「それでも故郷に花は咲く〜能登・限界集落の1年〜」 ― 2025-01-14
2025年1月14日 當山日出夫
NHKスペシャル それでも故郷に花は咲く〜能登・限界集落の1年〜
数日前のニュースで、輪島市、珠洲市の、人口の実態を、携帯電話の位置情報で調べてみたところ、四割ぐらいの人口減少であったことが分かった、と言っていて、はっきり言って驚いた。なぜ驚いたかというと、その地区に今現在どれほどの人が住んでいて、これからどうなるのか、という実態の把握なしに、これからの計画はたてられないはずなのだが、その基本となるデータがニュースで報じられたのは、私が知るかぎり始めてだったからである。これまで、タテマエ上のデータとして、住民票が残っていればそこに人が居住するというような、(強いていえば)架空の希望的観測の資料で、ものを考えていたことになる。(実態として人口が減少しているという事実を報じることは、より一層の人口減少をすすめることになるという懸念があってのことだとは思うが、事実をはっきり見ようとしないというのは、はっきりいって、太平洋戦争当時の社会と変わらないと思うことになる。)
いずれ、この地区は限界集落として終わりをむかえることになる。それが早まっただけである。そう考えて、その先の地域(奥能登あたり)に、どのような生活が可能か、具体的なプランを考えるべきであり、それは、行政の責任であり、また、マスコミもこのことについて、きちんと報道するべきである、というのが私の考えるところである。今の時代、えてして、このようなことを言えば、被災地の人たちを見捨てるのか、と非難されがちであるが。
総合的に考えて、島国としての日本の国土を考えれば、海岸線沿いの道路の整備は必要ということはいえるだろう。そのうえで、山間部の僻地(といっておくことにするが)への交通アクセスが、どれほど必要になるのか、ということについて、考えることになるだろう。
日本全体で、これから人口が減っていく。問題は、どこの地域で、どれぐらいのスピードで人口が減っていくのか、ということでしかない。能登の地域だけ、旧来と同じ規模の人口でありつづけなければならないとするのは、非現実的であるといわざるをえない。
その未来の日本のプランを、誰が、どういう立場で、どのように具体的に語ることになるのか、ということが、最大の課題である、と私は考える。
前にも書いたことだが、今の日本において、最低限の生活のありかた……それは、道路があり、電気があり、水道があり、電話があり、ネットにつながり、教育、福祉、介護、医療、それから、日常的な買物など、これらのインフラが整備されていいなければなりたたない。自動車が必需品ということは、自動車整備工場もガソリンスタンドも必要ということである。今から二〇〇年前の江戸時代なら、山間部の僻地であっても、人と馬の通れる道があれば、かろうじて人間の生活はなりたったかもしれない。しかし、もはや、そのような生活に戻ることはできない。限界集落に住むことを強制するようなことは、非人道的であるといわざるをえない。これを、個人の居住の自由、自由意志の尊重ということはできない。
そこに生まれ育ったことは、宿命である、と受け入れざるをえないのが、人の気持ちというものであろう。国や社会にできることは、その終わりをどうするか、具体的な選択肢を用意することである。
これは、能登半島だけの問題ではない。これから、一〇年後、二〇年後、全国のいろんなところで考えなければならない問題である。まさに今こそ考えるべきときである。
余計なことかもしれないが、このような番組を見て深く感じるところがあるのは、そのような集落に住む人にたいして、同じ日本の国民の一人である、という共同体意識のようなものが、根底にあってのことかと、自ら感じる。
2025年1月12日記
NHKスペシャル それでも故郷に花は咲く〜能登・限界集落の1年〜
数日前のニュースで、輪島市、珠洲市の、人口の実態を、携帯電話の位置情報で調べてみたところ、四割ぐらいの人口減少であったことが分かった、と言っていて、はっきり言って驚いた。なぜ驚いたかというと、その地区に今現在どれほどの人が住んでいて、これからどうなるのか、という実態の把握なしに、これからの計画はたてられないはずなのだが、その基本となるデータがニュースで報じられたのは、私が知るかぎり始めてだったからである。これまで、タテマエ上のデータとして、住民票が残っていればそこに人が居住するというような、(強いていえば)架空の希望的観測の資料で、ものを考えていたことになる。(実態として人口が減少しているという事実を報じることは、より一層の人口減少をすすめることになるという懸念があってのことだとは思うが、事実をはっきり見ようとしないというのは、はっきりいって、太平洋戦争当時の社会と変わらないと思うことになる。)
いずれ、この地区は限界集落として終わりをむかえることになる。それが早まっただけである。そう考えて、その先の地域(奥能登あたり)に、どのような生活が可能か、具体的なプランを考えるべきであり、それは、行政の責任であり、また、マスコミもこのことについて、きちんと報道するべきである、というのが私の考えるところである。今の時代、えてして、このようなことを言えば、被災地の人たちを見捨てるのか、と非難されがちであるが。
総合的に考えて、島国としての日本の国土を考えれば、海岸線沿いの道路の整備は必要ということはいえるだろう。そのうえで、山間部の僻地(といっておくことにするが)への交通アクセスが、どれほど必要になるのか、ということについて、考えることになるだろう。
日本全体で、これから人口が減っていく。問題は、どこの地域で、どれぐらいのスピードで人口が減っていくのか、ということでしかない。能登の地域だけ、旧来と同じ規模の人口でありつづけなければならないとするのは、非現実的であるといわざるをえない。
その未来の日本のプランを、誰が、どういう立場で、どのように具体的に語ることになるのか、ということが、最大の課題である、と私は考える。
前にも書いたことだが、今の日本において、最低限の生活のありかた……それは、道路があり、電気があり、水道があり、電話があり、ネットにつながり、教育、福祉、介護、医療、それから、日常的な買物など、これらのインフラが整備されていいなければなりたたない。自動車が必需品ということは、自動車整備工場もガソリンスタンドも必要ということである。今から二〇〇年前の江戸時代なら、山間部の僻地であっても、人と馬の通れる道があれば、かろうじて人間の生活はなりたったかもしれない。しかし、もはや、そのような生活に戻ることはできない。限界集落に住むことを強制するようなことは、非人道的であるといわざるをえない。これを、個人の居住の自由、自由意志の尊重ということはできない。
そこに生まれ育ったことは、宿命である、と受け入れざるをえないのが、人の気持ちというものであろう。国や社会にできることは、その終わりをどうするか、具体的な選択肢を用意することである。
これは、能登半島だけの問題ではない。これから、一〇年後、二〇年後、全国のいろんなところで考えなければならない問題である。まさに今こそ考えるべきときである。
余計なことかもしれないが、このような番組を見て深く感じるところがあるのは、そのような集落に住む人にたいして、同じ日本の国民の一人である、という共同体意識のようなものが、根底にあってのことかと、自ら感じる。
2025年1月12日記
英雄たちの選択「筆一本で乗り越えろ!作家・滝沢馬琴の奮闘」 ― 2025-01-14
2025年1月14日 當山日出夫
英雄たちの選択 筆一本で乗り越えろ!作家・滝沢馬琴の奮闘
この時期に馬琴をとりあげるのも、やはり『べらぼう』にあやかってという企画なのかなとは思う。
まず気になったのは、この回のタイトルである。馬琴について、滝沢馬琴というか、曲亭馬琴というか、微妙に立場が別れる。読本の作者ということに焦点をあてれば、曲亭馬琴ということになるはずだが、ここでは、滝沢馬琴といっている。その理由は、番組を見ていて理解できる。
武士である滝沢の家を背負った存在としての馬琴の生き方、ということを考えている。これも、一つの見方だろうと思う。
磯田道史は、子どものときに『八犬伝』を読んだと言っていたが、どの本で読んだのだろうか。今なら、『南総里見八犬伝』は、岩波文庫、新潮日本古典集成などで、新しい校訂本で読むことができる。古典のテキストについては、どの校訂本で読んだのか、明らかにするのが普通であるが(国文学、日本文学の分野としては。)あるいは、板本で読んだということなのだろうか。これは、子どもが読むには難しいと思うけれど、もしそうなら、これはすごい。
現在では、『南総里見八犬伝』をもとに、マンガ版が作られているし、著名なところでは、山田風太郎の『八犬伝』がある。(これは、山田風太郎の伝奇小説というべきで、八犬伝のストーリーと、馬琴の人生とを、交互に描いて、一つの作品にしてある。)
この時代の戯作、黄表紙や読本についての文学史的な概説がまず必要ということになる。蔦屋重三郎の時代であり、それから、少しくだったころまで、になる。
黄表紙が基本的に平仮名表記で、絵と一緒になった文章であったのに対して、読本になると、漢字が増える。そして、総ルビというわけではない。このことについては、日本語学として表記研究の分野として、どの漢字にどう振り仮名があり、無い場合はどうなのか、ということが研究課題になる。これは、これらの作品の読者のリテラシについて考えるこになる。
馬琴については、原稿料で生活できた作家のはじめ、ということで語られることが多い。また、晩年、失明してからは、息子の嫁のお路による口述筆記であったことも、知られていることである。それから、作家として生きていくために、武士の身分から、町人になったことも重要だろう。
馬琴にとって、武士としての滝沢の家を残すことは、意味があったことになる。江戸に居住する武士としては、最下層の身分ではあるが、容易には捨てがたいものだったのだろう。
このあたりのことは、山東京伝をはじめとして、他に生計のたづきをもっていた戯作者などをふくめて、この時代の人びとを総合的に考える必要があることになる。
江戸時代の後期になって登場する豪商や豪農という人びとが何を考えて、どれぐらいの社会的影響力を持っていたのか、これは、興味のあるところである。おそらく、近代へとつながる何かがあるはずである。(ただ、この観点からは、島崎藤村の『夜明け前』の主人公の青山半蔵のような存在も、考えてみたいところである。)
ところで、『南総里見八犬伝』の読者の近代史ということは、どれぐらい研究されているのだろうか。普通の文学史で語ると、江戸時代の読本というなかに位置づけられるのだが、その読書の歴史は、近代にまで及んでいる。読まれ続けている。(調べれば、しかるべき研究論文はあるのだろうと思うけれど、もうリタイアした身としては、調べてみようという気にならないでいる。)
「八犬伝」の物語が、超自然的ななにかにみちびかれた少年たちの友情の物語である……ということは、たしかにそのとおりであろう。私は読んでいないが、『ONE PIECE』などを思えばいいだろうか。(これは、うちの子どもが読み続けているので、全巻あるはずである。)
そういえば、NHKの人形劇の『八犬伝』は、昔、時々見ていたけれど、面白かった。こういうのを、もう一回リメイクしてできないかなと思う。
現在では、『南総里見八犬伝』の自筆稿本が、国立国会図書館のデジタルコレクションで、見ることができる。これは、昔は、学生にこういうものがあると教えたことがある。
どうでもいいことだが、最近、『べらぼう』にあやかって、江戸時代の戯作とか浮世絵についての番組が多い。これはいいとしても、見ていて、『手鎖心中』(井上ひさし)のことに誰も言及していない。私ぐらいの世代だと、江戸時代の戯作者の世界を描いた小説として、学生のときに読んだものであるが。これは、もう読まれない作品になってしまったのだろうか。Amazonを見てみると、文庫本は売っていないらしい。また、『戯作三昧』(芥川龍之介)などは、今の若い人は読むだろうか。
2025年1月10日記
英雄たちの選択 筆一本で乗り越えろ!作家・滝沢馬琴の奮闘
この時期に馬琴をとりあげるのも、やはり『べらぼう』にあやかってという企画なのかなとは思う。
まず気になったのは、この回のタイトルである。馬琴について、滝沢馬琴というか、曲亭馬琴というか、微妙に立場が別れる。読本の作者ということに焦点をあてれば、曲亭馬琴ということになるはずだが、ここでは、滝沢馬琴といっている。その理由は、番組を見ていて理解できる。
武士である滝沢の家を背負った存在としての馬琴の生き方、ということを考えている。これも、一つの見方だろうと思う。
磯田道史は、子どものときに『八犬伝』を読んだと言っていたが、どの本で読んだのだろうか。今なら、『南総里見八犬伝』は、岩波文庫、新潮日本古典集成などで、新しい校訂本で読むことができる。古典のテキストについては、どの校訂本で読んだのか、明らかにするのが普通であるが(国文学、日本文学の分野としては。)あるいは、板本で読んだということなのだろうか。これは、子どもが読むには難しいと思うけれど、もしそうなら、これはすごい。
現在では、『南総里見八犬伝』をもとに、マンガ版が作られているし、著名なところでは、山田風太郎の『八犬伝』がある。(これは、山田風太郎の伝奇小説というべきで、八犬伝のストーリーと、馬琴の人生とを、交互に描いて、一つの作品にしてある。)
この時代の戯作、黄表紙や読本についての文学史的な概説がまず必要ということになる。蔦屋重三郎の時代であり、それから、少しくだったころまで、になる。
黄表紙が基本的に平仮名表記で、絵と一緒になった文章であったのに対して、読本になると、漢字が増える。そして、総ルビというわけではない。このことについては、日本語学として表記研究の分野として、どの漢字にどう振り仮名があり、無い場合はどうなのか、ということが研究課題になる。これは、これらの作品の読者のリテラシについて考えるこになる。
馬琴については、原稿料で生活できた作家のはじめ、ということで語られることが多い。また、晩年、失明してからは、息子の嫁のお路による口述筆記であったことも、知られていることである。それから、作家として生きていくために、武士の身分から、町人になったことも重要だろう。
馬琴にとって、武士としての滝沢の家を残すことは、意味があったことになる。江戸に居住する武士としては、最下層の身分ではあるが、容易には捨てがたいものだったのだろう。
このあたりのことは、山東京伝をはじめとして、他に生計のたづきをもっていた戯作者などをふくめて、この時代の人びとを総合的に考える必要があることになる。
江戸時代の後期になって登場する豪商や豪農という人びとが何を考えて、どれぐらいの社会的影響力を持っていたのか、これは、興味のあるところである。おそらく、近代へとつながる何かがあるはずである。(ただ、この観点からは、島崎藤村の『夜明け前』の主人公の青山半蔵のような存在も、考えてみたいところである。)
ところで、『南総里見八犬伝』の読者の近代史ということは、どれぐらい研究されているのだろうか。普通の文学史で語ると、江戸時代の読本というなかに位置づけられるのだが、その読書の歴史は、近代にまで及んでいる。読まれ続けている。(調べれば、しかるべき研究論文はあるのだろうと思うけれど、もうリタイアした身としては、調べてみようという気にならないでいる。)
「八犬伝」の物語が、超自然的ななにかにみちびかれた少年たちの友情の物語である……ということは、たしかにそのとおりであろう。私は読んでいないが、『ONE PIECE』などを思えばいいだろうか。(これは、うちの子どもが読み続けているので、全巻あるはずである。)
そういえば、NHKの人形劇の『八犬伝』は、昔、時々見ていたけれど、面白かった。こういうのを、もう一回リメイクしてできないかなと思う。
現在では、『南総里見八犬伝』の自筆稿本が、国立国会図書館のデジタルコレクションで、見ることができる。これは、昔は、学生にこういうものがあると教えたことがある。
どうでもいいことだが、最近、『べらぼう』にあやかって、江戸時代の戯作とか浮世絵についての番組が多い。これはいいとしても、見ていて、『手鎖心中』(井上ひさし)のことに誰も言及していない。私ぐらいの世代だと、江戸時代の戯作者の世界を描いた小説として、学生のときに読んだものであるが。これは、もう読まれない作品になってしまったのだろうか。Amazonを見てみると、文庫本は売っていないらしい。また、『戯作三昧』(芥川龍之介)などは、今の若い人は読むだろうか。
2025年1月10日記
ねほりんぱほりん「ポイ活で夢をかなえた人」 ― 2025-01-14
2025年1月14日 當山日出夫
ねほりんぱほりん ポイ活で夢をかなえた人
私の場合、ポイントがたまっているのは、Amazonとヨドバシカメラだけなのだが、これは別にポイントをためようとしてのことではなく、ものを買う窓口を制限して、履歴で何を買ったか分かるようにしておきたいと思った結果である。たまったポイントは、時々、使うことにしている。
ポイ活だけで生活できるほど収入を得ることができるとは思わなかった。よのなかの仕組みとして、ポイント還元ということがある以上、それをたくみに使って生きていくというのも、まあ、ありなのだろうと思うぐらいである。ただ、番組のなかでも登場したブタが言っていたように、職業をきかれて、ポイ活です、とは言いにくいだろうなあ、とは思う。
番組で紹介していたのは、日本国内で公正なルールにもとづいた事例ということになる。これも、オンラインで世界とつながる時代では、違法なことも多々あるにはちがいないとは想像してみる。(そういうのは、この番組としては取りあげることはできないだろうが。)
ただ、一般論としてということにはなるが、労働とは何かとか、職業とは何か、というような問題を考える、一つの入り口としてこういう事例のことも、考えてみる必要があることにはなるだろう。まあ、私としては、特にまねしてみたいとは、まったく思わないけれど。ポイントとは関係なく、必要なものを必要なときに買うことができれば、それでいいと思っている。
2025年1月11日記
ねほりんぱほりん ポイ活で夢をかなえた人
私の場合、ポイントがたまっているのは、Amazonとヨドバシカメラだけなのだが、これは別にポイントをためようとしてのことではなく、ものを買う窓口を制限して、履歴で何を買ったか分かるようにしておきたいと思った結果である。たまったポイントは、時々、使うことにしている。
ポイ活だけで生活できるほど収入を得ることができるとは思わなかった。よのなかの仕組みとして、ポイント還元ということがある以上、それをたくみに使って生きていくというのも、まあ、ありなのだろうと思うぐらいである。ただ、番組のなかでも登場したブタが言っていたように、職業をきかれて、ポイ活です、とは言いにくいだろうなあ、とは思う。
番組で紹介していたのは、日本国内で公正なルールにもとづいた事例ということになる。これも、オンラインで世界とつながる時代では、違法なことも多々あるにはちがいないとは想像してみる。(そういうのは、この番組としては取りあげることはできないだろうが。)
ただ、一般論としてということにはなるが、労働とは何かとか、職業とは何か、というような問題を考える、一つの入り口としてこういう事例のことも、考えてみる必要があることにはなるだろう。まあ、私としては、特にまねしてみたいとは、まったく思わないけれど。ポイントとは関係なく、必要なものを必要なときに買うことができれば、それでいいと思っている。
2025年1月11日記
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