ダークサイドミステリー「悪魔はいた!? 世界衝撃のエクソシスト裁判〜誰が少女を殺したのか?〜」 ― 2025-04-29
2025年4月29日 當山日出夫
ダークサイドミステリー 悪魔はいた!? 世界衝撃のエクソシスト裁判〜誰が少女を殺したのか?〜
今の日本での常識からすれば、妥当な結論になっている。
いろいろと面白いこともある。
まず、本当にエクソシストというのがいて、バチカンから公認されているということがある。それから、悪魔には、いろんな固有名がある、ということを知った。現代では、ヒトラーも悪魔になるらしい。いかにもドイツということを感じる。
日本でも、さまざまな憑依現象はあり、いろいろと解釈がなされてきている。これも、私の考えるところとしては、人間が精神的な病気になるとしても、その症状の現れ方、その病気の自覚のしかた、周囲の人たちの認識、これらには、文化的な枠組みが大きく作用するだろう、ということである。
ドイツ南部のカトリックの信仰の強い地域で、厳格な教育のもとに育った女性として、自分に悪魔がとりついて、自分は犠牲になる……こう意識することになったとしても、これはこれで自然なことだろう。というよりも、人間とは、文化的な伝統や価値のなかにしか、生きることができないものである、と考えるべきだろう。それに対して、精神医学が、どのようにかかわることが可能なのか、ということは、かなりむずかしい問題かもしれない。また、(文化的な環境のなにしか存在することができない)人間にとって、「正常」な判断能力とは、いったい何なのであろうか。これは、人間の自由意志とは何であるかということにもおよぶ、非常に困難な問題であると、私は考える。
すくなくとも、この事例のように、カトリックの強い文化的環境のなかにおいては、エクソシストも、ある意味では社会的に必要な存在である、それでなければ、その病気(この場合は、悪魔にとりつかれた、であるが)が、治療できないということは、認めてもいいように思う。一般の医療の専門家と共同するかたちでの関与は必要であるともいっていいだろう。
人間の善意が積み重なって、それが結果的に大きな悪になってしまう、ということは、歴史的にはいくらでもあるだろう。いや、人間の歴史とはそういうものであったと考えた方がいいと思うし、人間はいくらでも善意の意識のもとに、悪いことをしてしまうものなのである。
2025年4月24日記
ダークサイドミステリー 悪魔はいた!? 世界衝撃のエクソシスト裁判〜誰が少女を殺したのか?〜
今の日本での常識からすれば、妥当な結論になっている。
いろいろと面白いこともある。
まず、本当にエクソシストというのがいて、バチカンから公認されているということがある。それから、悪魔には、いろんな固有名がある、ということを知った。現代では、ヒトラーも悪魔になるらしい。いかにもドイツということを感じる。
日本でも、さまざまな憑依現象はあり、いろいろと解釈がなされてきている。これも、私の考えるところとしては、人間が精神的な病気になるとしても、その症状の現れ方、その病気の自覚のしかた、周囲の人たちの認識、これらには、文化的な枠組みが大きく作用するだろう、ということである。
ドイツ南部のカトリックの信仰の強い地域で、厳格な教育のもとに育った女性として、自分に悪魔がとりついて、自分は犠牲になる……こう意識することになったとしても、これはこれで自然なことだろう。というよりも、人間とは、文化的な伝統や価値のなかにしか、生きることができないものである、と考えるべきだろう。それに対して、精神医学が、どのようにかかわることが可能なのか、ということは、かなりむずかしい問題かもしれない。また、(文化的な環境のなにしか存在することができない)人間にとって、「正常」な判断能力とは、いったい何なのであろうか。これは、人間の自由意志とは何であるかということにもおよぶ、非常に困難な問題であると、私は考える。
すくなくとも、この事例のように、カトリックの強い文化的環境のなかにおいては、エクソシストも、ある意味では社会的に必要な存在である、それでなければ、その病気(この場合は、悪魔にとりつかれた、であるが)が、治療できないということは、認めてもいいように思う。一般の医療の専門家と共同するかたちでの関与は必要であるともいっていいだろう。
人間の善意が積み重なって、それが結果的に大きな悪になってしまう、ということは、歴史的にはいくらでもあるだろう。いや、人間の歴史とはそういうものであったと考えた方がいいと思うし、人間はいくらでも善意の意識のもとに、悪いことをしてしまうものなのである。
2025年4月24日記
英雄たちの選択「追跡!紀伊国屋文左衛門〜伝説の豪商と元禄バブル〜」 ― 2025-04-29
2025年4月29日 當山日出夫
英雄たちの選択 追跡!紀伊国屋文左衛門〜伝説の豪商と元禄バブル〜
紀伊国屋文左衛門にまつわる伝説はいろいろとあり、私も知っている。ミカンの話しは、本当のことだと思っていた。このごろでは否定されていることになるが。
いろいろと思うことはある。
この回は、紀伊国屋文左衛門の話をしながら、同時に、近世の経済と貨幣の話でもあった。また、江戸時代のビジネスモデルの話とも理解できる。
歴史学者、そのなかでも、経済史という分野を研究している研究者は、貨幣とはいったいなんだと思っているのだろうか。貨幣経済の発展、ということばは、学生のころから歴史を語る場合には、よく目にすることばなのだが、経済にとって、また、経済史の視点からは、貨幣とはいったい何なのだろうか。
紀伊国屋文左衛門が、貨幣……宝永通宝……にかかわったとして、その背景にある、当時の経済事情はどんなものだったのだろうか。おそらくは、日本国内における経済と、東アジアにおける経済圏、この両方から見て、金、銀、銅、これらの生産と、貨幣の流通、こういうことを総合的に考えることになるのだろうと思う。
常識的に考えて、貨幣を改鋳して、金・銀の含有量を減らして、額面だけ同じで流通させようとするなら、インフレになる。寛永通宝の十倍の価値(額面)の貨幣を無理に鋳造して市場にばらまいても、それが経済のなかでうまく回るかどうか。今なら、日銀が市場の貨幣を順次回収して置き換えていくということになるだろうと思うのだが。市場に流通する貨幣の額面の総量に、急激な変化がおきないようにするだろう。
材木商がもうかる商売であったかどうか。ここはどうだろうか。紀伊国屋文左衛門の時代であれば、幕府の公共事業がたくさんあって、それに政商としてくいこんで、投機的なビジネスで大もうけする……ということは、ありえたかもしれない。しかし、いくら大規模な建築といっても、寛永寺とか、湯島聖堂とか、これぐらいの工事で、そんなに巨額の費用が動いたのだろうか。決して安いものではなかったことはたしかだが。これは、その時代の経済規模からすれば、ということになるのかもしれないが。
どれぐらい稼いだかを当時のGDPに比較するというのは、興味深いことではあるが、GDPが、どれぐらい、その当時の人々の生活のありさまを反映したものだったかということは、気になる。農業などが中心であった生活において、GDPが大きいから豊かであった、とはならないかもしれない。
それよりも気になるのは、江戸時代における林業の歴史である。材木商がもうかるためには、江戸の町が火事になったり、幕府の公共事業があったりということの需要と同時に、その材木を供給する山林の存在がなければならない。木材用の樹木は、生育に数十年はかかる。山林の維持管理ということ、林業という経済と、材木商というビジネスは、どういう関係にあったのだろうか。また、山奥から大きな木材を切り出して、運ぶということは、実際にはどのように行われていたのだろうか。昔なら、川にいかだで流すということがあったかもしれない。現代であれば、まず、切った木を輸送する林道の整備が必要であり、木材に加工する工場が必要になる。
『夜明け前』(島崎藤村)など読むと、木曽の山林は、きわめて厳格に管理されて樹木は保護されてきていたらしい。実際に、江戸の町の建物……火事になって焼けて立て直す……の木材は、どこからどのようにして運ばれてきて、加工されて、建築資材になったのだろうか。
紀伊国屋文左衛門の政商としてのビジネスが終わって、次にあらわれてきたのが、三井などの新しいビジネスであった、ということになる。たしかに三井のビジネスは、現代にも続いているし、そのもとになる江戸時代の経営のあり方がどうであったかは、まさに注目されているところでもある。
荻原重秀の経済政策と新井白石。これは、田沼意次と松平定信、ということに重なるのかもしれない。江戸時代、積極的に経済にかかわろうとする立場と、いわゆる農本主義的に武士の時代を維持しようとする立場、江戸時代の思想史として、これは総合的にどう考えることになるのだろうか。同じようなことを繰り返したあげく、どうにもならなくなって幕末をむかえることになった、と思えるが。
磯田道史が言っていたことだが、江戸の町の人口は、元禄時代でのぼりつめる。その後は、その規模を維持する方向になっていく。町が大きくなるときの流れに乗ってかせいだのが、紀伊国屋文左衛門ということになる。これはそのとおりなのだろう。だが、それからのことを考えると、江戸の人口がもうあまり大きくならなくなってから、江戸を中心とした文化が花開いたということになる。人口の動態と、都市の形成、そして、そこでの文化活動、これらの関係は、いろいろと興味深いところがあるかと思う。
吉原を舞台にした逸話が多くのこっているということは、これは、吉原がかなり特殊な場所であったということになる。たしかに悪所であったにはちがいないが、ただ、それだけの場所ではなかった。
それから、お金持ちがどういうふうに財産を散財していったのか、その文化史というようなものがあると面白い。吉原での豪遊は、その場合、どう考えることになるだろうか。
2025年4月25日記
英雄たちの選択 追跡!紀伊国屋文左衛門〜伝説の豪商と元禄バブル〜
紀伊国屋文左衛門にまつわる伝説はいろいろとあり、私も知っている。ミカンの話しは、本当のことだと思っていた。このごろでは否定されていることになるが。
いろいろと思うことはある。
この回は、紀伊国屋文左衛門の話をしながら、同時に、近世の経済と貨幣の話でもあった。また、江戸時代のビジネスモデルの話とも理解できる。
歴史学者、そのなかでも、経済史という分野を研究している研究者は、貨幣とはいったいなんだと思っているのだろうか。貨幣経済の発展、ということばは、学生のころから歴史を語る場合には、よく目にすることばなのだが、経済にとって、また、経済史の視点からは、貨幣とはいったい何なのだろうか。
紀伊国屋文左衛門が、貨幣……宝永通宝……にかかわったとして、その背景にある、当時の経済事情はどんなものだったのだろうか。おそらくは、日本国内における経済と、東アジアにおける経済圏、この両方から見て、金、銀、銅、これらの生産と、貨幣の流通、こういうことを総合的に考えることになるのだろうと思う。
常識的に考えて、貨幣を改鋳して、金・銀の含有量を減らして、額面だけ同じで流通させようとするなら、インフレになる。寛永通宝の十倍の価値(額面)の貨幣を無理に鋳造して市場にばらまいても、それが経済のなかでうまく回るかどうか。今なら、日銀が市場の貨幣を順次回収して置き換えていくということになるだろうと思うのだが。市場に流通する貨幣の額面の総量に、急激な変化がおきないようにするだろう。
材木商がもうかる商売であったかどうか。ここはどうだろうか。紀伊国屋文左衛門の時代であれば、幕府の公共事業がたくさんあって、それに政商としてくいこんで、投機的なビジネスで大もうけする……ということは、ありえたかもしれない。しかし、いくら大規模な建築といっても、寛永寺とか、湯島聖堂とか、これぐらいの工事で、そんなに巨額の費用が動いたのだろうか。決して安いものではなかったことはたしかだが。これは、その時代の経済規模からすれば、ということになるのかもしれないが。
どれぐらい稼いだかを当時のGDPに比較するというのは、興味深いことではあるが、GDPが、どれぐらい、その当時の人々の生活のありさまを反映したものだったかということは、気になる。農業などが中心であった生活において、GDPが大きいから豊かであった、とはならないかもしれない。
それよりも気になるのは、江戸時代における林業の歴史である。材木商がもうかるためには、江戸の町が火事になったり、幕府の公共事業があったりということの需要と同時に、その材木を供給する山林の存在がなければならない。木材用の樹木は、生育に数十年はかかる。山林の維持管理ということ、林業という経済と、材木商というビジネスは、どういう関係にあったのだろうか。また、山奥から大きな木材を切り出して、運ぶということは、実際にはどのように行われていたのだろうか。昔なら、川にいかだで流すということがあったかもしれない。現代であれば、まず、切った木を輸送する林道の整備が必要であり、木材に加工する工場が必要になる。
『夜明け前』(島崎藤村)など読むと、木曽の山林は、きわめて厳格に管理されて樹木は保護されてきていたらしい。実際に、江戸の町の建物……火事になって焼けて立て直す……の木材は、どこからどのようにして運ばれてきて、加工されて、建築資材になったのだろうか。
紀伊国屋文左衛門の政商としてのビジネスが終わって、次にあらわれてきたのが、三井などの新しいビジネスであった、ということになる。たしかに三井のビジネスは、現代にも続いているし、そのもとになる江戸時代の経営のあり方がどうであったかは、まさに注目されているところでもある。
荻原重秀の経済政策と新井白石。これは、田沼意次と松平定信、ということに重なるのかもしれない。江戸時代、積極的に経済にかかわろうとする立場と、いわゆる農本主義的に武士の時代を維持しようとする立場、江戸時代の思想史として、これは総合的にどう考えることになるのだろうか。同じようなことを繰り返したあげく、どうにもならなくなって幕末をむかえることになった、と思えるが。
磯田道史が言っていたことだが、江戸の町の人口は、元禄時代でのぼりつめる。その後は、その規模を維持する方向になっていく。町が大きくなるときの流れに乗ってかせいだのが、紀伊国屋文左衛門ということになる。これはそのとおりなのだろう。だが、それからのことを考えると、江戸の人口がもうあまり大きくならなくなってから、江戸を中心とした文化が花開いたということになる。人口の動態と、都市の形成、そして、そこでの文化活動、これらの関係は、いろいろと興味深いところがあるかと思う。
吉原を舞台にした逸話が多くのこっているということは、これは、吉原がかなり特殊な場所であったということになる。たしかに悪所であったにはちがいないが、ただ、それだけの場所ではなかった。
それから、お金持ちがどういうふうに財産を散財していったのか、その文化史というようなものがあると面白い。吉原での豪遊は、その場合、どう考えることになるだろうか。
2025年4月25日記
ブラタモリ「伊勢神宮への旅・第四夜▼江戸を席巻した松阪商人!松阪牛に舌鼓」 ― 2025-04-29
2025年4月29日 當山日出夫
ブラタモリ 伊勢神宮への旅・第四夜▼江戸を席巻した松阪商人!松阪牛に舌鼓
この回は、津観音と松阪。
津というところは、いつも伊勢に行くとき、伊勢自動車道でとおりすぎるだけである。津の町には行ったことがない。
藤堂高虎が城を作って、伊勢街道を、その城下町の中をとおるようにした、ということだった。江戸時代の初めごろの城下町の作り方として、一般的に見てどうなのだろうか。
津観音が、阿弥陀仏でもあり、それは、天照大神の本地でもある。これは、その時代の信仰のありかたとしては、普通のことだったろうと思う。
松阪の街が木綿で栄えたということは、知ってはいたが具体的にイメージしたことはなかった。松阪木綿は、今にいたるまで地域の名産でありつづけている。
だが、この地域で木綿栽培がさかんになったのは、どういう理由によるものなのだろうか。おそらくは、地質や水利、それから、加工と販売ルートの確立ということがあったはずである。(以前のブラタモリなら、なぜ松阪で木綿栽培が盛んになったのか、ということで時間を使っていただろうと思うが、リニューアルして、こういうことがなくなった。)
私の関心として、興味があるのは、松阪といえば、本居宣長の生活した土地としてである。一〇年ほど前になるだろうか、本居宣長記念館は行った。伊勢神宮に行った帰り道に、どうしてもここは行っておきたいところであったので、行くことにした。国語学というような勉強をしていると、鈴の屋というのは、一種の聖地のようなものである。この家で、『源氏物語』を読み、『古事記伝』を書いたのかと、いろいろと感慨深い。
本居宣長のことを思うと、その研究をささえた地域の経済力と、全国との文化的な流通通信網(書籍の入手や、門人たちとの通信)ということになる。また、この地域の文化水準の高さということでもある。それは、この地域が、木綿産業で経済的に豊かな土地であったから、ということになるのかと思う。
それから、気になったこととして、松阪木綿は藍染めであったのだが、その藍は、阿波藍でいいのだろうか。藍の流通ルートと、木綿の栽培と、染色、機織りの産業、これを江戸にはこんで商売をする商人のちから……こういうものが、新しい近世の経済人としての三井家を作ってきたもとにあった、こんなふうに考えていいのかとも思う。
2025年4月28日記
ブラタモリ 伊勢神宮への旅・第四夜▼江戸を席巻した松阪商人!松阪牛に舌鼓
この回は、津観音と松阪。
津というところは、いつも伊勢に行くとき、伊勢自動車道でとおりすぎるだけである。津の町には行ったことがない。
藤堂高虎が城を作って、伊勢街道を、その城下町の中をとおるようにした、ということだった。江戸時代の初めごろの城下町の作り方として、一般的に見てどうなのだろうか。
津観音が、阿弥陀仏でもあり、それは、天照大神の本地でもある。これは、その時代の信仰のありかたとしては、普通のことだったろうと思う。
松阪の街が木綿で栄えたということは、知ってはいたが具体的にイメージしたことはなかった。松阪木綿は、今にいたるまで地域の名産でありつづけている。
だが、この地域で木綿栽培がさかんになったのは、どういう理由によるものなのだろうか。おそらくは、地質や水利、それから、加工と販売ルートの確立ということがあったはずである。(以前のブラタモリなら、なぜ松阪で木綿栽培が盛んになったのか、ということで時間を使っていただろうと思うが、リニューアルして、こういうことがなくなった。)
私の関心として、興味があるのは、松阪といえば、本居宣長の生活した土地としてである。一〇年ほど前になるだろうか、本居宣長記念館は行った。伊勢神宮に行った帰り道に、どうしてもここは行っておきたいところであったので、行くことにした。国語学というような勉強をしていると、鈴の屋というのは、一種の聖地のようなものである。この家で、『源氏物語』を読み、『古事記伝』を書いたのかと、いろいろと感慨深い。
本居宣長のことを思うと、その研究をささえた地域の経済力と、全国との文化的な流通通信網(書籍の入手や、門人たちとの通信)ということになる。また、この地域の文化水準の高さということでもある。それは、この地域が、木綿産業で経済的に豊かな土地であったから、ということになるのかと思う。
それから、気になったこととして、松阪木綿は藍染めであったのだが、その藍は、阿波藍でいいのだろうか。藍の流通ルートと、木綿の栽培と、染色、機織りの産業、これを江戸にはこんで商売をする商人のちから……こういうものが、新しい近世の経済人としての三井家を作ってきたもとにあった、こんなふうに考えていいのかとも思う。
2025年4月28日記
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