フロンティア「イースター島 モアイの真実」2024-10-25

2024年10月25日 當山日出夫

フロンティア イースター島 モアイの真実

東京に住んでいたころ、渋谷にあるモアイ像の前はなんども通っている。しかし、これが、日本とチリとの関係……津波の災害復旧に援助した……ということから、日本にだけ、特別に許されたモアイ像であることは知らなかった。それから、日本の各地にたくさんのモアイ像があるということも、この番組で知った。

モアイ像を動かすのに、左右からひもで交互にひっぱって揺らして前に進めるというのは、何かで読んだかと思うのだが、映像として見るのは初めてである。たぶん、こんなふうにして動かしたのだろう。(確証があっていえることではないかもしれないが。)

イースター島の歴史、昔は繁栄していたが、人口が増えすぎてそれが環境破壊をもたらし、人が減った……これが、近年になってから作られた歴史であることは、なるほど、その時代の背景を考えてみれば、そうかなと思う。これも、炭素の同位体を調べることで、島に昔からどれくらいの人間が住んでいたかを、はっきりと示すことができるようになって、だいたい三〇〇〇人ぐらいが住んでいたことになるらしい。

島の人口が激減したのは、スペインによる支配に起因する。直接的には、病原菌によるものということになる。これは、世界的な規模で起こったことの一つと見ることもできようか。

トール・ヘイエルダールのコンティキ号の航海のことは、憶えている。(考古学、人類学、歴史学の仮説を検証してみるために、実際に航海してみるというようなことは、その後もいろいろと行われてきたように思うのだが、どうだったろうか。)

今のイースター島の人びとの遺伝子解析によって、ポリネシア系、スペイン系のみならず、南米からやってきた祖先もいたことになる。このような研究は、現在、いろんなところで行われているだろう。地球全体で、人類がどのように移動して暮らしてきたのか、その全体像が見えるのも遠い将来のことではないだろう。人類史、歴史学にとって、大きなパラダイムの転換になるかもしれない。ただ、そうなったとき、「想像の共同体」としての国民国家、民族、ということが、改めて問題になるかとも思う。

未解読の文字が残されていることは興味深い。これが、今につたわることばを記したものならば解読できる可能性はゼロではない。だが、一行を書くごとに、読むごとに、板をひっくりかえさなければならないというのは、あまり合理的とは思えない方式なのだが、どうしてこのような方式で文字を書くことになったのだろうか。

2024年10月20日記

「Story of My Hair」2024-10-25

2024年10月25日 當山日出夫

ミニドキュメンタリー Story of My Hair

ことばの問題としては、「カーリーヘア」といっていることがまず気になる。昔風のいいかたをすれば、くせ毛とか、天然パーマ、とかになる。どういってもいいようなものかもしれないが、それをどう称するかで、PC(政治的タテマエ)に反すると、なにかしらのペナルティを科せられる(と、意識されるような)社会なので、まあ、今はこういう言い方をしていることになる。これも、時代が変わると、また変化していくことにはなるだろうが。

登場していたのは、全員が女性。これも、意図的にそのように編集して番組を作ったのだろうと思う。カーリーヘアの問題は、別に女性だけのことではないはずである。むしろ、女性の方がファッションとして社会が受け入れてくれる余地があるだけ、男性よりも楽なのかもしれないと思う。

この店は、東京の恵比寿にあるという。この土地柄ならではのビジネスかなという気もする。

番組中に出てきたことばで、ブラックミックスがある。ざっくばらんに言いかえるならば、黒人との混血ということになる(かなり、古めかしい表現になるが)。このことばも、PC(政治的タテマエ)の観点から、正しい言い方ともいえるし、また、否定的にもとらえることができる。というよりも、このようないわゆる人種にかんすることで、人間をカテゴライズすること自体が意味がない、というべきかもしれない。

登場していた人たちのことばを聞いていると、日本語が母語ということでいいのだろうと思う。ということは、これまで日本の社会のなかで育ってきたということだろう。日本の社会のなかに、このような人たちがいるということ、それを強いて特別にカテゴライズする必要もない、ということかなと思う。

2024年10月24日記

「ロフティング“ドリトル先生航海記” (3)「ナチュラリスト」の条件」2024-10-25

2024年10月25日 當山日出夫

100分de名著 ロフティング“ドリトル先生航海記” (3)「ナチュラリスト」の条件

今の社会の基本的な考え方として、人間というものを、究極的には、遺伝子かあるいは脳の働きにもとめることになっているのだろうと思う。これはこれで一つの考え方には違いないと思うのだが、それだけでは理解しきることのできない部分があることについては、謙虚であるべきだろう。

一つには、地球全体の生態系のなかにおける人間というものであり、生命の営みということである。

もう一つは、人間に固有のものかとも思うが、人間は社会的文化的文脈のなかに生きるものであるということである。

このようなことを無視して、一個人の自由意志至上主義という傾向にあるのが、今日の人間の生き方の一つになりつつあるように思える。

確かに子どものときに、昆虫に興味を持つということは意味のあることである。別に昆虫に限らないかもしれないが、植物であってもいいだろうが、自然についての好奇心や探究心は、大切なものだと思うことになる。

人間や生物をあまりに機械のように考える生命観には、問題があるということは、理解できるつもりではいる。昔は、人間は機械、特に蒸気機関のアナロジーでとらえていたものが、今では、コンピュータにたとえるようになってきている、というのが今の一般の考え方かもしれない。最近の急速なAIの発達は、人間とコンピュータとの関係をよりいっそう近いものとして、とらえる方向にむかっていくことになるだろう。

ところで、ここまで、この番組を見てきて感じることなのだが、「ドリトル先生」の物語の背景には、やはり大英帝国の世界支配ということがあると感じるところはある。また、言語ということについても、たとえば『マイ・フェア・レディ』を思い浮かべるところがある。

見ていて思いだしたのが、嵐で遭難したドリトル先生が、悠然とガラス片で髭をそっているシーン。昔読んだ本のなかに、このような場面があったことを憶えている。私にとってドリトル先生は、動物のことばが分かる人であるよりも、困難な状況にあっても、それを受け入れて泰然自若としている人として認識していたことになる。

2024年10月23日記