『おむすび』「結婚って何なん?」2025-01-12

2025年1月12日 當山日出夫

『おむすび』 第14週「結婚って何なん?」

結局、結と翔也は、この週で結婚することになる。

このドラマをここまで見てきて思うことは、褒めるならば非常にテンポがよくて分かりやすいドラマだということになるし、否定的に見るならば細部の描き方が雑であるということになる。

良かったと感じるところは、翔也と結婚するときに、その姓をどうするか、ということについて、翔也と結、それから、双方の家族、それぞれに考えることを、等分に語っているように作ってあったことがある。現代でも、一般的な習慣としては、男性の姓にすることが多いのだが、それを否定するのでもなく、そういうものだと強制するのでも、それぞれの立場から思うことを言っていた。ただ、姓をどうするかということと、ムコになるということとは、ちょっと違うことではあると思うのだが。

ちょっと雑だなと思ったところは、炊飯器の試食のところ。一〇〇人が絶対に必要ということではなく、サンプリングとしての適正な規模がどれぐらいか、ということでなければならない。多すぎても意味がないし、少なすぎてもダメである。統計的に意味のある判断をくだすために、どれぐらいのサンプルが必要なのか、これを事前に考えなければならない。また、アンケートには、性別、年齢、などは基本的要素だろう。また、試食の時間も重要であるはずである。昼過ぎの時間の一般の社員と、夕方になってからの野球部員とでは、違うだろう。試食のとき、炊きたてであたたかい状態か、冷めた状態か、これなども、事前に考えておくべきことである。そもそも、この炊飯器の開発が、会社の大きなプロジェクトなら、会社の命令として、社員の仕事の一部として行われるべきものである。このようなことを思うと、炊飯器のくだりは、どうも雑に作ってあったとしか思えない。

それから、社食で規格外野菜を使うことにするところも、どうかなと思わないでもない。社食としては、食材の安定した仕入れを考えることになるはずだが、規格外野菜にそれをもとめるのは、ちょっと無理ではないだろうか。一部のメニューに、本日のスペシャルとして地元産野菜というぐらいかなと、思う。

さて、次週、米田結が、四ツ木結になるのどうか、ということになる。管理栄養士になると予告で言っていたが、これは、ちょっと勉強が大変である。

2025年1月10日記

『カーネーション』「揺れる心」2025-01-12

2025年1月12日 當山日出夫

『カーネーション』 「揺れる心」

この週も印象にのこるシーンがいくつかあった。

まずは、奈津のこと。パンパンをしていた奈津を糸子は安岡のおばちゃんの力をかりて、更生(?)させることになる。その奈津に対して、安岡のおばちゃんは、もう過去のことは言うなと止める。また、糸子も、奈津との恩義はチャラにすると言う。数少ない科白のなかで、岸和田の商店街の人びとが、奈津をもとのように受け入れる気持ち、その優しさが、たくみに描かれていたと感じる。

久しぶりに組合の会合に出て、糸子は、組合長から北村を紹介され、レディーメイドの婦人服の店を立ち上げる手伝いを頼まれる。ここで、糸子は、周防と再会することになる。

糸子は、婦人服のビジネス、女性のおしゃれ、ということについて、北村に説明することになる。ここはことばで言うのではなく、北村を自分の店につれてき、その商売の様子を見せる。

今の時代だと、特に女性だからどうこうという言い方は、あまり表だっては言われないようになってきているが、戦後まもなくのころの日本の社会としては、女性が女性らしくおしゃれできることが、時代が変わったことの象徴でもあったことになる。そして、重要だと思ったことは、糸子は、女性のおしゃれについて、パンパンの女性たちを、決して否定していないことである。むしろ、そのおしゃれのセンスを肯定的に語っていた。

奈津に対することと矛盾するかもしれないが、人間としての生き方と、おしゃれの感覚とは別物と考えていることになる。この二面性を、素直に描いているところが、このドラマの人間観の奥行きといっていいだろう。

週の最後の組合の宴会のシーンで、組合長が、新しい時代になったと感慨ぶかげに言っていた。具体的に、戦争中に何があったのか、何をうしなったのかは、語っていない。北村についても同じであり、周防についても、長崎でどんな体験をしたのかは、具体的に語られることはない。しかし、戦争が終わって新しい時代になったことを、宴会のシーンで糸子は感じとることになる。こういうことは、特に説明することではないと思う。周防が、長崎の原爆でどんな体験をしてきたのか、説明されない、ただ三味線を弾いている、仕事をしている、その姿から、人生を推しはかることになる。見るものの想像力にまかされることになる。こういう描き方の方が、より説得力のあるドラマになる。

具体的に時代が変わったことを示すのは、だんじりを直子がひくことができるようになったことであった。ただ、これだけのことで、確実に社会の価値観が変化してきたことを印象づけている。

このドラマで、糸子が洋服を着たのは、週の最後の回で周防に会いに行ったときが、初めてになるはずである。それまで、洋装店の店主でありながら、ずっと着物姿だった。それが、始めて洋服を着るときが、周防に気持ちを打ち明ける場面に設定されている。

周防に抱擁されたときの、糸子の目の表情がとてもよかった。

2025年1月11日記

『カムカムエヴリバディ』「1948-1951」2025-01-12

2025年1月12日 當山日出夫

『カムカムエヴリバディ』 「1948-1951」

最終的に、安子、ローズウッド、雪衣、勇、それからるい、また算太、これらの人物がどのような人生をあゆむことになるのか、(最初の放送を見て)知っている。だからということもないが、それぞれの人物のこころのうちが、さりげなく描かれ、気持ちの変化をたどることができる。やはり、よく出来たドラマだと感じるところである。

印象に感じるシーンがいくつかあった。

算太が帰ってきた。今の用語でいえば、戦場のトラウマをかかえている。それを、美都里がやさしくうけとめる。廊下の二人を、安子、千吉、勇、がじっとみつめている。余計な科白はなかった。こういう場面は、説明しない方がいい。

神社の境内での、ローズウッドと安子との会話。「こもれび」というのは英語には無いとローズウッドが言っていた。そんなものかなと思う。自然の現象としてはあるはずだが、それを認識してどのようなことばで表現するかは、言語によってことなる。構造言語学の立場からは、ごく自然なことである。

そのこもれびの境内で、安子とローズウッドが影から影へと跳びはねるシーンが、とてもいい。まさに、こもれびのなかで撮影する価値のある場面である。

千吉は、勇に安子と結婚しなさい、と言う。これは、この時代においては、戦争未亡人となった安子の身の振り方としては、自然なことであったと言うべきであろう。だが、最終的に安子がどう判断することになるかは、このドラマの展開の大きな転換点になる。

神社の座敷のなかで、テーブルをはさんで、安子とローズウッドが英語の教材を考えるシーンがいい。背景が障子だったのだが、そこに庭の竹の影がうつっている。それが、風が吹いてそよいでいる。この週で出てきた、こもれび、ということばとあいまって、非常に効果的な背景となっている。

2025年1月10日記