってしまうことになった。(ドラマの制作者がそこまで意図していたかどうかはわからないが。)

以上の二点が、見ながら思ったことである。

制作の意図として、日本の中国侵略を描くということもあったのだろう。例えば、日本製の鉛筆を使わないといったようなところ。

だが、これも、芥川龍之介という視点から描くとなると、微妙なところがある。このドラマの時代の数年後、昭和二年に芥川龍之介は自殺している。結局、芥川の視点では、戦争の時代……満州事変以降の本格的な日中戦争……を見ることもないし、また、その後の新しい中国の姿を見ることもなかった。つまりは、芥川龍之介という視点を設定することによって、その後の歴史を封印してしまったかのごとくである。この意味では、中国との共同制作というようなドラマにおいて、絶妙な設定であったのかもしれない。

2020年1月2日記

『アンナ・カレーニナ』トルストイ/望月哲男(訳)(三)2020-01-04

2020-01-04 當山日出夫(とうやまひでお)

アンナ・カレーニナ(3)

トルストイ.望月哲男(訳).『アンナ・カレーニナ』(三)(光文社古典新訳文庫).光文社.2008
https://www.kotensinyaku.jp/books/book62/

続きである。
やまもも書斎記 2019年12月28日
『アンナ・カレーニナ』トルストイ/望月哲男(訳)(二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/12/28/9194579

『アンナ・カレーニナ』の再読、三冊目である。第五部、第六部をおさめる。前冊からは、おおきく物語が展開する。アンナとヴロンスキーは一緒に生活するようになるし、また、キティとリョーヴィンも結婚する。

「大河ドラマ」というのは、NHKがつかっていることばであるが、これになぞらえれ「大河小説」とでも言えばいいだろうか……この世の中のありとあらゆるものを、全部のみこんで、おおきく流れる大河のように小説の物語が進行していく。(このような意味では、むしろ『戦争と平和』の方が、よりそうであると言えるかもしれないのだが。これも、新しい訳が出るようなので、これは楽しみに読みたいと思っている。)

ともあれ、この小説のなかには、人間の生活にまつわるすべてのものがそそぎこまれているように感じる。

ところで、この三冊目を読みながら、ふと、この小説の冒頭の一文が頭にうかんできた……不幸な家庭は、それぞれに異なっている……そう思って見ると、アンナをめぐる生活というのは、いかにも不可思議であり、また、何かしら不運、不幸がつきまとっているような気がしてならない。この世の理不尽をすべてひきうけてしまっているような印象が、どこかつきまとう。(ただ、この第三冊目まで読んだところでは、ヴロンスキーとの生活が破綻するというところまではいっていない。が、その予感を感じさせるところで、次につづくことになる。)

このアンナの生活と対照的なのか、キティであり、ドリーである。一般的にみれば、幸せな家庭生活と言えるのかもしれないが、そこにはそれなりの、なにがしかの苦労があるようにも思える。

結局、人間とは、それぞれにおいて、なにがしか「不幸」なのであり、それぞれの立場で多様な「不幸」(それは、一見すると「幸福」な生活に見えるかもしれないが)、を送っている、そんなふうに思えてきたりもする。

この小説を読むのは、二度目(あるいは、三度目になるだろうか)、最後がどうなるかは知っているのだが、この三冊目まで読んで、その破局とでもいうべき場面にむかってながれていく物語というものを、どこかで感じてしまう。結局は、「不幸」であったアンナという女性を描くことになると理解していいのかもしれない。

それにして、『アンナ・カレーニナ』の成立は、一八七七年……明治10年……である。日本が、明治維新を経て、その最終段階とでもいうべき、西南戦争を戦っていたころのことになる。その時期において、ロシアで、これほどの文学作品が書かれていたことに、ある意味で驚くところがある。

残るは、最後の第四冊目である。続けて読むことにしよう。

2019年12月1日記

追記 2020-01-05
この続きは、
やまもも書斎記 2020年1月5日
『アンナ・カレーニナ』トルストイ/望月哲男(訳)(四)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/01/05/9198302

『アンナ・カレーニナ』トルストイ/望月哲男(訳)(四)2020-01-05

2020-01-05 當山日出夫(とうやまひでお)

アンナ・カレーニナ(4)

トルストイ.望月哲男(訳).『アンナ・カレーニナ』(一)(光文社古典新訳文庫).光文社.2008
https://www.kotensinyaku.jp/books/book70/

続きである。
やまもも書斎記 2020年1月4日
『アンナ・カレーニナ』トルストイ/望月哲男(訳)(三)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/01/04/9197937

『アンナ・カレーニナ』を読むのは、意識しては二回目になる。若いころ、手にしたような記憶が無いではないのだが、さっぱり忘れてしまっている。もうこの年になって、新しい本を読むよりも、「古典」……狭義の文学にこだわらず人文学の古典……を読んで時間をつかいたいと思うようになってきた。この意味においても、『アンナ・カレーニナ』は、何度読んでもいいと感じる。

全巻を読んでの印象は、やはり一九世紀的な恋愛小説だな、ということである。だが、それのみではない。作者(トルストイ)は、この小説の中に、小説という文学の形式に盛り込めるだけのすべてをそそぎこんでいるとも感じる。(それをより強く感じるのは『戦争と平和』なのであるが、これも、新しい訳が出るようなので、それで再読してみたいと思っている。)

前回読んだときには、アンナの最後の死の場面で、もうこれで終わっていいのではないかと感じたものである。が、今回、読んでみて、その後日譚のところにこころひかれる。作者としては、アンナの死の後の登場人物のことまで書いて、この小説は完成する。それだけ、この小説のふくむ範囲は広い。

そして、このようなことは当たり前のことかもしれないが、読後感に残るのは、ある種の宗教的感銘とでもいうべきものである。特におもてだって、宗教……キリスト教……のことが大きく書かれているというのではないが、読み終わって、大きく宗教的な意識の中に回帰していくことを、感じるのである。

私は、ロシアのキリスト教のことについてはうとい。しかし、宗教というものが、何かしら普遍性をもつものであるとするならば、トルストイの作品は、ロシアのキリスト教を描くことによって、宗教一般の普遍性……そのようなものを考えてみるとしてであるが……を、見事に作品のなかにとりこんでいると思える。この『アンナ・カレーニナ』が、ただアンナという女性の恋の物語におわっていない、さらにその外側に、あるいは、さらにその高みに達していると言っていいであろうか。

これからも、「古典」を読んでいきたいと強く感じる次第である。

2019年12月27日記

新潮日本古典集成『源氏物語』(七)2020-01-06

2020-01-06 當山日出夫(とうやまひでお)

源氏物語(7)

石田穣二・清水好子(校注).『源氏物語』(七)新潮日本古典集成(新装版).新潮社.2014
https://www.shinchosha.co.jp/book/620824/

続きである。
やまもも書斎記 2019年12月30日
新潮日本古典集成『源氏物語』(六)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/12/30/9195432

この本を前回読んだときのことは、
やまもも書斎記 2019年3月1日
新潮日本古典集成『源氏物語』(七)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/03/01/9042032

この第六冊目には「総角」から「東屋」までをおさめる。

いよいよ浮舟の登場である。読みながら思うことであるが、この「宇治十帖」になってから、筆致が変わってきていることを感じる。今のことばでいえば心理描写に重きをおき、ああでもないこうでもないと考え続けるこころのうちの叙述が長くなっている。それと同時に、本編でみられた、風景描写であざやかに場面の転換をはかるということが見られなくなってくる。

都で、浮舟が、中の君のところをさって、小さな家に移るあたりとか、それから、宇治に行くあたりとか、本編の方であれば、きっぱりと、風景、季節の風物の描写から、登場人物の心理描写に移っていくであろうところである。

本編と「宇治十帖」でも変わっているが、「宇治十帖」になってからでも、筆致が変わっていっていることが感じ取れる。薫、匂宮、中の宮、それから、浮舟、これらのメインの登場人物のこころのうちを描くことに、この物語の作者のねらいがさだまっていくかのごとくである。

たぶん、浮舟のような登場人物(地方の受領の娘)が、身分の高い男性にみつけだされて、その寵愛をうける……こんな、昔物語が、先行するものとしてあったのだろう。

ここまで読んで来た印象としては、やはり「宇治十帖」は、『源氏物語』本編を書いた作者でなければ書けるものではないと感じるところがある。残りは、最後の八冊目である。

追記 2020-01-13
この続きは、
やまもも書斎記 2020年1月13日
新潮日本古典集成『源氏物語』(八)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/01/13/9201415

NHK 映像の世紀プレミアム 第15集「東京 夢と幻想の1964年」2020-01-07

2020-01-07 當山日出夫(とうやまひでお)

映像の世紀プレミアム 第15集「東京 夢と幻想の1964年」

今年、二〇二〇年の東京オリンピックは、意外と予想外にもりあがって成功ということになるのかもしれない。ふとそんなことが見終わって頭をよぎった。

昨年、NHKの大河ドラマは『いだてん~東京オリムピック噺~』であった。欠かさずに見ていた。「事実をもとにしたフィクション」であるということは分かっていても、やはり、そこには、実際にあったオリンピックの歴史というものを感じるドラマであったことは確かである。

「映像の世紀プレミアム」の第15集は、日本国内の資料映像だけをつかった編集になっていた。これは異例のことかもしれない。(これまでの放送を全部見ているというわけではないのだが。)

ともあれ、一九六四年のオリンピックと、それにまつわる各種のエピソードを、豊富な映像資料で見せてくれていた。特に、田畑政治という人物については、『いだてん』の後半の主人公ということもあって、ある意味で予備知識があった。ドラマではこのように描いていたが、実際の田畑はこのようであった、そんなところも感じさせるところがあった。

見ていて思ったことなど、思いつくままに書いてみる。

新幹線が東京オリンピックに間に合わせるように開発されたことは知っていた。だが、その開発にたずさわった技術者たちが、旧陸海軍の技術者たちであったことは知らなかった。特に、その車体のデザインのもとになったのが、特攻兵器である桜花に由来するということは、感慨深い。その新幹線も、モデルチェンジして、開業当時のものはもう走っていない。

時代でいえば、一九六四年までの時代……昭和三〇年代、ということになろうか。その時代の東京を私は知らない。一九五五年、昭和三〇年の生まれであるから、なんとなく、記憶にはある。住んでいたのは、京都の宇治市である。テレビなどによる報道の記憶としてはもっている。だが、実際の体験として、昭和三〇年代の東京というものは知らない。

この時代について、映画『ALWAYS 三丁目の夕日』などでは、非常にのどかな時代として描いている。この映画は、今でも、時々テレビで放送していたりする。今からふりかえって、昭和三〇年代の東京を、どのようなイメージで語るか、これはこれとして興味深いものがある。

この意味で、昭和三〇年代の東京が、東京オリンピックを前にして大改造、激変の時代であったことが、今回の放送を見ていて理解される。また、決して、過去の東京が、そんなに牧歌的な時代ではなかったともいえるかもしれない。たとえば、街中いたるところにゴミが捨てられていたなど、このような点についていえば、今の東京は、ずっときれいな街になっているといえるだろう。

慢性的な東京の道路渋滞。これも『いだてん』では描かれていたことである。それを解消するために、道路整備、高速道路の建設となる。日本橋も、その上を道路が走ることになった。私が東京で生活するようになったとき、すでに日本橋の上には首都高が走っていた。言われてみなければ、それが川であり、日本橋という橋ということもわからない状態であった。

「売血」ということばは知っていた。だが、それが東京オリンピックのころまで普通におこなわれていたことは知らなかった。また、ライシャワーの件も。(今では、アメリカのハーバード大学には、ライシャワー日本研究所がある。)

『いだてん』で、どう描くか興味があったのが、円谷幸吉である。マラソンの銅メダルである。だが、その死については描くことがなかった。ここを「映像の世紀プレミアム」で、どう描くか興味があったのだが、これも、描くことがなかった。(これは、ちょっと残念に思う。)

私にとって、東京オリンピックでもっとも印象にのこっているのは、女子バレーボールであると同時に(これは、テレビで見ていた)、円谷幸吉の最期でもある。いや、その当時は、その死を単なるニュースのひとつとしてうけとめていたにすぎなかったが、後になって、オリンピックのことについて思いをはせるとき、どうしても思い浮かぶのが、円谷幸吉である。いやおうなく国家というものを背負ってしまうことになった若者の悲劇として、心に残っている。

一九六四年の東京オリンピックによって、東京の街は大きく変わった。では、二〇二〇年のオリンピックでどうなるであろうか。もはや、高速道路や、新幹線などのインフラ整備の時代ではない。ひょっとして、つかのまの喧噪に終わって何も変わらないのかもしれない。だが、私は、何も変わらなければ、それはそれでいいと思う。

日本のいい時代は、東京オリンピックから万博までの間だったかもしれない……このように、自分の生きてきた時代をふりかえって思う。二〇二〇に再度東京オリンピックがあり、またその後には、大阪では万博を開催することになっている。ここは、ただ、過去の夢を再びということではなく、このような大イベントがあっても、それでも変わらない日常というものがあるならば、それこそ、貴重なわれわれの財産であると思うのである。

山茶花2020-01-08

2020-01-08 當山日出夫(とうやまひでお)

今年も水曜日は花の写真の日にするつもり。今日は山茶花である。

前回は、
やまもも書斎記 2019年12月25日
ハゼノキ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/12/25/9193563

この花については、以前にも掲載している。

やまもも書斎記 2017年11月29日
山茶花
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/11/29/8736631

毎年、秋の終わりから冬にかけて花を咲かせる。この花を朝ごとに写真に撮っていたときもあったりした。今年の冬は、主に千両と万両の実を写すことにしている。

写真にとってみると、花が咲いたときよりも、まだつぼみのとき、あるいは、ちょっと花がひらきはじめたときの方が、写真になるように思える。花はたくさん咲くのだが、葉にひっかかったりして、きれいに花を咲かせるのは少ないようだ。さらに、それが、写真にとれるように咲いてくれるのは、さらに少なくなる。

山茶花は、椿とちがって、花びらが散る。地面を見ると、散ったピンク色の花びらが、あちらこちらに見える。地面に散った山茶花の花もまた、見るとそれなりに風情のあるものである。

山茶花

山茶花

山茶花

山茶花

山茶花

Nikon D500
AF-S VR Micro-Nikkor 105mm f/2.8G ED IF-ED

2020年1月6日記

追記 2020-01-15
この続きは、
やまもも書斎記 2020年1月15日
梅の冬芽
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/01/15/9202194

『櫂』宮尾登美子2020-01-09

2020-01-09 當山日出夫(とうやまひでお)

櫂

宮尾登美子.『櫂』(新潮文庫).新潮社.1996(2005.改版) (筑摩書房.1973.1974)
https://www.shinchosha.co.jp/book/129308/

ふと思い立って……まあ、私の場合、本を読み始めるのは、ふと思い立ってということが多いのだが……今は、宮尾登美子を読んでいる。

宮尾登美子は、若い時によく読んだ。その作品の多くは、映画化されていたり、TVドラマ化されていたりする。映画のいくつかについては見たことを憶えている。

その宮尾登美子の作品で、最初に読んだのは、たしか『櫂』であったのではなかったろうか。自伝的な作品であり、また、作者の出世作と言っていいだろう。

土佐の高知の街の、楊梅(ヤマモモ)売りの行商の場面からはじまる。これは憶えていた。印象的な場面である。ここからはじまって、息の長い文章がつづく。現代的な歯切れのいい文体というのではない。登場人物……喜和という女性……のこころのうちを、行ったり来たりしながら、緩やかに作品は進んでいく。

喜和の夫の岩伍は、「紹介業」である。ありていに分かりやすいことばでいえば、「女衒」である。その岩伍を夫として持つ、喜和という女性の日常生活、家族への思い、夫への気持ち、これが、実に密度の濃い文体でじっくりと描かれる。

再読であるが、その描写の印象的なところは憶えていた。が、今回、読みなおしてみて気付いたところを書いておくと、次の二点がある。

第一に、主人公の喜和は、文字が仮名しか読めない。漢字が読めない。いわば、リテラシに欠如しているという設定。近代日本、日本語におけるリテラシの問題は、未解明の部分が多いと思っているのだが、おそらくこの作品に書かれている、喜和のような人びとは、近代においても多くあったのだろうと思う。

これに対して、夫の岩伍は字の読み書きができる。だからこそ、面倒な書類作成の事務をすることができるし、「紹介業」……芸妓娼妓についての……の鑑札をもらうこともできたとある。

第二に、宮尾登美子の文章を久しぶりに読んでみて、こんなにもオノマトペを豊富につかう作家であったかと、認識をあらたにした。オノマトペは、日本語の語彙の特徴と言ってよい。それを、実に効果的に文章、それも地の文のなかに、数多くつかってある。

これは読みながら付箋を付けてみようかと思ったのだが、それをすると、本が付箋だらけになってしまう。あえて付箋はつけずに読み進めることにした。

宮尾登美子は、高知方言をたくみにつかう。が、オノマトペの使用については、特に高知方言とは関係ないようである。これは、機会をつくって、改めて調査してみる価値があるかもしれない。

以上の二点が、今回、再読してみて思ったことである。

国語学的、日本語学的に見ても、この作品は興味深いところがある。だが、それよりも、この作品を読み終えた後の残る、静かな文学的感銘は、言いようのないものがある。このような女性の生き方が、かつての日本……すでに近代と言ってよい時代だが……において、高知の地であったのか、と思う。

この『櫂』は、宮尾登美子の書いた自伝的な作品の第一冊目になる。つづいて、描かれた年代順には、『春燈』とつづく。娘の綾子はどうなるのだろうか。以前に『朱夏』など読んで知っているのだが、ここは、年末の読書ということで、宮尾登美子の作品を集中的に読んでみようとかと思っている。調べてみると、未読の作品がかなりある。また、再読しておきたい作品もある。

2019年12月19日記

追記 2020-01-10
この続きは、
やまもも書斎記 2020年1月10日
『春燈』宮尾登美子
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/01/10/9200266

『春燈』宮尾登美子2020-01-10

2020-01-10 當山日出夫(とうやまひでお)

春燈

宮尾登美子.『春燈』(新潮文庫).新潮社.1991(2007.改版)
https://www.shinchosha.co.jp/book/129305/

続きである。
やまもも書斎記 2020年1月9日
『櫂』宮尾登美子
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/01/09/9199891

上記の本の書誌を書いて、HPを検索してみたのだが、新潮社のHPには、「置屋の娘に生まれた綾子の青春時代。」と書いてある。これはおかしい。父の岩伍の商売は、芸妓娼妓紹介業である。別のことばでいえば、女衒である。置屋ではない。

新潮社のHPが間違うぐらいだから……すでに、この芸妓娼妓紹介業というものが、すたれて久しいというべきであろう。

その父の職業についての、反発、嫌悪という感情。そして、同時にある、土佐で知らぬ人のない岩伍の家の娘としての誇り、自尊心……このアンビバレントな感情のゆれうごきを、実に見事にこの小説は描き出している。

時代背景は、昭和になって日中戦争がはじまったころから、太平洋戦争の開戦、そして、徐々に戦局が不利になり、生活が逼迫していく時代である。この時代に、本来なら多感な思春期をむかえるであろう少女……綾子……は、ある意味でかたくなである。家の稼業が芸妓娼妓紹介業ということをどうしても意識してしまう。あるいは、その親の影響が常につきまとう生活を、心底嫌ってもいる。だが、同時に、きまま、わがままな娘でもある。ただ、勉強はできる。

勉強はできるといっても、小学校を出てから、第一高女の試験に落ちてしまう。これは、ひょっとして、家の稼業のせいか、綾子はこのことを悔やむ。学校でも、生徒のなかで人望があり、成績もいいのだが、教師との関係はどうもうまくいかない。

最終的には、女学校を終えて、国民学校の代用教員ということで、山間の僻地の学校に赴任することになる。が、ここでも、親の影響を感じる生活がつづく。そこにおこった結婚話。綾子は、自由になるため、親の岩伍から今度こそ離れるために、結婚を決意することになる。

作品の発表順からいうと、この『春燈』は、次の『朱夏』より後になって書かれている。私は、『朱夏』は読んだと憶えているのだが、この『春燈』は、今回がはじめてである。無論、これは、『櫂』からつづく、自伝的作品の系譜につらなる。

『櫂』につづけて、この『春燈』を読んだ。『櫂』は、母親(本当の生みの母ではないが)の喜和の視点で描かれていた。『春燈』になると、視点が完全にきりかわって、娘の綾子になる。ところどころ、内容的には重複する記述がある。これは、自伝的作品を、視点を切り替えて書くということからくるものである。

それにしても、『春燈』を読んで思う、よく作者(宮尾登美子)は、このような作品を書いたものであると。自伝的作品ということで、どうしても、読者は綾子に宮尾登美子のイメージを重ねて読んでしまうことになる。それを承知のうえで、ここまで、主人公の綾子のこころのうち、それも非常に錯綜し、アンビバレントな性格の複雑な人物を、克明に描きだしたことに感服する。

あるいは、つづく『朱夏』を書き得たからこそ、さかのぼって綾子の生いたちを描くことができたのかもしれない。また、『岩伍覚え書』のような作品を書いて(これは、私も読んでいる)、父の職業について、歴史的、社会的に、位置づけることができたから、その娘の綾子の視点で、その成長について語ることができたのかとも思う。

続けて『朱夏』である。これは、確か、本が出たときに買って読んでいる。新しい文庫本で、再度読んでみることにしたい。

2019年12月21日記

追記 2020-01-14
この続きは、
やまもも書斎記 2020年1月14日
『朱夏』宮尾登美子
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/01/14/9201803